雑感109 四大紙の相対的性格 Previous 雑感メニュー Next

1998/05/03

 	朝日	自律的	   毎日

理性的 ←    → 感性的

  読売 他律的 産経
自律…自己を全体、他を部分と捉える。自己中心。
他律…自己を部分、他を全体と捉える。他力本願。

  • 朝日新聞:理性的自律的ジャーナリズム
     論理的、分析的、理想的。
  • 毎日新聞:感性的自律的ジャーナリズム
     心理的、精神的、観念的。
  • 読売新聞:理性的他律的ジャーナリズム
     常識的、経験的、現実的。
  • 産経新聞:感性的他律的ジャーナリズム
     調和的、道徳的、連帯的。

     上の傾向から導かれる保守反動傾向は以下の表のような序列になる。

    朝日新聞  毎日新聞  読売新聞  産経新聞
     左傾 ← → 右傾

     各新聞の保守・革新の右傾・左傾傾向を、ざっと並べてみたが、たとえば毎日と読売の中間程度の新聞があれば、それが中立の新聞だと言うわけではない。あくまでも商業紙の相対的傾向にすぎない。朝日新聞さえ右翼と思っている人が存在するし、産経新聞こそ中立だと思っている人も存在する。四紙とも読めば、多少はバランスの取れた新聞の読み方ができると思うが、それはやはり四紙の枠組みの中で相対的にバランスがとれるにすぎない。
     仮に絶対的な中立的立場というものを考えてみると、何にでも反対して決して賛成するところがないか、あるいは、何にでも無批判で反対しない立場が考えられるが、それをそもそもジャーナリズムと呼べるかどうか疑問である。
     部分的にみればどの新聞にも右傾と左傾の要素はある。どの新聞が好みでも読者自身の政治的傾向と合致しているとは限らない。しかし、新聞の性格を把握していれば役に立つこともある。
     たとえば、朝日の醜態報道は多量に流され、読売のそれはあまり流されない。読売が正しいからだろうか。
     他律的なメディアの特徴は、他を否定することによる自己正当化にある。つまり、物事を論理的に分析追及するのではなく、材料の反道徳的・反常識的な面を突いて読者に同調させ、自らこそが正しいと認識させる形をとる。極端な形としては、週刊文春のようなゴシップ誌の類いがある。見出しを並べるだけで戯画的で、材料のダメなところを叩く記事ばかりである。新興宗教系の新聞もたいていは否定語ばかり並んでいる。
     自律的な言論にそれは本来的に無用である。朝日新聞は朝日キーワードなど辞書的あるいは総覧的な出版物があるが、読売新聞社からその手の書物が出版されることはほとんどない。天声人語と編集手帳で明示的に分かるが、国語の試験に出すなら天声人語、科学記事の参照も朝日からということが多い。報道番組で喩えればコメンテーターがいるかいないかの違いだろうか。
     個人的な好みを言ってしまえば、新聞紙は情報を得るためのものだから単に事実を時系列に並べてあればいい。それが真実かどうか賛同するかどうか、あるいは役に立つかどうかの判断は読者に委ねられるべきで、道徳や社会常識、良識を説くのではなく、その材料を提供するということだ。朝日がダメとか読売がダメだとか言う人は、新聞に何を期待し、何を読み取っているのだろうか。不特定多数におもねるほど、あるいは、理屈を並べるほど事実は歪んでしまうものだ。
     大多数の読者にとって報道は、まるごと鵜呑みに信じるものである。事実を自ら検証することもない。噂や評判、メディアがどう報道するかがそのまま自分の判断になる。そういう意味で、「共感できる事実」を書いている読売のほうが「正しい」新聞とは言える。
     朝日は理想を追う傾向があるがゆえに、事実を創る傾向も持ち合わせているという見方もできる。つまり、事実を論理的に分析していくだけではなく、論理に事実を当て嵌めようとすれば、そうあるべき事実が欲しくなる。

  • 日本経済新聞について
     一般に全国紙といえば読売・朝日・毎日・日経・サンケイ(発行部数順)の五紙であるが、日経は経済新聞であり、他の全国紙とは基本的に性質が異なる。
     日経は様々な経営戦略を行い、系列会社も多々あるため新聞の発行部数では4位だが、企業全体の売上となると朝日を大きく上回る急成長をしている。しかも巨大資本との提携のありさまも他紙とは比べものにならない(NTT、日立、NEC、富士通、三菱商事、三菱地所、住友商事、東京ガスなど)。また、編集作業は早くからコンピュータ管理を取り入れて合理化・細分化されており、そのぶん記者は様々な営業を担わされている。企業にどれだけプラスになるかが、記者の出世に大きく関わってくるというのが現状だ。
     このため、一般ジャーナリズムというより経済情報紙である。したがって分類の対象からは外したわけである。

    2016/11/5
     この文章は約20年前のものだが、大本は30年前の当時の友人との書簡のやり取りの中で生まれたものだ。今では大衆紙にそれほど差異はないだろうと思っている。
     ただし、新聞を取らなくなってもう10年は経つ。情報はもっぱらネットで取得する時代だ。実は新聞のことは二の次で、どんな価値観だったのかの方に重きがある。
     最初に掲げた図は、新聞だけでなく様々に当て嵌められると思って、これを書いた後しばらくは記憶の表舞台にあったのだが、いつからか左右の「理性的」「感性的」という単語すら思い出せなくなってしまっていて、ずっと原文を探していた。ようやく見つけたのがこれだ。当時の友達へ書いた長文の手紙の一部で、オリジナルはもはや大量のフロッピーと共に捨ててしまったのではなかろうか。「自律的」を「論理的、分析的、理想的。」と注釈していたことなどはすっかり失念していて、我ながら発見だった。
     多少の手直しを加えてはあるが、新聞の分析結果を書いているつもりで価値観そのものに引っ張られているようにも見える。ただ当時は、次の雑感の「四大紙の投書欄比較分析」のように科学解説や記事、社説、投書欄といった大枠ごとの比較を大真面目にしていった結果、この表に決めたのだ。残念ながら投書欄分析の途中までしか原文は見つからなかったが、これはそのまま載せてさらに考えてみたいと思う。