親 王 の 間

 
みどころ

● この「間」に展示されているのは、これまでとはひと味もふた味も違う、サラリーマンの見方から『記紀』編纂の謎に挑んだ記録です。

 @ 天武十年(681)三月、川嶋皇子ら12名に下された詔は、『書紀』編纂を命じたものなのか

 A『書紀』はどのようなもくろみをもって編纂されたのか

 B『書紀』と『古事記』は別々の書なのか

 C『書紀』と『古事記』が編纂される上で舎人親王はどんな役割を果たしたのか

 などなど、『記紀』を一体のものとして把握する必要を訴えています。

● 従来の説と大きく違うので、説明が少し長くなりますが、じっくり観てください。

● なお、従来の説は、「書籍の間」に展示してあります。ご覧下さい。


 
 はじめに
 第一部 天武十年三月の詔と『書紀』編纂
 
第二部 『書紀』の紀年延長と『古事記


 はじめに

『書紀』編纂の過程について、大系本の解説には次のようにあります。

  【『書紀』のでき上がった時は、『続日本紀』養老四年(720)五月癸酉の条に、「先是一品舎人親王奉勅修日本紀。至是功成奏上。紀卅巻系図一巻」とあって、明瞭である。ただ、ここに至るまでにどのような編纂の過程があったか、これより8年前の和銅五年(712)にでき上がった『古事記』の撰録と、どういう関係にあったかという点になると、資料が乏しいため的確なことがわからない。古来多くの学説が入り乱れて定説を得ない状態である。】

● また『記紀』二書の相互関係について梅沢伊勢三氏は、

 @ どうして同時代にこのように似て非なる二つの書物が同じ朝廷の下で、相次いでつくられたのか。

 A なぜ『記紀』の記述は違うのだろうか。その違う理由は何なのだろうか。

 B なぜ両書はお互いに相手の存在を無視するような形になっているのだろうか。

 という、誰でもが気づく初歩的な疑問にすら未だに答えられていない、としています。

● これまでの展示で、『書紀』は一旦神武即位西暦99年として完成したものを、建国の歴史を長くするためそれを書き直すという二段階で編纂されたと見られること(「隠蓑の間」)や、雄略紀と継体紀で天皇の抹殺がおこなわれているのに『記紀』の歴代が一致しているのは、古事記が『書紀』より後で編纂されたと考えられること(「殺戮の間」)など、『記紀』編纂に関わるいくつかのことを明らかにしてきました。

● これらのことを踏まえ、『記紀』編纂の過程と二書の相互関係について推理してみました。


第一部 天武十年三月の詔と『書紀』編纂



 詔の目的

● 天武は十年(681)二月に【律令を定めること】を詔勅したのに続いて三月には川嶋皇子ら12名に【帝紀および上古の諸事記定】を命じています。

『書紀』には【天武天皇十年三月十七日、天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・上毛野君三千・忌部連首・阿曇連稲敷・難波連大形・中臣連大嶋・平群臣子首ら十二人に詔して、帝紀および上古の諸事を記し校定させられた。大嶋・子首が自ら筆をとって記した】とあります。

● 一般にこの詔勅は国史編纂を命じたものとされています。詔を受けて川嶋皇子らは【帝紀および上古の諸事を記し校定した】のですが、【当初は『書紀』のような史書の形式が構想されていなかったので、作業は帝紀と旧辞の記定という資料の整備に留まって、天武の代では完成しなかったが、代々事業を進めていくうちに構想も固まって『書紀』となって結実した】と岩波大系本はいいます。しかし、こうした見方に対して、サラリーマンの感覚から疑問を持ちました。

● 疑問の第一は、天皇が12名もの高官を呼び集め、詔勅を下したことです。国史編纂のような仕事なら、最高責任者だけ指名し、あとの人選は責任者がすれば足りることです。大勢のメンバーに直接命じたら、事業が混乱してしまいます。わざわざ12名もの高官を呼んで直接任命の詔を下したのは、かれらは特命のプロジェクトチームであって、その任務は機密事項を扱うなど、一般の官人には任せられない性質のものだったと推定されます。作業の遂行にあたって【高官自ら筆を執って記した】とあることも、この見方を裏付けてくれます。

● つぎは、高官を12名も集めて詔が下された事業が【資料の整備に留まった】などということは、勅命の事業としては許されないということです。サラリーマンならクビが飛びます。

