遣  使  の  間

みどころ

● 紀年論は倭の五王の比定問題に始まるとされ、江戸時代から論議されてきました。未だに統一した答えには至っていないようですが、この論争が長引いているのは、王の名前の音などによって天皇が比定され、治世はそれに合わせてきめられるという本末転倒がおこなわれてきたたことにあると考えています。『古事記』崩年干支を前提として比定を試みましたが、倭の五王でなく倭の七王になってしまいました。これでようやく一件落着を迎えられるのでは、と勝手に思っています。


 復元した紀年

● 仁徳以降の紀年と、私の復元した允恭〜武烈の紀年を表として掲出しておきます。

天 皇 治  世 在位年数
仁 徳 395〜427 33
履 中 428〜432
反 正 433〜437
允 恭 438〜454 17
安 康 455〜457
押磐皇子 458〜465
雄 略 466〜489 24
清 寧 489
顕 宗 490〜497
仁 賢 498
武 烈 499〜506


 王の比定/倭の五王は「七王

● 復元した紀年によって倭の五王比定をおこなったのが次表です。「五王」は「七王」になりました。

 「倭の五王」比定(復元した紀年による)
遣使年 倭王名 比定天皇 定説 掲載書
413 仁 徳 仁 徳 『南史』列伝、『晋書』本紀
421 仁 徳 仁 徳 『宋書』列伝
425 仁 徳 仁 徳 『宋書』列伝
430 なし 履 中 仁 徳 『宋書』本紀
438 反 正 反 正 『宋書』列伝、『宋書』本紀
443 允 恭 允 恭 『宋書』列伝、『宋書』本紀
451 允 恭 允 恭 『宋書』列伝、『宋書』本紀
460 なし 押磐皇子 安 康 『宋書』本紀
462 世子興 押磐皇子 安 康 『宋書』列伝、『宋書』本紀
477 雄 略 雄 略 『宋書』本紀
478 雄 略 雄 略 『宋書』列伝
479 雄 略 雄 略 『南斉書』列伝
502 武 烈 ?? 『南斉書』列伝、『南史』列伝


 
讃は仁徳

● 413、421、425年に遣使した倭王「讃」は、応神とする説も一部にありますが、仁徳とすることはほぼ定説とされます。治世395年〜427年とする『古事記』紀年の上からも完全に適合します。

●『書紀』仁徳紀五十八年冬十月条に【呉国・高麗国が朝貢した】という短い記事があります。『書紀』の仁徳紀は紀年が二倍されているとみられ(註)、五十八年を半分の二十九年とすると西暦423年に当たり、『宋書』列伝の高祖永初二年(421)の【倭讃万里貢を修む】とある遣使の帰国にほぼ合致します。何らかの記録が残されていた可能性があります。呉国が倭国に朝貢することはあり得ませんが、倭国を大国に見せるため、呉国からもらってきたお土産を呉国からの朝貢に見せかける例は雄略六年にあります。「殺戮の間」をご覧ください。



 430年遣使は履中

● 430年遣使は王名が記されていないのですが、つぎの438年遣使に「讃死す。弟珍立つ」とあるので、仁徳だとするのが定説です。また、438年の倭王「珍」については反正に比定されながら、「讃死す。弟珍立つ」つまり反正は仁徳の弟だとされていることから異論があります。これについては履中の在位中には遣使がないとして、「讃死す。弟珍立つ」は【「前回(430年)遣使した讃(仁徳)が死んで子供の履中が継ぎ、履中が死んだので履中の弟の反正(珍)が立った」というのをこのように(誤って)記した】という橋本増吉氏の解釈(『東洋史上より見たる日本上古史』)が定説とされています。

● しかし、橋本氏は430年の遣使に名前がないのは前回と同じ讃だからだとして、仁徳の没を430年まで引き延ばし、履中の遣使はなかったとしていますが、「名前がないのは前回と同じ」だとか、仁徳没の年を『記紀』とも誤りとする氏の説は無理があります。また、履中が遣使したことがないのであれば、反正が遣使したとき、わざわざ「兄の履中が死んだので弟の反正(珍)が立った」など履中の名を持ち出す必要はなく、「讃死す。珍立つ」だけでよい筈ですから、橋本氏の解釈は考え過ぎと思います。

● わたしは、430年に履中が倭王Xを名乗って遣使したにもかかわらず、中国側で「讃死す。X立つ」という記録を逸し、つぎの「X死す。弟珍立つ」と書くべきところを過去の記録をみて「讃死す。弟珍立つ」と書いたと考えています。したがって、430年遣使は履中とする方が、崩年干支の上からも無理がないし、王が替わったときは中国にその旨を届け出、皇帝の承認を得るというのが冊封体制の原則ですから、履中は遣使していると推定されます。仁徳に始まる宋への遣使は、安康を除き各代がおこなっていることからも、冊封の原則がしっかり守られていることが分かります。


