雑感107 価値観について Previous 雑感メニュー Next

2001/??/??

 モンテーニュによれば、知識欲は人間の最も自然な欲求である。人は死を目の前にしたときでさえ「なぜ自分は死んでいくのか」知ろうとするからだ(『随想録』白水社)。これ以上簡潔で明瞭な知識欲の定義は知らない。
 とはいえ、誰でもそうだったと思うが、授業が難なく頭に入ってくるというわけにはいかない。知識欲と記憶力とは別物だし、英単語にしても年号にしてもほとんど無意味なことを丸暗記しなければならないのは苦痛以外の何者でもない。教科書的な知識が役に立たないとは思わない。ろくに意味も分からず寺子屋式に憶えさせられた知識がいつか意味を持つこともある。だが、先のことを思ったところで苦労が減るわけではない。
 日常生活の大半が分からないことだらけの学童であるからこそ、あれほど無意味に知識だけを吸収することができるのかもしれない。逆に言えば、今の詰め込み教育はある面では正しいということになる。
 確かにただ知るだけで満足感を得てしまうことはある。たとえば水族館では、さして興味も惹かれない魚の学名表示だけは見ておこうと思ったりする。大して感銘もない絵画の作者名と作品名を見て、ふうん、と思ったりもする。むろん何も納得してはいない。そんな程度の知見を長く憶えているはずもない。
 知識は単なるデータであり、それだけでは役に立たない。それは論理を組み立てるための道具であり、判断や価値観を形作る材料である。知識は必要だ。だが、終点ではない。出発点として知識は必要なのだ。知識がなければ物事を認識したり、考えたりすることも出来ない。
 人は名前を知ること(あるいは名づけること)によって、たくさんのモノから1つのモノを識別することができるようになる。たとえば水族館でマグロの水槽の前にいるとしようか。よく見てみると、形の違う2種類のマグロが泳いでいるようだ。もしかするとオスとメスかもしれない。そこでどこかに名前が書いていないかどうか探す。そこで初めてキハダマグロとビンナガだということを知ることになる。もしその水槽にカレイが混じっていれば、2種類のマグロであることさえ気づかなかったかもしれない。
 もっと簡単な例を示そう。水の入ったグラスが机の上にある。もし、「机」という言葉も「グラス」も「水」も知らなかったら、これらを認識することはできないとする哲学上の理論がある。唯名論、もっと広義には概念論というやつである。机上のグラスに入った水は、平らな木材の上にある透明な容器に入った透明な液体とも表現できる。だが、透明という言葉を知らなければどう表現すればいいか。木を知らなければどう把握すればいいだろう。もし言葉がなければ何も区別できない。区別できなければ、それは無いも同然なのだ。
 筒井康隆の小説にこの世からだんだん言葉が消えていくというのがある(中公文庫『残像に口紅を』)。五十音が一章に一つずつ消えていき、「あ」なら「あ」のつく言葉が小説中から消えていき、他の言葉で代用しなければならない。主人公は自分の子供の名前を思い出せなくなり、最後にはその存在すら忘れ、自我も世界も消えていく。

 知識が先か認識が先かという話はともかくとして、その知識ないしは認識を一つの物差しの上に並べてみたときに、初めて価値観というものが関わってくる。大きさや数といった量的な評価はもちろんのこと、真善美といった審美的な評価は、すべて比較することによって可能となり、価値観として形成されていく。
 最近の水族館はパノラマ的な展示になっていることが多く、大水槽に何種類もの魚が一緒に泳いでいる様子はもはや風景である。一つの水槽に一種類ずつ並んだカタログ的な展示だと、頭の中に魚とネームプレートが順路どおり等質に並んでしまう。そのまま真面目に全部見ていくと、遊びに来ているはずなのに、一問一答式の問題集をめくっているように疲労してしまう。
 子供の頃はせっかく来たのだから全部見ないともったいないと思っていたが、この頃は大水槽などのメインディッシュの前でゆっくりできないほうがもったいないと思うようになってきた。
 考えてみれば、これは知に対する姿勢の、子供から大人への自然な変化なのかもしれない。要するに、子供のうちは何でもかんでも吸収したがるのが自然なことで、だからこそ大人になってから一歩踏み込んだり、あるいは一歩離れた見方ができるというものだ。
 水族館と違って、美術館のほうは相変わらずカタログ展示が多い。美術展となるとなおさらだ。海外では巨大な壁面いっぱいを使ってたくさんの絵が飾られていたりするが、日本ではほとんどそのようなことはない。一列に並んだ絵を行儀よく並んで人の頭の隙間から眺めなければならないのである。こういう状況ではいくら絵画好きとは言え足が重くなる。
 先日のブリューゲル展は、それでも見にいった。めったに来ないからである。予想に反してかなり空いていた。土曜日の午前中というのが良かったのだろうか。
 大きなキャンパスだった。珍しく画の前に柵も硝子もない。直接表面を触ってみたいという誘惑に駆られるのを抑えて、群集の一人一人の顔を間近で眺めた。画自体がパノラマであり、いつまでも飽きない。一緒に行った友だちに「これはやっぱり当時のマンガだね」と言うと、「うん、そうだねえ」と笑って画に見入っている。画集からは想像もつかない圧倒的な迫力の「漫画」なのである。こういうかぶりつきの見方ができるという点では、カタログ展示は嬉しい限りだ。混んでさえいなければ。
 絵画の見方について書きたいわけではないし、ましてブリューゲルを美術批評しようという気もない。その方面の楽しみを知っている友だちと話すとしても「『ネーデルラントの諺』を見てきたよ、いいだろう?」ぐらいなものだ。それで通じるのである。あれは見たほうがいいとか、ここが意外だったとか、二言三言で印象が伝わる。それはやはり自分の価値観に基づく自分の言葉だからだと思う。
 漫画が出てきたついでに贋作をテーマにしたコミックについて少し言及しよう。
『ゼロ』(原作:愛英史/漫画:里見桂/集英社)のような教養としての絵画の捉え方はなかなか興味深く読ませる。しかし、これを読んで実際の絵画の印象が変わるとは思われない。むしろ絵画から受ける印象を固定化してしまうような気がする。私としては『ギャラリー・フェイク』(細野不二彦/小学館)のほうが好みで、絵画から受ける印象や美術の楽しみを広げてくれると思う。