● 
もうひとつは、【当初は『書紀』のような史書の形式が構想されていなかった】といいますが、もし国史編纂のプロジェクトが立ち上げられたのであれば、最初におこなうのが史書の全体構成を検討することのはずで、【代々事業を進めていくうちに構想も固まって】来るものではありません。全体構想が描かれないままに、作業を進めるなどということは、たとえ古代であっても国家事業の進め方として考えられません。

● 以上のことから、12名に下された詔は国史編纂とは別なものだと考えました。


 
プロジェクトチームの役割は「八色の姓」制定

● 天武が川嶋皇子らに命じた【帝紀と旧辞を記定する】作業は、通説のいうように国史編纂を目指したものではなく、3年後の天武十三年(684)に制定された「八色の姓」のためだというのがわたしの結論です。かれらは3年で命じられたことへの結果を出したのです。そのことは、『古事記』の序にある天武の言葉が示しています。この言葉は『古事記』の序にあるのですが、天武十年三月の詔【帝紀および上古の諸事記定】の目的を詳しく述べたものと考えてよいと思います。

【朕が聞いていることには、諸々の家に持ち伝えている帝紀と本辞とは、すでに真実の内容とは違い、多くの虚偽を加えているという。今、この時にその誤りを改めないかぎり、何年も経たないうちに、その本来の意図は滅び去ってしまうであろう。これらの伝えは、すなわち我が朝廷の縦糸と横糸をなす大切な教えであり、人々を正しく導いてゆくための揺るぎない基盤となるものである。そこで、よくよく思いめぐらして、帝紀を撰び録し、旧辞を探し求めて、偽りを削り真実を定めて後の世に伝えようと思う。】


● 津田左右吉氏は【天武は、諸家の伝えている帝紀・本辞が区々になっていて誤謬も多いから、それを討覈して正説を定めようと考えた】としています。

● 帝紀・本辞は歴史です。その歴史が区々になっているから正説に統一しよう、というのはわかりますが、天武は、現状のままにしておけば【その本来の意図は滅び去ってしまう】といっています。【本来の意図】を持つ歴史とはどのようなものなのでしょうか。

● また帝紀・本辞は【我が朝廷の縦糸と横糸をなす大切な教え】であり、【人々を正しく導いてゆくための基盤となるもの】ともいっています。ふつう、歴史は「参考」にされることはあっても、国家経営の基盤とされるほど重要な役割を持つものではありません。

● そこで見方を変えて、当時の朝廷の「縦糸と横糸」となり、「人々を正しく導いてゆくための基盤」とするものは何だったのかを考えてみることにします。

● 当時は天皇家を中心とし、天皇家との関係の濃淡によって序列が決められる社会であったとされます。天皇家との関係はいい換えれば、天皇家と諸家の間の歴史です。諸家の社会的地位を決定する要因として、歴史が大きな役割を持っていたのです。つまり歴史の【本来の意図】は諸家の社会的序列を決定することにあったのです。

● このような歴史は過去のある時(欽明朝の頃だろうか)成文化され、諸家が持つようになったのでしょうが、系譜が諸家の社会的地位を左右するのですから、諸家も自らが有利になるように【虚偽を加える】例が多々あったのです。それが年月を経るうちに【本来の役割を果たせなくなるおそれがある】ほどになってしまっていたのです。津田氏は「誤謬」としていますが、天武は「虚偽」といっています。

● このようなことから推して、天武がいうのは『我がヤマト国において、家系は朝廷に於ける諸家の地位を決め、国家の秩序を保つための重要な基準であるにもかかわらず、諸家において改ざんが加えられており、このまま放置すれば本来の目的に使えなくなってしまう。諸家の記録を調査して正しいものに改め、今後虚偽を加えることのできないように国が管理する体制にせよ』ということです。

● このように、川嶋皇子ら12名の任務は、虚偽が多くなってしまった【諸々の家に持ち伝えている系譜】の【偽りを削り真実を定める】ことだったのです。

● さらに【削偽定実】をおこなっただけでは何の役にも立ちません。その結果をふまえて諸家の位置づけを再編成する、という「実体の変革」をおこなわなければなりません。社会的地位が家系(天皇家との関係)によって決まる当時にあって、家系の見直しは当然に社会的地位の変更に直結するし、させなければならないのです。その一連の政治改革をおこなうのが川嶋皇子らに課せられた任務であって、単に帝紀と旧辞を書き留めることが目的ではなかったのです。