 
珍=反正

● また、438年の「珍」遣使は反正没の翌年に当たり、すでに允恭の治世となっています。「珍」と「済」が同じ天皇ではありませんから、「珍」は定説のように反正であるとし、遣使の到着が遅れたとみる説(那珂通世、菅政友、橋本増吉)に従いたいと思います。

●『書紀』の雄略紀十二年条から使節の旅程をみると、四月、海が穏やかになる季節を見計らって出発(新羅本紀でも、倭人が新羅海岸地方を襲うのは夏四月です)、その年の十一月に謁見を受け、贈り物を献じています。ですから反正が使節を見送った後に亡くなった(『古事記』は七月没と記す)とすれば、使節が謁見を許されたのは翌年の允恭元年になったとしても、遅れたというより通常の旅程だと考えられます。

● 438年遣使について『宋書』の『列伝』には年月の記載がなく、『帝紀』に【元嘉十五年(438)夏四月、倭国王珍を以って安東将軍となす】とありますから、このときは除正のための謁見で、到着した437年中に最初の謁見がおこなわれたとも考えられます。


 
済=允恭

● 443、451年の「済」が允恭であることは定説であり、438〜454年を治世とする紀年の上からもなんら問題ありません。


 世子興=押磐皇子

● 世子興は安康とするのが定説とされていますが、世子興が遣使した460年〜462年当時は押磐皇子の治世だったことは「殺戮の間」で明らかにしておきました。

●『書紀』は安康殺害事件の直後に雄略による押磐皇子謀殺事件が起きたとしていますが、『宋書』の記事を正しいとすると、462年当時雄略はまだ天皇ではなかったことになります。とすれば安康が462年まで皇位にあったことになり、通説ではそのように解釈することが多いのですが、安康は『書紀』が456年没としており、允恭と安康で第十三巻の一巻にしていることからも治世は短かったと推定され、462年まで在位していたとするのは無理があります。安康と雄略の間に「世子興」と名乗って遣使した天皇が在位したと考えるのが妥当でしょう。したがって雄略が即位したのは安康天皇が殺害されてから6年以上経ってからということになります。


 
武=雄略

● 雄略の没年について『古事記』の己巳(489年)は『書紀』の己未(479年)を写し誤ったのだろうとしたのは那珂氏ですが、これは那珂氏の誤りであることは「殺戮の間」で明らかにしました。

● また、『書紀』には遣使が雄略十二〜十四年(468〜470)とあって『宋書』と食い違いますが、治世を466年〜489年の二十四年間とすれば雄略十二年は477年になって『宋書』の昇明元年(477)と合致します。

● 雄略紀以外、宋への遣使に関して『書紀』はほとんど記事を載せていないことからも、『書紀』編者は『宋書』を見ていなかったと推定されますから、雄略十二年の遣使記事は倭国の記録として遺されていた独自の史料によるもので、『宋書』からの引用ではないと見られます。

 
雄略治世を466年〜489年の二十四年間とした詳細は「殺戮の間」をご覧ください。


 502年、武烈は雄略の名で遣使した

●『宋書』に記された倭王「武」が雄略であることは確実視されていますが、同じ「倭王武」の502年遣使は学会で無視されています。「武」が雄略なのは定説であり、雄略は479年没(あるいは489年没)とされることから、502年に遣使した倭王「武」が誰なのか、那珂通世氏が武烈とする他は、言及するのを慎重に避けています。

● では、502年に遣使した倭王武は『梁書』の書き誤りなのか、誤記でなければいったい誰なのか。結論から言えば、『梁書』が「倭王武」としているのは誤記ではありません。479年の倭王武は雄略、502年の倭王武は武烈と、同じ「倭王武」を名乗る別人なのですが、中国側は同一人だと認識していたとするのがわたしの出した答えです。

● 中国側が同一人と認識していたことは、『南斉書』列伝にある【建元元年(479)新除の安東大将軍を進め、倭王武の号を鎮東大将軍となす】と『梁書』の【天監元年(502)鎮東大将軍倭王武、号を征東将軍に進め】という記事が立証してくれます。

