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飛魚亭の裏庭

この時代のお馬あれこれ





■競馬 ■ナポレオンの愛馬「マレンゴ」 ■ウェリントンの愛馬「コペンハーゲン」 ■馬の年齢と身長 ■ジャックとソフィーの馬 ■「オークス」と「ダービー」 ■オールド・ボールド・ペッグ ■ダーレー・アラビアンと3大始祖馬 ■フライングチルダーズ NEW■軍艦と堅パン ■POTOOOOOOOO



■競馬

イギリスと馬といえば、思い浮かぶのはやっぱり、競馬でしょうか?
競馬の国だから、イギリスやフランスは昔から乗馬になじみがあったかというと、実は反対だそうです。はるか昔、モンゴルやタタールでは、乗馬は生活の一部だったので、競走することは子どもの遊びみたいなものだったようです。ヨーロッパなど騎馬後進国では、騎馬民族に対抗するための対策として、トレーニングの意味を含め競馬が行われたそうです。オリンピックなどもその一つです。
それでもまだ、ブリテン島(イングランド、スコットランド)では、馬に乗る文化は育っていず、十字軍に参加したあたりから、憧れの馬を手に入れた王侯貴族の遊びとして、競馬が始まったそうです。もともと、競馬は貴族が自分で乗っていたのが、勝つために専業の騎手を雇うようになったのです。

やがて、競馬はだんだん盛んになり、17世紀まで馬産後進国だったイギリスに、競馬好きの人なら誰でも知っている、サラブレッドの祖先である3頭の馬「バイアリーターク(1680年生)」「ダーレーアラビアン(1700年生)」「ゴドルフィンアラビアン(1724年生)」が出てきます。現在のサラブレッドも、必ずこの3頭のうちのどれかの子孫になります。ちなみに、この3頭はどれも競馬で走ってはいないそうです。
競馬の代名詞のようになっている、若いサラブレッドのレース「ダービー」が創設されたのは1780年、障害競馬の「グランド・ナショナル」は1839年だそうです。

マリアットの小説「ピーター・シムプル」の中にも『競走馬と馬車馬ほども違う』という表現がありますから、すでにこの時代には、競走馬は特別な存在として民衆に知られていたようです。

フランスでもイギリスより少し遅れて貴族の楽しみとして、競馬はさかんになっていたようですが、1789年の革命の時に競馬場や生産牧場は焼き払われ、競走馬たちはナポレオン軍に組み入れられたようです。(その後の競馬は、すべてイギリスから輸入したサラブレッドで始められたとか)
戦争で馬が活躍したのは、この時期が最後のようです(以後は運搬や移動手段などにつかわれています)。ナポレオンの軍には、いろいろな種類の騎馬軍団がいました。1815年ワーテルローの戦いでは一万騎の突撃が行われたそうです。


■ナポレオンの愛馬「マレンゴ」

ナポレオンの愛馬で有名なのは「マレンゴ」です。体高141センチの小柄な葦毛のアラブ馬(もしくはバルブ馬)です。1798年アブキールの戦いのあと6歳でエジプトから輸入され、1800年にマレンゴと名づけられたそうです。ちなみに、ナポレオンが大勝利を収めた有名なマレンゴの戦いがあったのが1800年7月14日です。
足が速く、弾丸が飛び交う中でも落ち着いていて、並外れた体力があったそうです。1805年アウステルリッツ、1806年イエナ、1809年ヴァグラム、そして1815年のワーテルローの戦いでもナポレオンを乗せていたそうです。ということはワーテルローの時は23歳だったのでしょうか。その後イギリスに連れて行かれ、38歳まで生きたそうです。今でも、イギリスの王立軍事博物館にその骨格が展示されているそうです。

The National Army Museum


■ウェリントンの愛馬「コペンハーゲン」

ウェリントン将軍の馬は「コペンハーゲン」で、体高152センチのアラブと本には書いてありますが、「ダーレーアラビアン」と「ドゴルフィンアラビアン」の両方の血を引いているそうです。この名前は、ネルソン提督も参加した「コペンハーゲンの海戦(1801年)」ではなくて、1807年の英国軍のコペンハーゲン砲撃の時の出来事にちなんでいます。
この馬も物凄く強靭で、ワーテルローの決戦(1815年)の前日に12時間、当日も15時間近くをほとんど休みなく、戦闘を指揮するウェリントンを乗せていたそうです。彼は28歳(1836年)まで生きて、ウェリントンの領地ハンプシャーに埋葬されたということです。