● 川嶋皇子らが記定したとされる帝紀と旧辞が『書紀』の核心となる重要なものであるのは異論のないところですが、かれらの作業は国史編纂につながる一つのステップではあっても、国史編纂をかれらの主業務とみるのは皮相的に過ぎると思います。


『書紀』は改革された実体を伝えるためのもの

『書紀』編纂の目的について大系本解説に【記紀の編纂が、律令機構確立期における天皇制国家の支配者たちの政治的要求を根本動機としていることは、『古事記』序文からも窺われる】とあるように、国史によって律令機構確立に影響を及ぼそうとして『書紀』編纂が目論まれたとするのが通説です。

● しかし、『書紀』はあくまで書き物です。たとえ帝紀と本辞を文章の上で【偽りを削り真実を定め】、国史を編纂したとしても、それだけでは、まさに絵に画いた餅で、実体を変えることはできません。

● 書き物で政治的要求を満たすことを企図するのは思想家・啓蒙家のすることで、政治家のすることではありません。政治家は政治的権力によって問題解決を図ります。政治家であり最高の権力者である天武が国史にそのような力を期待することは、まずあり得ないことです。国史に書くより先に【削偽定実】した結果を基に系図を正しいものにつくり変え、その系図に即して実体を改めておかねばなりません。

【削偽定実】は帝紀・本辞の変造という不正手段によって地位を得た者は、本来の地位に戻すということです。天武の施政方針は「実体の改革」が中心で、国史編纂が実体改革に先行することはありません。684年に施行された「八色の姓制度」はその「実体の改革」なのです。720年に完成した「紀卅巻系図一巻」に記された系譜はこのときの資料を基にしていることは当然で、いわば『書紀』はヤマト国家が公認した系譜集なのです。国史に系図が添えられたことの意味は軽視できません。

● 無論【削偽定実】の段階で諸家の持つ帝紀と本辞が偽りであることが発覚しても、実体を優先させなければならないケースもあったとは思いますが、それはそれとして国家が認めた系図なのです。12名の高官たちは諸家と個別に折衝をおこない、諸家の言い分を聞き取り、系譜上の不備を糺し、場合によっては辻褄合わせの手助けをしたり、それが出来ない場合は家格を変更したり、という作業をおこなったのです。現代の『書紀』研究で明らかにされている系譜上の造作は、諸家が独断でおこなったのでなく、プロジェクトチームと綿密な打ち合わせをおこない、双方が納得してつくりあげたもので、いわば公認された造作というべきものだと考えています。

● 古代氏族のデータベースを作成した高橋啓二氏によれば、【氏族の祖先の系統で分類するとき、『書紀』では「臣」「連」「君」「公」「直」「別」という姓の呼称に、厳格なルールの適用されていることがわかる。「臣」は開化天皇以前の皇別氏族(崇神で統一される以前の、神武系とは異なる大和地方の王族と見られる。いわば外様大名である。あるじ註)の姓であり、「連」は神別氏族(いわば譜代の大名だろう。あるじ註)の、「君」は崇神天皇以降応神天皇以前の皇別氏族の、「公」は応神天皇以降の皇別氏族の、「別」は地方の景行天皇系豪族(擬制的同祖関係で取り込んだ、地方の氏族と見られる。あるじ註)の姓である】ということです。『書紀』でこのように厳格なルールが適用されているのは、川嶋皇子らの作業により、それまでの乱れていた系譜を整理した結果と推察されます。

『書紀』は単なる歴史を記述した書ではなく、編纂時現在のヤマト政権・朝廷に関わる人たちの出自を明らかにする役割をもっているのです。したがって天皇の系譜は代々が時系列的に記述されていますが、その他の氏族は一足飛びに始祖にいってしまいます。途中の系譜はなくてもかまわないのです。さらに姓をみればその祖系統が一目瞭然となるようにしたのが「八色の姓」なのです。

● しかし、「厳格なルール」によって身分を落とされた氏族は、その後旧来の身分を復活しようといろいろ画策したと見られます。九世紀後半頃にできた『新撰姓氏録』では復活するだけでなく祖系を変えているケースもみられるということで、こうした復活のためには『書紀』の「系図一巻」は非常に邪魔になったでしょう。系図一巻がなくなったのは、こうした理由からではないかと考えています。


