雑感106 記憶力が弱い人のための知識論 Previous 雑感メニュー Next

 久しぶりのエッセイ更新である。
 私はこのエッセイにはほぼ心情を吐露してもいるし、自分としては正直に書いているつもりでもいる。しかしながら、私が棲む「世間」と、これを読んでいる人の「世間」とが重なるかどうか、同じ幻想を抱いているかどうかには、確信は持てない。というより、持たないようにしている。
 絶対的な真実を書いていると思い込むことはある。たぶん幸せな時だろうと思うが、そんなことは滅多になく、長くも続かない。いずれは踊った文章を醒めた目で眺めている自分がいる。そんな文章でも「今のところは」という枕詞を添えるぐらいで放っておく。どんな文章であれ、私と同じく移ろい易いシロモノだ。「絶対」が書けないからこそ書きっぱなしにしておけるとも言える。
 書いている文章ほどには口に締まりがない。おしゃべりというわけではない。悪い癖だが、ときどき自分はひょっとして天才なのではないかと口にして、失笑を買ったりする。笑われるのは構わないが、妙にうなずかれるときもあって、自己嫌悪に陥ることもある。
 まったく自己陶酔こそが生きている実感というもので、泣いたり喚いたり、思い上がったこtを書いてみたり、できるうちにせいぜいやっておこうと思う。そうして死ぬ寸前までジタバタしていられるならば、それはそれでやはり幸せなのかもしれない。
 天才などと言わなければいいとも思うが、言わずに自分の中にしまっておくのも考えてみればイヤラシイ。言いたくなるのは、己が向上心の源は高い知性にあると思い込んでいるからである。そもそも、ときどき他人に気張って言ったりしないと、自分で自分にムチ打てないぐらい不確かな自覚なのである。なに、そうしょっちゅう言いたくなるわけではない。こちらも、相手が忘れた頃を見計らって言っているところがある。そうやって自己顕示欲を手なずけながら、なんとか「世間」とうまくやっているつもりである。
 ついでに書くが、俺は人間的には申し分ないからねなどということも言ったりしてしまうことがある。これは本当に冗談で、逆効果を期待して言っている。いい人だと思われるのは構わないが、いい人と思われようとしていると見なされると、いろいろと不都合が起こる。人格者を打ち出してボロ隠しに追われるより、失礼な人だと思われていたほうがラクである。
 自分がどう相手に映るかといういうことは、おおかた自然に任せて(つまりは相手任せで)、自分ではあまり工夫しない。たまに工夫したい気持ちになったときは、「俺は人間ができてるから」と発言して笑われれば、それで気持ちが納まってしまう。身の程も分かろうというものだ。

 さて、私は非常に大雑把な性格であることもあって、正確な知識を求められると尻込みする。自分の部屋にいるときなら、インターネットも含めて、辞書やら百科事典やら検索するものがたくさんあって安心である。アバウトな性格だからというわけでもなかろうが、記憶能力まで大雑把なため、せっかく調べてもすぐに忘れてしまう。電話番号さえ暗誦できるものが常に10指に満たないありさまである。
 非常に興味があることでも長期記憶になることは稀だ。たとえば休日にはよくクラシックギターを弾く。楽譜を山ほど持っているのだが、すべて暗譜している曲は数えるほどしかない。その代わりというか、それだからこそというべきか、初見で弾くことにそれほど困難は感じない。楽譜さえあれば弾けるというのは、楽器をやらない人から見れば凄いことかもしれないが、小説をただ行き当たりばったりに朗読しているようなもので、暗譜するほど弾きこなしていない音楽がそれほど美しく響くはずもない。
 何年かに一度、発作的に中・高校生向きの参考書を読みたくなる。基礎を忘れないためとか、勉強好きだとかではなく、ときどきそういうことをしないと記憶力が錆び付いてしまうという危機感のためである。記憶力に対する危機感というのは、学生時代からずっとあった。したがって記憶力が衰えてきたというような焦りはない。最初から弱いのである。
 普通とは逆のようだが、仕事上はなるべくメモはとらない。予定表も作らない。メモをとったりすると、あっという間に忘れてしまうからだ。これを友だちに言ってみたら、やはりそうしているというので、案外いるのかもしれない。アポイントメントの日時などは忘れたことがないと言っていた。私もやっぱり忘れたことはない。かえってメモをとったりしている人を見ると不安になる。仕事のことならまだしも、プライベートの約束まで手帳に書き込まれたりすると少し不愉快である。そんなに忙しいなら無理して会うこともないと思ってしまう。
 とりみきのマンガで『アルツハイマー伯爵』(筑摩文庫『ときめきブレーン』所収)という短編がある。老人の怪盗で、犯行予告をするのだが、予告したこと自体を忘れてしまう。あまりのことに秘書が机の周りに「10時決行!」というような張り紙をべたべたと貼り付けている。私はそんなにはひどくはないらしいが、油断はできない。
 むろん、メモがないため思い出す手がかりさえないという事態に陥ることもある。しかし、憶えるしかないというプレッシャーを与えておかないと、この記憶力はすぐにエンストを起こす。忘れれば他人に再度尋ねるということにもなる。何度も尋ねるのは申し訳ないし、迷惑なことに違いない。そういう負荷を抱えて、やっとなんとか動いてくれる情けない記憶力なのだ。そう言えば、楽譜を覚えられないのも、楽譜が手元にあるためかもしれない。
 手帳の類を持ったことがないわけではない。システム手帳に凝ったこともある。だが、今思えばアクセサリーのようなもので必須アイテムではなかった。今はメモ帳とアドレス帳を持ち歩いているだけだ。アドレス帳はよく使うが、メモ帳は年に一度使うかどうかといったところで、何年も持っているが、10ページも埋まっていない。しかも半分は電話番号などで、アドレス帳が見つからなかったため一時的に書いたものだ。ただしペンを持ち歩く習慣がない。

