雑感100 〜 手紙について Previous 雑感メニュー Next
 ホームページのアップロードやメール交換だけで、プライベートな時間が終わってしまう日が出現するようになった。カウンタが1桁も2桁も違うホームページの管理人たちは、どうしているのかと思ってしまう。ちゃんと返事が来るのでたいへん不思議である。
 不思議なことはもっとある。いずれは怪しげなメールが来るものと思っていたのだが、クレームすら来ない。どちらかと言えば、面識のある人のほうが変なメールを送ってきたりするのである。

 おかげでメールも含めて私信の書き方というものがわかってきたような気がするが、やはり対話とは違うので、書きすぎたり、ポイントを外してしまったりする。そこのところをちゃんと指摘してくれるような人ばかりで勉強になるのである。どうしてこんな優秀な人ばかりがメールを寄越してくれるのかと思ってもみるが、贔屓目というものか。

 楽天的なくせに、メールに誉め言葉が書いてあったりすると懐疑的になってしまい、むしろ反省する。「ああ、自分はまたお調子に乗ってしまった」とか、「頭が良いふうな言葉が並んでいたかも」とか、「自分を大きく見せようという下心が出てしまっていたか」などなどである。
 反対に誤りを指摘されたりすると、悪かったと思えばいいが、腹が立ったりすることさえあり、あげくには、「誤解されてしまった」とか、「言葉が足りなかった」とか、「もう少し考えてから出せばよかった」などなど、誠に自分勝手でご都合主義の反省しか出てこなかったりする。


 今、通勤列車の中で永六輔の『大語録』(講談社+α文庫)を読んでいるのだが、
「妙に悟っている人より、悟っていない人のほうが安心してつきあえるね」
 という言葉を読んで、「ああ、だからか。…もう少しバカやらなきゃいけないな」と反省していた。しばらく経ってようやく「俺が悟ってるって? 誰がそんなこと言ってる?」と気づいたりする。自分のオメデタさには閉口することがある。

 何を書こうと思ってこんなタイトルにしたのだろうか。そうそう、もっとメールはハードボイルドに書こうと思ったのだった。短文で、要点だけ書くということだ。会話に近づけないと、書いているうちにポイントが外れに外れてしまう。分かっているのだが、気づくと長々と書いていることがある。それほどもらうメールが面白いという弁解じみた言い訳はある。しかし、私が書く文章が面白いとは限らないのだ。仮に面白いとしても、それは文章の長さではなくて、ポイントをついているからだろう。やはり短くやりとりするのがいいのだ。短く、短く…。ああ、すぐ忘れそうだ。