 
国史編纂は後で決まった

● 681年の時点で天武が国史の編纂を意識していたか疑問があります。天武が目指していたのは律令国家の建設です。律令は器ですから、その中に盛る諸官人の選任が天武にとって喫緊の課題だったのでしょう。それまで諸豪族により運営されてきた国家システムを律令という新しいシステムに改革するに当たって、従来の諸豪族以外の家系の人々を受け入れるためには、選考の基準となる諸家の序列を現実に即したものに改めると同時に、諸家の系譜を正しいものにしておくことが欠くべからざることで、そのことが『古事記』序にある詔となったのです。

● 天武の関心はあくまで官人登用の基準となる諸家の系譜を整備し、それを記録として残すことにより、国家として管理する体制、いわば人事管理システムをつくることにあったのです。天武は律令国家建設に向けて制度を整えることに最大の努力を傾注する実務家だったといえます。このことは、十一年八月二十二日条の【およそ諸の選考をおこなうには、よくその氏姓や成績を考えてきめよ。たとえ成績が著しく良くても、族姓のはっきりしない者は選ぶべきでない】という詔と、十三年におこなわれた「八色の姓制度」によって確かめられます。

● このように、天武が最初の段階から国史編纂を目指したと言うより、むしろ【削偽定実】した諸家の系譜を後世に伝えるための作業が歴史編纂と共通することから、国史を編纂しようという機運が高まり、『書紀』編纂に昇華していったと考えています。


『書紀』に登場する人物は実在した

● 津田氏が先鞭を付けて以来、『書紀』の歴代が編者により「つくられた」と論じられることが多いのですが、諸家が【持ち伝えている帝紀と本辞に多くの虚偽を加え】たのは、天皇家の系譜に何とか結びつけようとするためです。その大元になる天皇家の系譜に『書紀』編纂の段階で新たな天皇を造作して加えることなど、許されることではありません。新たな天皇を加えれば、その係累が出てきて、せっかく「八色の姓」として整理した系譜が再び虚偽に満ちたものに逆戻りしてしまいます。

『書紀』は「川嶋プロジェクトチームと諸家が合意に達した系譜」をそのまま記し、国家記録として後世に伝えるのがまず第一の役割なのです。プロジェクトチームと諸家の話し合いにより、諸家の始祖が天皇家から出自したとする擬制的同祖関係とする場合に、(孝元・開化・景行など)天皇ではなかった皇族や王を天皇だったとするケースはあったとみられますが、そのための人物を新たにつくり出すことはなかったと考えています。

● また古代には、歴代の墓所には管理者を置き、祭祀を欠かさなかったようですから、天皇を作ったとすれば、墓所の問題をどうするかも、造作が簡単でない一つの理由です。


『書紀』は公式の系譜集

『書紀』が成立後果たした役割について【特にそのような思想的意義(律令機構確立期における天皇制国家の支配者たちの政治的要求)において、支配者たちから政治的に利用せられた形跡は乏しい。氏姓をめぐる紛争について書紀を援引することが、平安初期における書紀の主たる「用」であり、天皇制自体安定した状態に入った平安期においては(中略)編纂に至るまでの動機から言えばむしろ第二次的な機能を期待されるにとどまった】(大系本解説)と、あたかも『書紀』は本来の用を為さなかったかのような見方もあります。

● 実体の改革がおこなわれた結果を伝えるのが本来の役割だという考えに立てば、【氏姓をめぐる紛争について書紀を援引すること】こそが『書紀』の第一次的な機能であって、そのように用いられたことは当時の人々が『書紀』に記載された系譜を信用していたことの証でもあります。


第二部 『書紀』の紀年延長と『古事記



『書紀』は紀年延長のため書き直された

『書紀』が完成したのは天武の詔勅から40年後の720年ですが、初めての国史編纂事業とはいえ、長すぎる年月です。まして、同じ681年に命じられた律令制度が701年に施行されているのです。国史編纂という机上の作業がこのように長引いたのに『続日本紀』などの国家記録がそのことにほとんど触れていないのは、「紀年の延長」という記録に残したくない事情から舎人親王が記録の抹消を命じたためだと考えています。

『書紀』三十巻のうち、雄略紀〜天智紀が700年前後までに完成している明証が挙げられています。
 
 森博達氏は次のように述べています。

 @ 『書紀』は中国語で書かれているが、巻三(神武紀)から巻十三(允恭・安康紀)には倭習(和製中国語)が多いことから倭人が翻訳したと見られる。巻十四(雄略紀)から巻二十七(天智紀)までは当時の中国で使われていた北方唐音が正確に使われているので、唐人が翻訳したと推定される。この翻訳者と見られる唐人二人が700年までに隠退もしくは死去しているので、雄略紀から天智紀は700年までに翻訳が完成していたと判断される。

