当館を紹介している他のHPの文面に「真面目と不真面目が混在する云々」というものがあったが、まったくその通りで、深刻な社会問題だからといって深刻に扱うとは限らない。まして、自分の問題ならばもっと軽々しく扱えるというものだ。
誰もが腫れものに触るように扱う問題なら、それを破るようなことこそ価値があるかもしれない。もっとも、単なる批判ではダメで、それを超える創造力がなければ新たな意味は生まれない。
腫れ物を抱えている人ならば、なおさら社会常識を引っくり返すほどの勢いが必要だろう。勢いはそう続くものではないが、生きている限りはそれだけで勢いがあるというものだ。その存在自体が反抗なのだ。不本意ながらではあっても、生きていればどうにかなってしまう。それは、やはり自分でどうにかしているのである。
悩むのはたいてい自己の理想像と現実とのズレのためである。どこからが理想なのか、何が現実なのか、はっきり見極められないからこそ生じる悩みもある。
悩みから脱するために旅に出たり、転居、転職などで気分転換することはできる。ヒントぐらいは得られるかもしれないが、過大な期待はできない。なぜなら自分自身を置いていくわけにはいかないからだ。
リスタートはいつでもできるし、思い切ってフォーマットすることもできる。それで解決する問題もあるだろう。しかし、それ以上の問題ならばシステムを変えなければならない。自分というシステムを変えることは困難である。そして、それができなければ、社会のシステムを変えるのはさらに無理である。
いかなる問題も、まず他人でなく自分を変えることからアプローチする。
たとえば、全部自分の誤りだと思い込んでみる。善/悪、快/不快、好き/嫌いなど、相対的な価値観を一つ一つ取り払い、自分自身まで辿り着く。金も家も服も、虚栄心も、何もかも飾りを取り払い、できることなら、Cogito, ergo sum の段階まで到り、Eureka!と叫びたい。
自らを超えたところから自己の再構築を始める。システムの構築だ。相対的な価値観のところで引っかかってしまえば、悩み事からは永遠に解放されない。
これはまったく独りではできないことだ。そこに至るまでは多くの人に迷惑をかけなければならない。多くの時間も必要だ。むろん直線道路を歩むわけではなく、舗装されてもいない。道無き道であるかもしれない。
いつか忘れてしまうような悩みならば大したものではない。だが、そうでないならば哲学まで昇華する可能性がある。深刻な悩みほど偉大な哲学が生まれる可能性がある。
しかし、出来上がったものが果たして哲学といえるかどうか。それはいつまで経っても試論であり、常に修正を強いられる未熟な論理かもしれない。あるいは、言葉にもならない秘めた決意といったものかもしれない。
C'est la vie.
私は若い頃、自分のバイブルを求めた。それはボオドレエルの『ダンディ』であったり、ポオの『エレオノーラ』の序文であったり、モンテーニュ『随想録』であったりした。あるいはジョルジュ・ムスタキの唄『僕の自由』、あるいは映画『天上桟敷の人々』に登場するラスネールのセリフ、あるいはルノワールの『イレーヌ・カーン・ダンヴェルス』であったりしたこともある。
日常的な悩みや疑問を高みへと引き上げてくれたのは、河合隼雄や本田勝一の書物からだったし、そのほか連ねたらきりが無い書物、映画、絵画、音楽、そして、多くの人たち…。