 論理的に導き出せる理屈ならば憶える必要は少ないので、コンピュータに関することなどは記憶のための苦労も少ない。すぐに試せるということもある。
 それ以外の分野、たとえば古生物学にも興味がある。なぜか巨大生物に惹かれる。一般向けの本だけでなく、専門書まで手を伸ばすのはもちろん好きだからではあるが、理屈がわからないと記憶に残らない気がするからでもある。実物に接する機会もないから余計憶えられない。イラストをマジマジと見たり、『ジュラシック・パーク』で擬似体験したりしても、実感というものがなく、かえって欲求不満に陥るところがある。記憶するためだけならば同じ本を何度も読み返せばいいと思うのだが、別に試験があるわけでもなく、元来楽しみで読んでいるわけだから、やはり次々違う本に当たってしまう。他人から見れば読書家とか勉強家に見えるかもしれないが、中身を期待されると困ることになる。
 小説やコミックまで含めれば本は月平均50冊は読むだろうか。これは自慢だが、一週間で100冊読んだこともある。教育関係の書籍ばかりで、教育の現状をまとめてレポートにする仕事だった。読みながら要点をワープロでタイプしていき、最後に大部の原稿を打ち出した。もう十年も前で、むろんほとんど内容は憶えていない。
 今思えば、あんなことができたのは、私が極めて忘れっぽい性質だからだったかもしれない。忘れやすさのために、データの重さに耐え切れたのだろう。記憶力に自信がないあまり、たかがデータと思っているから余計である。何とか憶えていられるのは論理的な骨組みぐらいだ。そのため他人に訊かれた場合、もっともらしい話はできるかもしれないが、根拠の薄い怪しい話になってしまったりする。
 博物学者の南方熊楠は、大巻の百科事典を毎日読みに通って、自宅に戻ってから記憶だけを頼りに一字一句、図版の部分まで全巻模写した。そんな芸当は私にとっては夢みたいなものだ。この話も何度もあちこちの本で読んだはずだが、何という百科事典だったのか、私は思い出せないのである。

 この脆弱な記憶力のために編み出した理屈でもあるのだが、知識そのものよりも、検索の仕方を知っていること、どこをどう当たれば目的の知識に至れるのか知っていることが重要であると思う。基礎的知識というものは必要だが、おそらくは高校一年生ぐらいまでの基礎を把握していれば十分だろう(このエッセイでも難解な表現やあまりに専門的な用語は意識的に避けている)。
 たとえばインターネットは検索エンジンの使い方が全てであり、それさえ使いこなせればほとんど万能のデータベースとなりうる。知的興奮ということを少しでも知っている人であれば、一度検索エンジンを使ったら手放せないと思うぐらいの衝撃を受けるはずである。特に私のような記憶容量の少ない人間には、画期的に便利なものなのだ。
 検索エンジンは、インターネットという膨大な辞書から情報を取り出す索引ページだと考えることが出来る。様々な種類のものがあるが、特定の情報を引き出すためにはどんな辞書を使えばいいか、何をキーワードとするか、どうやって絞り込んでいくかという、中学生では当然会得しているはずの技術と方法論さえ知っていればいい。それだけで、ネット上のあらゆる情報を収集できる。
 記憶力の弱さゆえの主張なので、記憶力がいい人はあまり気にしないでいただきたい。なお、私と同様の悩みを抱えている人は、ボルヘスの『記憶の人フネス』(岩波文庫『砂の本』所収)を読めば少しは安心できるかもしれない。記憶が完璧すぎて何も認知できない男の話である。