 A 巻三から巻十三は700年以降になって編纂され、唐人がいなかったので倭人が翻訳した。

 もう一つは小川清彦氏がいう暦の問題です。

 @ 『書紀』は編年体を採り、全ての天皇の記事に年月日を記していますが、相次ぐ戦乱で天智以前の公式記録が失われてしまっていたので、天武紀と持統紀以外の年月日は『書紀』編纂の時につくられたものだといわれます。従って使われている暦は、編纂時期を示す重要な手がかりになります。

 A 古代の暦は精度が低いので、時々とり替える必要があり、701年の律令制定に向けて、直前の698年にそれまでの元嘉暦に代えて儀鳳暦が使われることになりました。ところが、時代の古い神武紀から允恭・安康紀(第三巻〜第十三巻)は新しく施行された儀鳳暦で記述され、近い時代の雄略紀以降(第十四巻〜第二十七巻)が古い元嘉暦で記述されるという具合に、暦が逆転しているているというのです。このことは、少なくとも巻三〜巻十三は暦が新しくなってから書かれたことは確実です。


● このように時代が逆転していることについて森氏は、最初雄略紀以降が編纂され、允恭紀より前の巻は700年以後に編纂されたとしていますが、「隠蓑の間」に展示してある「延長前の紀年」の存在は、巻三〜巻十三の紀年は最初から長かったのでなく、短い紀年から延長されたことを示していることや、国史の編纂目的が天皇家と諸家の関わりを歴史的に捉え、国家運営に役立てようということですから、国家草創からの歴史を欠いては無意味になってしまいます。700年までに雄略紀以降が完成していたのであれば、神武紀〜允恭紀もそのときまでに完成しているのが当然です。巻十三以前が700年以後になってから書かれたのであれば、一旦完成したものを書き直したと考える方が合理的です。

● 律令国家を目指していたヤマト国も、天武の詔勅からちょうど20年目となる701年を一つの画期とみなして、国史の編纂担当者も律令制度と国史を同時に発表することを狙っていたのでしょう。それが組織として当然のことで、国史編纂がひとまず完成していたとすれば、700年とするのが自然だと思います。編者は律令との同時撰上を目論み、700年、朝議に諮ったのですが、その朝議で「建国の歴史が短すぎる」として撰上が認められず、書き直しを命じられたのです。書き直しの理由ですが、紀年が延長されているのですから、「短かった」ためとするのが妥当と思います。

● 当時ヤマトは国の基礎も固まり、中国の冊封から脱けだし、国名を日本とするなど興隆期を迎えており、しかも長年の懸案であった律令公布を翌年に控えて意気の高揚した朝議の人にとって、半島諸国の建国(新羅 前57年、高句麗 前37年、百済 前18年)、とくに当時最も対抗意識の強かった新羅より150年以上短い99年建国という歴史は、とうてい我慢できるものではなかったのでしょう。


『書紀』の歴史延長は舎人親王の発議だ

『書紀』は舎人親王が総裁となって完成されたのですが、『続紀』は【先是一品舎人親王奉勅】とするだけで、いつ親王が総裁になったのか記していません。朝廷の史官が調べればすぐにわかるはずですが、それをしないで【先是】としているのは、親王が総裁に就いた経緯、総裁にならねばならなかった事情をはっきりさせたくないのではないかと思わせる書き方です。しかし、親王が総裁になった事情と時期は、『書紀』と『古事記』との関係を考える上でも重要な事柄なので、推理して見ることにします。

● 国史編纂スタート時トップだった川嶋皇子は691年(持統五)に没していますが、当時舎人親王は16歳(676年生まれ)ですからまだ総裁に任じられることはなかったでしょう。第一次『書紀』が一応の完成をみた700年ころ、親王は25歳、兄の草壁皇子、大津皇子がすでに没し、天武の皇子の筆頭として大きな影響力を持っていたと見られます。

● 第一次『書紀』に書いてある建国の歴史が短いといってダメが出されたとすれば、出したのは舎人親王でしょう。国の歴史を延長するという大それた考えは、天武の「真実を定め」という方針に反することで、親王以外の人が云い出せることではありません。また、そのダメに対して反対する人も、相手が舎人親王では云い出せなかったでしょう。

