どう思われてもかまわないということは、他人のことをどう思おうと勝手ということの裏返しでもある。
人にはそれぞれ自分の考え方があり、見方がある。これが当たり前の大前提だ。相手の中の自分の姿はもちろん自分で思っている自分の姿とは違う。自己評価というものは、あくまでも私という一人の人間による一評価でしかない。
けれども実に多くの人が他人の評価と自己評価を一致させようと願って日夜絶望的な努力をしている。つまり、絶えず自己宣伝に努めたり噂話を気にして悩んだり、でなければ、何も語らぬ代わりに他人からも何も言わせないという姿勢で日々を乗り切ろうとする。あるいは、そのどちらもしない代わりに、ある特定の人にだけ理解してもらうことで満足したりする。
それがアイデンティティの獲得というものであるらしい。アイデンティティを獲得したいから好き嫌いを気にするし、好かれる人を羨んだりもする。
してみると、それを静観する私はそういう欲求が不足しているのではないかと思うことがある。
この文章さえも、誰かが読むかもしれないと思うぐらいで満足してしまい、誰も読まなくても気に病まないし、だいいちエッセイを書き始めたのはHP作成以前であって、今でも大部分は前に書いたものを焼きなおしているだけである。(この段落はもちろんHP用に書き加えたものだ。)
ホームページにエッセイを載せてみたら、と言った人がいたから載せてはみた。その人が読みたいのだと思ったからで、もちろん読ませてみようと思ったからだ。しかし、その人とは今連絡が途絶えている。
結果的には、ブラウザで自分の文章を眺めると案外と読みやすく、すっかり気に入ってしまった。発見である。私はワープロを使うのはやめた。以来、ブラウザ上で右クリックし、ソースの表示を選んで、文書をテキストエディタで作る方式にしている。
本題に戻ろう。
他人のことをどう思おうと勝手というのは乱暴なようだが、どう思われようとかまわないという姿勢とセットであれば、暴走することはない。それこそ誰からも好かれる人の本質だと思う。しかし、そういう姿勢であるから好かれるわけではない。誰からも嫌われる結果となるかもしれない。聖人であるかもしれないし、なんのへんてつもない目立たない人であるかもしれない。
では、私はどうかというと、もう1ランク上の文章が書けるようにならないといけない。読み返してみるとパラドックスになっている部分がある。「さあ、それはどの部分でしょう?」というクイズにしてもいいぐらいだ。理想を書いているのであって、現実を書いているのではないから矛盾があるというわけだ。