コペンハーゲンの父は「ミーチヤ」母は「レディキャサリン」母の父は「ジョンブル」母は『ラットランドアラビアンと非サラブレッドの猟騎馬(ハンター)を両親に持つ』馬だそうです。お母さんのレディキャサリンは、コペンハーゲンの攻略作戦中にグルーブナー将軍の乗馬として従軍していましたが、なんとその時にはお腹に息子の「コペンハーゲン」がいたそうです。 将軍は彼女の妊娠に気づくと国へ送り返したそうです。生まれた子馬はめぐりめぐってウェリントンの愛馬となったのでした。
この時代は、軍馬も競走馬も明確な区別はなかったようです。むしろそれぞれが良いトレーニングの要素になっていたのかも知れません。コペンハーゲンは1811年に10回、ニューマーケットなどの競馬にでて、何度か優勝もしているそうです。その後、スペインに渡り、ウェリントン将軍が購入したようです。
ただ彼は、「英国サラブレッド血統書」には一度は名前が載ったものの、のちに削除されたそうです。血統にハンターの血が入っていたからですが、だからこそ、あの素晴らしい活躍が出来たのでしょうね。


■馬の年齢と身長

サラブレッドは1歳で調教が始まりますが、アンダルシアンなどは6歳頃からです。馬によって成長の速さも平均寿命も少しずつ違います。多分サラブレッドはダービーで走る3歳時点で一番早く走れるような、早熟な血が淘汰された結果残ったために、短命なのでしょう。大体20歳くらいで仕事は引退します。アンダルシアンやその系列のリピッツアーナ種(ウィーンの古馬術を受け継ぐ「スペイン乗馬学校」で使われる白馬)は30歳近くまで現役で仕事をするようです。ただ、マレンゴの38歳というのはやはり長生きですよね。それだけ心臓も強い体力のある馬だったのでしょう。

現代のサラブレッドは体高160センチくらいありますが、これは踏み台や介添えなしで乗るにはちょっと高すぎるようです。純血アラブ種はもう少し小さくて150センチくらいです。西部劇に出てくる、クウォーターホースも小柄で乗ったり降りたりが楽に出来る、乗用に適した大きさです。
この時代の馬もずいぶん小さかったようで、資料によると、ナポレオンの軽騎兵の馬は、体高147センチ以上のを集めたそうですが、戦争でだんだん馬が減ってきて、138センチ以上ならいいとなったとか。ちなみに馬の体高というのは、肩の辺りの一番高いところ(き甲)で測ります。頭の上ではありません。
ところで、ウェリントンやナポレオンの身長は何センチだったのでしょうか?

《追記》競馬が好きな人なら良くご存知の名馬「エクリプス」は1769年の6歳時に初出走だったそうですが、彼の体高は15ハンド3インチ(約160cm)で、破格の大きさだったそうです。当時の名馬ジムクラックは14ハンド1/4インチ(約142cm)だったそうです。有名な障害競馬グランド・ナショナルに、1850年51年と続けて優勝した アイルランドの名馬アブデルカーデルは、15ハンド(約152cm)でした。彼はサラブレッドに他の血も入る種類でしたが、当時としても「小さい馬」だったそうですから、馬の体高がだんだん大きくなってきたのがわかります。
現代のサラブレッドの平均体高は162〜3cmだそうです。




■ジャックとソフィーの馬〜「囚人護送艦、流刑大陸へ」より

オブライエンのオーブリー/マチュリン シリーズには、帆船ファンが文句をつけたくなるほど、陸の生活の描写が長く、馬がたくさん出てきますね。馬に限らず、彼の作品には、料理や神話や多岐にわたるいろいろな要素が盛り込まれていて、それぞれに興味のある方には面白いと思います。「囚人護送艦、流刑大陸へ」では、漢詩まで出てきましたね。
さて、ここではもちろん、馬に関することを取り上げてみたいと思います。

今回は「囚人護送艦、流刑大陸へ (DESOLATION ISLAND)」で出てきた馬やレースについて、メモしてみました。あとがきによると、この物語は、1811年〜1812年が舞台になっているそうです。以下この本は、シリーズ5作目にあたるので〈5〉と略します。