 ま、ともあれ私は、美術品だろうが、落書きだろうが、面白ければ何でもいいと思う性質で、ジャンルにも流行にもほとんどこだわりはない。いわゆるブランド志向というのにも興味はない。
 鞄でも時計でも用を足せればいいと思うほうだ。いいものだと思ったら、たまたまブランド品だったということはあるが、ブランド品でなくとも構わない。仕事上でブランド品を扱ったことがあるので、どちらかというと避けているぐらいである。絵画でも同じことだ。ブリューゲルだから素晴らしいのではなく、凄い画だと思ったらたまたまブリューゲルだったり、子供の落書きだったりするから面白いのである。
 対象に興味が引かれるから名前や定義などの知識を身に着けるのが自然なことだと思う。たとえば、CMでちょっと流れた曲が気になって、ヴォーカルの名を知りたいというのが自然な知識欲というものだ。子供の落書きのような画があって、作者名を見たらピカソだったので改めてよく見てみると凄いような気がしてきた、というのでは情けない。が、まだ可愛げがある。素晴らしい画だと一度は感心したのに、作者が無名の学生と知ると、なんだ騙されたと思うような人だと、もはや完全に偏見の塊である。
 若い頃は、私も様々な偏見に取りつかれていた。何と言っても比較するだけの価値観が未発達だった。例えばルノワールがいいという世間的評価を仮の基準としてみるという過程が必要だった。そうやってあちこちつまんでいくうちに、自分の評価基準が作られていくものだ。世間的価値観を鵜呑みにすれば、偏見に囚われることになる。むろんその後にいろいろな絵画に接して結果的に世間と評価が一致するなら構わない。
 世間的評価というのは、データとしては1つだ。たった1つのデータを絶対的なものと思い込んで物事を捉えれば、偏った認識となるのは当たり前のことだ。世間的評価を過半数の意見と勘違いしている人は多いが、たいてい4割止まりの多数派の見解というのにすぎない。普通は2〜3割の人の意見だと思って間違いない。しかも、そこには世間的評価と自分の評価が一致していないと不安を感じるようなエキストラ的生き方の連中が混じっている。そういう傾向があるという以上参考にはならないのである。そもそも地域や時間の経過で変わるようなものに基礎を置こうとするほうが無理な話である。