● そして、このような編纂方針の変更をおこなうのであれば、再編纂の総裁は舎人親王しかいないことになります。ほかの人がダメを出して、やり直しの総裁に親王を指名するようなことはあり得ないことですから、ダメは親王が出し、自分で総裁を引き受けたのです。親王は、ヤマトを中国ほどではないにせよ、少なくとも半島諸国より長い建国の歴史を持つ国にしたかったのです。国史を国威発揚に役立たせようという発想です。しかし、国史には国の正しい歴史を伝えるという重要な役割があります。この二つを同時に満足させるのは容易な仕事ではありません。20年の歳月を費やしてその難事を完遂させたからこそ人臣の最高位に昇り、崇道尽敬皇帝とされたのです。


『書紀・紀年』は海外向けダブルスタンダード

● 史書に対する見方は【古代の伝えを失わずあやまたず、後の世に伝えるためのもの】という本居宣長の言葉に代表されるでしょう。しかし国史の役割はそればかりではありません。時によっては国の威信を示すことが優先されることがあります。歴史における作為の多くはそのためにおこなわれるといっても過言ではありません。

『書紀』の紀年は「誤り」とされることが多いのですが、編者が「誤った」のではありません。『書紀』編纂は多くの人手と長年月を費やした国家事業です。そのような事業において、ましてや史書の生命ともいえる紀年に「誤り」が許されるはずはありません。『記紀』双方の紀年が大きく異なることから、両書は別の史料によったとする意見もありますが、ほぼ同時期に、同じ勅撰でつくられる史書を、異なる史料で書くということは、まず考えられないことです。仮に史料が異なるとしても同じ国の歴史記録が、このように大きく異なることはないと断言できます。

● ヤマト国は長い歴史を必要としたのです。舎人親王は神武即位前660年という「見せかけの建国の歴史」をつくり出すだけでなく、延長した歴史に信憑性を与えるために神功皇后のヒミコ擬定をすることでそれに応えたのです。しかも「紀年の延長」という奇策によって歴代の系譜を損じることもなく、さらに「古事記・崩年干支」として紀年の古記録を遺すことによって、【古代の伝えを失わずあやまたず、後の世に伝える】という難事業を成し遂げたのです。


● 朝議の要請にこたえて長い歴史をつくりだすだけでしたら天皇の代数を増やせばよいのですが、ことはそれほど簡単ではありません。天皇の代を増やせば当然係累が出てきます。それが現実に存在する皇族とどのように関わるのか、あるいは豪族の家系にどのように影響するのか、すべてをつくることは大変な難事になります。

● また、天武は諸家の歴史にある偽りを正し、この正された系譜を【後の世に伝え】ようと国史編纂を企図したのですから、天皇の代数を増やすことはその方針に逆行することになってしまいます。そればかりでなく、代数を増やすことは「正史編纂」という目的から逸脱することになるし、「万世一系」も怪しくなってしまいます。そこで、天皇の数は増やさず、紀年だけを延長することとし、「延長された紀年」は国外向けのものとして位置づけ、国内向けには「延長前の紀年」を別に記すダブルスタンダード方式をとることになったのです。

● 通常『書紀』のような「延長された」歴史は受け入れられないと考えてしまいます。しかし歴史においては建国の歴史が古い事の方が重要であって、個々の在位年数が「人間の生理上からもあり得ない」などという合理性は無視され得ることは、明治以後の日本の歴史が示しています。舎人親王のヨミは正しかったのです。

● しかし国外向けと国内向けだからといって、「延長後」「延長前」二つの紀年を並べて書いておくわけにはいきません。しかし、分からないように隠してしまったのでは「正史」にならないので、あくまで見えるようにしておかなければなりません。

● とくに「国史」を公表したとき、延長した紀年を国の指導層の人々に納得させることが重要ですが、そのためには「正しい」紀年をどこかにわかりやすく書いておく必要があります。その解決策として考え出されたのが

 @ 「延長前の紀年」のうち、編者がつくった紀年は立太子記事を用いて『書紀』に記す。

 A 古記録にあった崩年干支は、『書紀』とは別に「副本」を編纂し、そこに記す。

 という『延長前の紀年』を二つに分けて記す方法だったのです。

● そして、『書紀』は「○○天皇の××年に××があった」という編年体で書かれていますが、副本には「時」を記さず、崩年干支を註記するだけにすれば目立たなくなるし、間を飛ばせば即位の年もぼかすことができます。そうすれば「本史」の紀年は必要な長さに延長することが可能になる、という策です。この副本としてつくられたのが『古事記』であることはいうまでもありません。