■「オークス」と「ダービー」

5大クラシックレースの中でも、一番有名な「ダービー(Derby)」は1780年に第1回の競走が行われました。牝馬(ひんば)だけの競走「オークス(Oaks)」はその一年前、1779年に始まりました。「セントレジャー(St. Leger)」はさらに遡って1776年からです。「2000ギニー(2000 Guineas 1809年)」と牝馬だけのレース「1000ギニー(1000 Guineas 1814年)」の五つのレースが5大クラシックレースです。
今でこそサラブレッドの3歳のレースは普通ですが、3歳馬を競走させる公式許可が下りたのは1786年だそうです。それ以前の名馬たちは、筋肉が充実する5歳や6歳からレースに出た馬も多かったのです。

これらの有名なレースが始まった時代は、ちょうど、ジャックやホーンブロワーが活躍していた時代と重なるのですね。海では馬は用がないので、小説にもあまり出てきませんが、陸ではいろいろ話題になっていたのだと思います。お金に余裕のできた、ジャックが「オークス」に勝てそうな牝馬を買いたくなったのもわかる気がします。


■オールド・ボールド・ペッグ

このページの上のほうに書いたように、サラブレッドの先祖は、「バイアリーターク(1680年生)」「ダーレーアラビアン(1700年生)」「ゴドルフィンアラビアン(1724年生)(「ゴドルフィンバルブ」ともいわれます)」の3頭です。現在の世界中のあらゆる国のサラブレッドは、必ずこの牡馬の血をひいています。ただしもちろん、お父さんだけでは仔馬は生まれません。母馬の血統をファミリー・ラインといって、数十頭の牝馬に遡れるそうですが、そのうちの1頭がこの「オールド・ボールド・ペッグ(Old Bald Peg 〈5〉では「オールド・ボールド・ペグ」)」です。
ちなみに「競走馬のファミリー・テーブル」という本は、ボビンスキーという人が1953年に第1巻を書いたそうです。ダービー、オークス、セントレジャーの勝ち馬をその子孫に多く持っている順に、牝馬に番号をつけて並べています。オールド・ボールド・ペッグはその6番目にあたる馬なので、強い子孫を残している牝馬だといえます。


■ダーレーアラビアンと3大始祖馬

「バイアリーターク(1680年生)」
「ダーレーアラビアン(1700年生)」
「ゴドルフィンアラビアン(1724年生)(「ゴドルフィンバルブ」ともいわれます)」

競馬好きの方なら、知らない人はいないダーレーアラビアンは、サラブレッドの先祖の3頭のうち、もっとも子孫が多い馬だそうです。「ダーレーアラビアン(Darley Arabian 〈5〉では「ダーリー・アラビアン」。または「ダーレイ・アラビアン」)」の、アラビアンというのはアラビアの馬という意味で、「マニチア」という種類だそうです。鹿毛で流星鼻梁白(顔に細長い白い部分がある)、左前と後足二本の球節から下が白い、三白の馬です。シリアの港から積み出されたということです。イギリスに来たのは5歳の時。ダーレイ家の所有で、31歳まで生きたそうです。

ちなみに、バイアリー・タークはトルコの馬(ターク)で、バイアリー大尉(後に大佐)がトルコ軍との戦時に捕獲したそうです。戦利品だったのですね。

ゴドルフィン・アラビアンは、モロッコ産とも言われ、いくつか伝説があるようです。イエメンのチュニス都督からフランス国王に送られた4頭の内の一頭が、売却され、のちにゴドルフィン卿に買い取られたそうです。ほかに、パリで散水車を引いていて、のちに試情馬として使われていたけれども、牝馬ロクサーヌを種馬のホブゴブリンと戦って勝ち取ったという伝説もあります。この馬も30歳まで生きたそうです。

この3大始祖馬は、実は一度もレースに出ていないそうです。つまり、速い馬が3頭選ばれたのではなかったのです。サラブレッドの血統の大事なところは、遺伝的均一性にあり、アラブ馬、バルブ馬(エジプト、モロッコなどのアフリカ大陸産馬)、及びトルコ馬、が使われたのはその点で優れていたからのようです。


■フライングチルダーズ

競走馬としての最初の偉大なサラブレッドと呼ばれている、フライングチルダーズ(Flying Childers 〈5〉では「フライイング・チルダーズ」)は、ダーレー・アラビアン(Darley Arabian)を父に、ベティリーデズ(Betty Leedes)を母に1714年に生まれました。お母さんの血統をさかのぼると、オールド・ボールド・ペッグがいます。父と同じ鹿毛で四白、顔は小さい星と鼻梁白。競走成績は、タイム記録などが不正確で信頼が置けないとはいえ、当時の一流馬に、負担重量は相手より大きかったにもかかわらず大差をつけて勝ったという、大変強い馬だったそうです。
ただし、彼の血統は直接は現在のサラブレッドには引き継がれておらず、両親を同じくする弟のバートレッツチルダーズ(Bartlet's Childers 1716年生)がその血を残しています。バートレッツチルダーズの子供の1頭がスクワート(Squirt)、その子供マースク(Marske)が、かの名馬エクリプス(Eclipse)の父です。エクリプスは、1764年に生まれた、史上第二番目の偉大なそして有名なサラブレッドであり、現在のサラブレッドの多くがこの馬の血を引いています。


