雑感98 〜 好かれる人について Previous 雑感メニュー Next
 或る人は他人と摩擦を起こすのを極度に恐れるあまりに、職場で接する最も嫌いな人に対して最も頻繁に微笑みかけてしまう。反対に、或る人は嫌いな人に対してあからさまに嫌悪感を示して、その場でストレスを晴らしてしまう。

 誰にでも嫌われる人がいる一方で、誰にでも好かれる人がいる。一般に、好かれる人のイメージは、快活で明るく常識や経験が豊かで、話術やマナーに優れているといったところか。しかし、これはあくまでも外面的なイメージであり、結果的にそうなることはあっても、そうであることが必要なわけではない。
 誰にでも好かれる人というのは誰をも嫌わない人であるはずだ。人間に対して好き嫌いが少ない人と言ったほうが現実味があるだろうか。「誰にでも好かれる人」という宣言に無理があり、「AとBとCと…に好かれる人」と言えるものならそうしたいところだ。面倒なので「誰にでも好かれる人」と書いてしまうが。

 こういう人の言うことは、たいてい嫌味がない。嫌味のないことしか言わないとか、嫌味に聞こえない様に言うのが上手いわけではない。
 たとえば他人の仕事を見て「不器用なやつだな」と言いたくなったとしよう。自分ではっきり意識しているか否かは別として、そう言いたくなるのはイライラして溜まった自分のストレスを解消したいからである。つまり具体的には相手を馬鹿にして、自分のほうが上手にできるから代われという意味で言っているわけだ。
 ところが、次のような会話を成立させられる人がいる。「不器用なやつだな」−「じゃ、お前がやればいいだろう」−「いや、俺は自信がない」。

 自分の身の程を知ったストレス解消とでも表現すればいいのか。教える/教わる立場であろうと、仕事がどんなものであろうと、全部を一度ポンと空中に放り上げて、すっと隣に並ぶような人である。

 誰にでも好かれる人というのは、「どう思われても構わない人」でもある。
 人間関係の摩擦で生じたストレスを相手に直接ぶつけることが正直で、正しい生き方だと思っている人もいる。そういう場合もあるが、そうでない場合も多いので、そんなことは決めないほうが無難である。それでも決めたいと思うのは、そう決めておいたほうが楽だからだ。実際にはうまくいったり、いかなかったりする。百人には百様に接しなければならない。
 自らはどのように思われようと気にせず、一人一人に対して個別に誠実に接する。しかも自己にも正直であろうと努める。これができればいいのだが、ほとんど曲芸である。心がけることこそ可能だが、きわめて困難だ。しかし、できないことと知った上で、そう生きようとすることは悪くない。少なくとも、他人の目を気にして流されて生きるよりは遥かに肯定的な生き方だと思う。