たとえば、サイコロを振って1の目が出たとしても、他の目が出た可能性が消えたわけではない。たまたま1の目が出ただけのことで、もちろん結果としてはこの数値を取り上げるしかない。つまり、振った者(観測者)が介入したことによって、ものごとは決定される。逆に言えば、ものごとは観測者が介入してくるまでは決定されていない。
見つからなかった捜し物が、実は目の前にあったということはよくある。これは、探す方法(観測の方法)によって、観測されるものが存在したり存在しなかったりするからだ。それは目の前にある。しかし、探す方法を変えなければ存在しなかったし、どこにどのような形で存在するのかさえ決定されてもいなかったと考えてみよう。
現代物理学の超微粒子の世界のことを日常に持ち込めるかどうかは別として、シュレーディンガーの猫と同様に事実も明滅する。事実は都合が悪ければ消され、忘れ去られ、塗り替えられる。それを集団でやれば、社会的圧力となり、文化的圧力となる。要するにタブーだ。そしてタブーのない社会の可能性は消えたわけではない。
どんなに厳密に計算してサイコロを振っても、都合のいい目ばかりが出るとはかぎらない。別の世界ではいい目が出ていたかもしれないが、そんな感傷は役に立たず、出た目は取り上げるしかない。根本的に方法や考え方が違っているのかもしれないと、原点に立ち戻って疑ってみることは常に必要だ。