■軍艦と堅パン

2003年の映画「シービスケット(Seabiscuit)」をご覧になった方も多いと思います。実在したアメリカの競走馬で、1933年生まれです。
この馬のおじいさん馬が「マンノウォー(Man o'War 1917年生)」で、競馬の血統に詳しい方なら皆さんご存知の有名な馬だそうです。ゴドルフィン・アラビアンの13代目の子孫で、この血統は3代目の名馬の名前から「マッチェム(Matchem 1746年生)系」とも呼ばれているそうです。
シービスケットのお父さんは「ハードタック(Hard Tack 1926年生)」です。また、シービスケットのライバル馬「ウォーアドミラル(War Admiral 1934年生)」は、マンノウォーの子供でした。人間ではあまり考えられないですが、競走馬だとそういう対決が成り立つんですね。

この馬たち、ジャックの時代の馬ではありませんが、名前が面白いので取り上げてみました。「マンノウォー(Man o'War)」Man of Warの略した形ですが、軍艦という意味ですね。映画「マスターアンドコマンダー」でも、士官候補生ホロムが遠くに船影が見えたと報告したのに対して艦長のジャックが「Man o'War?」と聞きかえしていましたね。
その息子の一頭の名前が「War Admiral」です。アドミラルだけで、提督という意味ですが、お父さんから「War」をもらってつけたのでしょうか?華々しい成績を残した名馬です。
もう一頭の息子(母は別の馬です)の「ハードタック(Hard Tack)」は、かわいそうに「堅パン」という意味ですね。例の、海軍の保存食に使う、コクゾウムシがわく、テーブルの上でコンコンと叩いてから食べる、あれです。映画の中ではジャックが「強い敵はムシしろ」の駄洒落を言ったシーンで、2匹のコクゾウムシと一緒にクローズアップになっていましたね。残念ながら彼はあまり気性が良くなかったそうで、良い成績は残していません。
そして「Seabiscuit」の名前の意味も、同じ「堅パン」。彼も性格が難しく、体格も小さくて、期待されていなかったのが名前にもでていますね。
もし、映画未見の方は、船はまったく出てきませんが、面白いので是非ご覧になってみてください。


■POTOOOOOOOO

エクリプスの子供で、優秀な成績を残した栗毛馬(1773年生)の名前です。さて、なんと読むでしょう? 
日本のサラブレッドの本では「ポットエイトーズ」などと書かれています。〈5〉では「ポット・エイト・オーズ」でした。また、馬の名前としては「POT-8-Os」とも書きます。これ、多分英語で発音するときは、じゃがいもの「ポテイトーズ(potatoes)」で良いのではないかと思います。
この馬は、エクリプスの子供の中で最高の馬で、自身も良い成績を残しています。引退したのは1781年。1800年まで生きました。その子供たちにも優秀な馬が多く、2頭がダービーを勝ち、セントレジャーと両方を勝った馬もいます。

彼の風変わりな名前の由来には諸説あるようですが、これはそのひとつ。栗毛の若駒がアビンドン伯爵の厩舎にいました。あるとき馬丁が穀物倉に「POTATO」と書けといわれましたが、どうも読み書きは苦手だったらしく、書いたスペルが「POTOOOOOOOO(Oが8つ)」でした。その文字の下をこの栗毛が通ったので、この名前がついたとか。

〈5〉でジャックに、あまり良くない牝馬を売りつけたキャロル、そのおじいさんが、この馬の馬主だったそうです。強い馬は、多額の賞金を稼ぐだけでなく、子供も高く売れるので、その名声を利用して悪いことを考える人も出てくるのでしょうね。
ジャックが話している、ウォラル・ステークスは手持ちの資料には見つかりませんでした。アウトボーイ、ウイスカースはキャロルの厩舎の馬ということなので、作者オブライエンの創作かもしれません。


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囚人護送艦、流刑大陸へ (下)



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このページの背景とクリップアートは「トリスの市場」さんからいただきました