 他人に合わせるかどうかというのは、選択肢の一つであるべきだ。たくさんのバリエーションを把握していなければ価値観は薄らぐものだ。人間の型を知れば知るほど自分の価値=アイデンティティが確定していく。善人になりたければ悪人を知らなければならない。悪いことを認めなければ良いことも認識することは出来ない。
 たとえば、今流行りの残酷童話について考えてみよう。親は子供を犯罪者にするまいと願い、立派な人間に育てようと思って、残酷描写抜きのご立派な童話だけを与える。すると、人間の残酷さや醜さについて価値尺度が荒すぎる子供になる。どういうことかというと、怒りを感じるぐらいで済まなければ、次の段階にはもう「殴る」、そして「殺す」ということになる。「殺す」に至るまでほとんど一足飛びである。
 殺すに至る前にできること、それを回避する方法は山ほどあっても、見たことも聞いたこともない。自分が殺した人間を見て初めて死がどういうものか知ることになる。「殺さない」ためには「生」と「死」を知っていなければならない。殺人が悪いことだと判断するためには、「殺す」ことと「殺される」ことを知らなければならない。しかし、たとえばディズニーの動物記録映画を子供に見せたところで、「生」と「死」についてどれだけ理解させることができるか疑問である。近ごろのテレビでもそうだが、あれほど見事に血をカットして「無害」にしてしまっては、「殺す」ことが何でもないことのように見えてきはしまいか。
 悪いことを知らなければ善しか選択できないという考え方もあるが、それではたまたま善を選んだことにしかならない。両方を知った上で自ら選択する力が必要なのだ。子供の頃には生きる喜びばかりを教え、醜いことは大人になってから知ればいいというのは大間違いで、それでは子供に何も教えていないことになる。表裏一体の価値観を別々のことと認識してしまうと、実感として捉えにくくなる。禁じれば禁じるほど好奇心が先立って異常な嗜好の原因ともなる。生死、善悪、美醜の価値感は、一種のバランス感覚の上に成り立つものである。健常者と身体障害者とを隔離する教育が当たり前になってきてから、こういうバランス感覚が崩れてきたような気がする。
 人間には想像力があり、暴力や死を直接知らなくても、フィクションからその痛みを知ることができる。いくらスプラッター・ムービーやバイオレンス・アクション映画を見ても、ほとんどの人間が犯罪に走らないのはそのためだ。むしろ、犯罪防止に役立つとさえ言えると思う。そんな映画に興奮して犯罪を犯すのは、さぞ「ご立派な」お子様だろう。
 価値観は絶対的なものではなく、相対的なものだ。善悪にしても、美醜にしても、両極端をどこまで知るか、どれだけのバリエーションを認識できるかが、価値観の精度と深みである。名画の美がわかるならば、そのまったく逆の醜さをも(少なくとも無意識的には)知っているはずだし、醜さを知らなければ美も分からない。悪を否定する善人は疑わしい。悪も善も知っているほうが人間に見える。

 ここに書いてあるようなことを当たり前の前提としている人たちもいる。私もその一人であり、知人の何人かもそうである。その人たちにとっては、こんなエッセイを読むことに価値はない。
 もっとも、把握の仕方は同じであっても、解釈の仕方、実生活への適用の仕方には異論があるかもしれない。私も書くのは好きだが、論文を書くのが得意というわけではない。大した人間ではないのだ。まあ、弁解しても仕方がない。ともかく、こういうことを当たり前に知っている人と、そうでない人がいる。あまりに明確な違いなので、私はほとんど一目、一言でそれと分かる。
 誤解を恐れずに書くが、人間には二種類いると思うのだ。論理性の違いとか知識の違い、倫理観や経験の違いではない。頭の良さとも年齢とも関係がない。物事の把握の仕方が最初からまるきり違うのである。勉強すれば身に着くことでもないと思う。むろん思索と論理によって、あるいは書物などからの影響によって同じ見解を持つように至る人はいるだろうと思う。私が言っているのはそういう人のことではなく、言葉にしてみるとそういう見解になるような人たちのことである。コリン・ウィルスンの用語で「アウトサイダー(OUT-SIDER)」と言うのが適当かもしれないが、私は好んで「アウトロー(OUT-LAW)」という言葉を用いる。
 同じアウトローだからといって同じ結論に至るとは限らない。言葉にしてしまうと論理の持っていき方や材料によって様々な結論に至るとは思う。たとえば、両親は徹底的に善なるものを子供に教え、家庭以外のところから悪は学ぶべきだと考えるかもしれない。つまりそういうことを公然とではないが、ある程度見逃すのである。結果的には同じ事だ。適用の仕方は千差万別あると思うが、見えていることは同じである。
 こういう二種類の人間を隔てる境界線がある。私の側の人間=アウトローならばいつでも踏み越えられ、自由に行き来できる境界線だが、その境界線はアウトローが作ったものではない。インロー(IN-LAW)が勝手に作って自分たちを閉じ込めているものだ。まるで出られないわけではない。だが、異郷の地のように長く踏みとどまることは出来ない。頭で理解できても、行動に反映させることは困難だ。仮に踏み越えられたとすると、それはある日突然起こり、二度と元に戻ることはできないだろう。
 歴史家アーノルド・トインビーの言葉を借りれば、「創造的少数者」の側にいる人間とその他の人間ということになるだろうか。一般的な常識とか道徳、倫理といったものが、インローの人たちの境界線だ。アウトローにとっては、それは普通らしく振舞うためのマニュアルにしかすぎない。
 私が「創造的少数者」だと言いたいわけではない。「創造的少数者」というのはアウトローだとわかるだけだ。中には自覚のないアウトローもいるが、決定的な違いは隠しようもない。
 だが、アウトローでいることがいいことなのかどうか、


2016/11/09

 この雑感は途中で終わっている。おそらくは15年ほど前のものだ。最初は調子よく筆を進めているが、後半はだんだん失速して不完全燃焼になっている。テーマから離れたことに気づいて、修正が効かなくなったのだろうか。前半が気に入っているので再録しておく。
 今の私には「アウトサイダー」とか「アウトロー」といった気負いはない。単純に自分は自分と思っている。これを書いた時には、まだ根本的な違いに気づいていなかった。