● 古記録にある紀年が副本『古事記』に書かれるのであれば、『書紀・紀年』は「つくり物の紀年」として「造作」や長い歴史をつくりだすことに専念できるわけで、『記』と『紀』の機能分けは、まさに起死回生の妙策といえます。このことによって『書紀』は長い建国の歴史を持つことが出来ましたが、『古事記』と一緒にならないと史書としての機能を果たせないという宿命を背負わされたのです。

● 第二次『書紀』の編者が「紀年」を『古事記』に任せ、『書紀』は「系譜」と「長い歴史」に専念しようという方針を考え出したのは、再編纂方針を検討するなかで最も苦心したところでしょう。第一次『書紀』メンバーが編纂を終えながら「国家体面上の要請」という壁にぶつかり挫折した経験から、「延長の前と後、二つの紀年を同時に扱うという問題を抱えたままでは第二次『書紀』編纂も達成が覚束ない」という危機感を抱き、そのことが第二次『書紀』とは別に『古事記』をつくり、「系譜」と「紀年」とに機能分けするというドラスティックなアイディアを生み出したのです。かれらは、機能分けの方針が固まってはじめて第二次『書紀』編纂事業を完遂できる見通しが立ち、安堵に胸を撫で下ろしたことでしょう。
 
● そして「副本」の編纂を検討する中で、そこには紀年だけでなく『書紀』を正史とするためやむを得ず造作をおこなった部分や、「八色の姓」制定で【削偽】された系譜記録などの古い伝えを遺そうというように計画が膨らんでいったのでしょう。『古事記』という書名がそのあたりの事情を物語っています。


『古事記』

『古事記』編纂の事情について、もう少し検討してみます。『書紀』と並ぶ史書といわれる『古事記』は、『書紀』書き直しの真っ最中といえる711年に元明の命が下り、翌712年春、わずか4ヶ月で撰上されたとあります。しかし、『続紀』は『古事記』に関して詔勅も撰上も記していません。『古事記』の序に書いてあるだけなのです。このことも異常といえますが、そればかりではありません。舎人親王が総裁に就いたのが700年からそう離れていない時期、すくなくとも『古事記』編纂開始の711年以前から総裁の任にあったとしたら、『古事記』は元明の命でつくられたといえなくなります。前述したように親王の宮廷内での存在は大きく、もし親王が国史編纂の総裁をしていたとすれば、天皇といえども親王の頭越しに『古事記』編纂を命じることなど、できないのは当然です。

『古事記』編纂の目的については諸説ありますが、なぜこの時期に編纂されなければならなかったのか納得のいく論はないようです。『書紀』と全く異なる時代に編纂されたのであれば「異なる史料を使った」とか「読み物としてつくった」などいろいろ考えられますが、国を挙げて最初の国史を編纂している最中に、若干とはいえ内容の違うものをつくり、その上、国史より先に撰上することが許されるはずはありません。国史編纂の総裁はなんといっても舎人親王なのです。

● また、たびたび述べるように、押磐皇子や大郎皇子は「先帝殺害、皇位簒奪」事件として『書紀』編纂の時に抹殺されたのですから、歴代が確定したのは『書紀』編纂の時であることは確かです。それなのに『書紀』より先に編纂されたはずの『古事記』の歴代は『書紀』と完全に一致しています。『書紀』編纂でおこなわれた押磐皇子や大郎皇子の抹殺が『古事記』に反映されているのは、『書紀』より後になって『古事記』が編纂されたことの明証といえるだけでなく、『書紀』と『古事記』は統一された意図を持って編纂された、つまり『古事記』編纂は元明の勅というより、『書紀』編纂の一環として舎人親王が命じたと考えるほうが理に適います。『古事記』はわずか四ヶ月で編纂・撰上されたとありますが、それは修辞で、もっと早い段階から準備を進めていたと考えられます。

● もっと踏み込んだ想像をするなら、『古事記』本文が完成したのは『書紀』完成に近いある時期だったのですが、少なくとも序文は『書紀』完成の直前になって書かれたことは考えられます。舎人親王の指示で『書紀』書き直し作業のちょうど中間にあたる711年に完成したように「序」の日付をつくり、当時の天皇元明の名を使ったのです。

