最近は古銭商も不景気で、よほど古いものしか受け取らない。大事に持っているのもばかばかしいので、五百円札を持ってタバコ屋の窓を叩いた。五百円分のタバコを買って立ち去ろうとすると、お客さん、と引き止められた。見ると、店番の男が五百円玉を差し出している。釣りのつもりらしい。五百円札だと教えてやると、慌ててレジから引っ張り出した。千円札と比べて、似てる、似てる、と驚いていたが、こちらから見れば大きさは違うし、色も模様も違う。
更生した泥棒がいかに盗みが簡単にできたかを話している中で次のように言っている。「いやまったくのところ、俺が窓のすぐそこに立っているのに、犬の飼い主ときたら犬に向かって、『静かにしろ、おすわり!』と言うんだからね。俺がそのたびに100ドル稼げてたとしたら、今ごろは百万長者でさ…」(新曜社『誰のためのデザイン?』)
犬に吠えられたのが泥棒なのか、ただの通行人なのか。窓の下にいれば必ず泥棒なのか。たとえそれが知人であっても泥棒に見えてきはしないか。
記憶だってあてにならない。たとえば五百円硬貨のどこに「日本国」の文字が刻まれているか、たいていの人は知らないで使っている。もしも紙幣や硬貨を使うのに正確な記憶がいつも必要だとしたら、社会的混乱が起こるだろう。贋金は精巧に作る必要などなく、似てさえいればよい。