ある宗教のパンフレットに、次のような体験談が載っていた。
父親が酒乱で仕事をせず家庭崩壊寸前の家庭がある。娘は、父親を救うため、また自分のためにも献身的に信仰生活を勧めた。父親も一度は納得して信仰に入る。しかし娘の必死の願いにもかかわらず、父親の信仰は気紛れで、ついには苦しみ抜いて死に至る。この試練を越えた娘は、素晴らしい人生を歩むようになるという話になっている。
アルコール依存症の人間、しかも肉親に対して、自らの中心を外れずに相手をするということはたいへんなエネルギーと自制心の要る仕事だ。共倒れの危険もあり、他に救いを求めるのは当然のことだ。
むろんそれが宗教であることもあるだろう。しかし、これは救われるどころか死に追いやられた父親と、父親から解放されて喜んでいる娘の話にしか見えない。ところが信仰している者にとっては、不信心者の悲惨な末路と信心によるご利益が見事に対比した美談になる。
宗教が宗教として成立するためには、なんらかの「たましい」に関する体験が基礎となったであろう。しかし、それが組織化され、人間社会のなかで「主流」として生き残るためには、どうしても日常性のほうにひきつけられてゆく。それが組織として整えられれば整えられるだけ、その傾向は強くなるのではなかろうか。これが宗教のジレンマである。
(河合隼雄『宗教と科学の接点』)