雑感104 相談事について Previous 雑感メニュー Next

 他人の相談事に乗れるほど経験豊かでもないし、心が広くもない。だから、たいていは聞くだけである。役に立とうと思わないこともないが、聞くだけでいい場合がほとんどであって、せいぜい一緒に考える姿勢を見せるぐらいで十分なのだ。
 それ以上をしようとするならば、相手の運命に巻き込まれることになり、自分の運命ともども引き受けなければならない。それは好意からであっても、結果的にうまくいくかどうかは分からない。
 たまたま知っていた事が相手の役に立つことはあっても、私でなくてもいいことが多い。いつでも解決するのは当人であって、決して私ではない。
 私はせいぜい「鏡」の役割をするぐらいしかできない。それも、曇った鏡である。
 細部を映さぬ水面の反映は、しばしば現実よりも美しい。現実の姿から大きく隔たっているからだ。しかし、真正の鏡でないからこそ、問題を浮かび上がらせたり、単純化することはできる。
 いずれにしても、この鏡が役に立つかどうかは私が判断することではない。
 悲劇であろうが、喜劇であろうが、ドラマの主人公は相談者である。相談されたほうは端役で、主人公の運命を左右するほどの力はない。運命を左右したとしても、それは主人公がそういう選択をしただけのことである。
 街角の占い師と同様、いかに信じられるように演出しても、主人公は次の角で別の占い師に手相をみてもらうかもしれない。それを見かけても、なお自分が役に立ったかどうか判断できない。まるで役に立たなかったかもしれないし、単に聞いてもらいたいだけなのかもしれない。あるいはまた相談相手を突き放すようなエネルギーが、問題解決に必要だったのかもしれない。
 それは他人の運命であって、どこまで行っても自分の運命ではない。店じまいすれば自分の運命の中へ帰っていかなければならない。
 こう考えることが無責任であるとか淋しいとか、冷たいとか思ううちは、まだまだ未熟だと思う。だが、そう思わなくなったとき、果たして自分は賢人でありうるのか、そもそも人間でありうるのか?