● 崩年干支註記にしても、『古事記』も勅撰である以上『書紀』と全く違う紀年を書くことは安万侶個人の判断でできることではありません。『書紀』編纂の総裁である舎人親王の指示だと考えれば納得できます。したがって、『古事記』は編纂の詔勅も撰上もなかったわけで、『続紀』に記録が無いのは当然なのです。しかし、完成した『古事記』は、私版のままでは権威がなく、消滅してしまうおそれがあるので、元明天皇の勅命でつくられたという形にして、後に完成する第二次『書紀』と並ぶ地位を与え、古記録を伝える役目を果たさせることにしたのです。『古事記』の序文はこのあたりをカムフラージュするために修辞と矛盾が多くなり、偽書説の生まれるひとつの原因となっています。また、『古事記』と『書紀』が同時期に編纂されながらお互いを無視しているのは、こうした編纂の事情によると考えられます。


『古事記』崩年干支

『古事記』には神武から推古まで33代の天皇が収録されています。『古事記』は物語風に書かれているので『書紀』と違って年月日のような「時」を記していません。「時」については「昔々」なのです。「時」のない歴史は歴史でなく、昔物語です。『古事記』はそのような書なのですが、部分的に天皇の亡くなった年を干支で記してあり、『古事記』崩年干支註記と呼ばれています。この崩年干支が古記録であり、『書紀』の紀年延長に伴い失われてしまうので副本『古事記』を作り、そこに記されたことは前述しました。

● しかし不思議なことに、成務から允恭まで7代連続して註記されているものが安康で突然記されなくなり、その後は飛び飛びになってしまいます。時代が下がるほど記録制度はしっかりしてくるはずなのにどうしたことでしょうか。先学の説では【記録がなくなった】というのですが、このように歯抜け状態で国家記録がなくなるのはあり得ないことですし、顕宗・武烈のように崩年干支はなくても在位年数は書いてあるのですから、記録がなくなったのではなく、編者太安万侶が書かなかったと考える方がよさそうです。

● 允恭以前については『書紀』紀年が大幅に延長されているので、古記録である崩年干支をそのまま記しておかないとわからなくなってしまいます。したがって允恭以前では各代に註記されたのです。安康以後になるとほとんど註記されなくなるのは、古記録になかったのではありません。安康〜安閑は帝位をめぐる混乱が多く、第一次『書紀』編纂時に帝紀の大幅な改ざんがおこなわれたので、それをぼかすためと、『書紀』と『古事記』の崩年干支が数年の差になり、煩わしくなることから、編者の安万侶としてはすべての天皇の崩年干支を採録しなかったのです。しかし、前述した雄略の124歳や顕宗・武烈両天皇の在位年数を本文に記すなど、きれぎれな記録ですが綴り合わせれば古記録が浮かび上がってくるように仕組んであることから、かれが正しい記録を伝えるため腐心したことがわかります。

● また、敏達以降推古まで崩年干支が敏達の一年違いを除いて『記紀』で一致していることや、『古事記』が顕宗以降、帝紀だけになるのは、それまで『記紀』両書で別々に進めてきた歴史を推古で一本化するため、軟着陸を図ったものです。


『古事記』が推古までなのは

● 最後に第二次『書紀』は第四十代持統までを対象としているのに、『古事記』が推古までで切らなければならない理由について触れておきます。
 
● 編纂当時の人の歴史認識として推古以前を「古」としていた、という説があります。推古という漢風諡号もそれを意味し、『古事記』の名も同様とするのです。しかし、編纂の目的から考えると違う理由ではないかと考えています。

『書紀』が神武即位まで1260年の起点としたのが推古九年です。『古事記』が推古までしか収録していないのは、「正しい紀年」を伝える役割を『古事記』に任せた舎人親王が「つくられた歴史1260年」と『古事記』の収録範囲を一致させたからだというのがわたしの考えです。推古九年(あるいは推古没)までの紀年は『古事記』に任せていましたが、それ以降は『書紀』で責任を持ちます、といっているのです。このように考えれば、『書紀』が「持統紀」までを収録するのに、後から編纂を開始した『古事記』が「推古紀」までしか収録していない理由が説明できると同時に、『古事記』が紀年を任され、『書紀』と一体のものとして誕生したことの説明ともなります。

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