● 号は国に与えられるのでなく、王に対してのものですから、代が替わったときには新王に対して新たに号が与えられます(新除)。462年倭王興は前王済と同じ【安東将軍倭国王】とされましたが、「武」は477年の遣使で興より一階級上の「安東大将軍」にして欲しいと上表し、これが認められ(新除)、さらに遣使の滞在中に宋から南斉に王朝の交代があって、新王朝の元年にあたってのお祝いの大盤振る舞いでさらに二階級上の「鎮東大将軍」に「進号」されたのが、【建元元年、新除の安東大将軍を進め、倭王武の号を鎮東大将軍と為す】という記事です。

● 502年「武」の場合は代が替わったとする記事もなく、【鎮東大将軍倭王武の号を進め征東将軍と為す】とあるのですから、479年に鎮東大将軍となった「武」の号が征東将軍に進められたことで、鎮東大将軍の位は502年に新除されたものではありません。もし502年に代が替わったのに、同じ「武」を名乗るとしていたのなら【倭王武を鎮東大将軍に除す】と【新除の鎮東大将軍倭王武の号を進め、征東将軍と為す】という二つの除正となったはずです。このように中国側が479年の倭王「武」と502年の「武」を同一人物とみなしていたことは明らかです。502年の倭王の名を間違えたのでもありません。

● 他方日本側からの見方ですが、「武」とされる雄略は、『書紀』は479年没、『古事記』でも489年没と記されていますから、479年と502年の「武」は明らかに別人で、502年は誰かが雄略の名を騙って遣使したと考えざるを得ません。武烈の治世が499年〜506年の8年であることはほぼ確かですから、名を騙ったのは武烈です。

● 武烈は502年に遣使したのですが、この502年は梁建国の年に当たります。建国を知って、すぐにお祝いの使いを出したとすれば、その情報網の確かさと行動の機敏さには驚かされます。この時武烈は、梁王の名が「武帝」であることを知って、前回遣使した雄略の使っていた「武」の名前で遣使したとも考えられるのです。

●「武」は前代の「興」が安東将軍だったのですから安東大将軍、鎮東大将軍、征東将軍と一代?で四階級も進号したことになりますが、前回遣使から20年も経っていることや、遠国であるにもかかわらず建国の年にすぐさま来朝したことを愛でて、格別の扱いとなったのでしょう。武烈の狙いは的中したのです。

● 武烈が雄略の名「武」をそのまま使ったのは、同名のほうがよいと考えたこともあるでしょうし、雄略以来清寧・顕宗・仁賢・武烈と前回遣使後20年の間に5代もの交代があったことを言いたくなかったのかもしれません(王が代わるたびに中国に行って承認を得るのがしきたりです)。武烈がこのように梁建国の機会を捉え、機敏に遣使をおこなうばかりか、王位交代を告げずに進号を獲得するなど抜け目ない行動をとったとすれば、『書紀』の伝える暴虐なイメージとは異なる顔が見えてきます。


 
むすび

● 倭の五王に関しては、比定以前の問題として倭王はヤマトの王ではなく、北九州の王ではないかとしたり、ヤマトの王だが、ヤマト政府は関知し、承認はしていただけで、実際の遣使は百済に駐在する官人が百済に誘導されて行っていたという津田左右吉氏の論(日本古典の研究)がありますが、『日本書紀』編纂当時『宋書』はまだ伝来していなかったと見られる中で、仁徳紀五十八年条と雄略紀六年条に呉(宋)からの朝貢記事があり、それが倭からの使者帰国の時期と一致すると考えられることや、特に雄略紀十二年条に記された呉への遣使は宋の順帝昇明元年(477)と年次が合致することなどから、この記事はヤマト独自の記録によるものとみられ、倭の五王をヤマトの王とすることは問題ないと考えています。

● また百済云々に関しては、武烈が雄略と同じ「倭王武」を名乗っていることや、使者が四月に出発し、翌年あるいは翌々年末に帰国するいう旅程から、百済でなく大和から出発しているとみられることなどから、津田氏のいうような出先機関が判断し、事後承認するといったことでなく、あくまでヤマトの指令に基づいて遣使が行われたとするのが妥当と思います。

 註 仁徳紀紀年は2倍
 『古事記』による仁徳の治世は33年です。『書紀』仁徳紀の記事を見ると、『古事記』の三十三年の2倍に当たる六十七年までは十五・二十・二十五・三十・四十・五十・六十年と、きりのよい年に記事が書かれているのに、後は【政令はよくおこなわれ、天下は平らかになり、20余年無事であった】とされています。紀年延長の際、2倍して後の20年は切り捨ててしまったと考えられるのです。『書紀』の紀年のつくり方を示す一つの例と言えると同時に、若干の史料が遺されていた可能性が窺えます。

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