雑感110 四大紙の投書欄比較分析 Previous 雑感メニュー Next

1998/05/03

 各新聞の投書欄は庶民の声というよりも、むしろ、新聞編集者そのものの声と言っていいだろう。通常紙面では書くことができないようなことも、庶民の名を借りれば主張することができるというわけである。前回の「四大紙の相対的性格」は、実は投書欄の分析から得たものである。

 毎日新聞 「みんなの広場」より
心を養う場と時間が欲しい
          高校生 東 幸恵 16 (静岡県天竜市)
 高校へ通って感じるのは、私たちは十代というのに、あまりにも感情に起伏がないということです。何をしていても“ポーカーフェース”の人が増え、泣いたり笑ったり、怒ったりするような人が減っているように思う。
 心温まる話を、なんとも思わずに聞いている生徒が増加しつつあることに教育者はお気づきでしょうか。
 マンネリ化する毎日、時間に終われる毎日。私たちには喜怒哀楽を表現する場がないのです。表現したくても、すべての感情を押し殺して毎日を送っているのです。
 私は心配です。私たちの未来が冷淡な大人たちによって支配されてゆくのではないか、と。心を養う場と時間が欲しい。


「“ポーカーフェース”の人が増え」という指摘は、筆者自身からも感情が失われつつあるということを示している。というのは、ポーカーフェースに見える者に対しては、やはりポーカーフェースで接するしかないし、相手のポーカーフェースを切り崩すほどの溢れる活力も持ち合わせていないということだからだ。つまり筆者も「泣いたり笑ったり、怒ったりするような」ことが減ってきているわけである。「心温まる話を、なんとも思わずに聞いている生徒が増加しつつあることに教育者はお気づきでしょうか」と訴える筆者は明らかに「なんとも思わずに聞いている生徒」に同化しつつあると言える。「マンネリ化する毎日、時間に終われる毎日」という表現は筆者自身の心の貧困を物語っているに他ならない。こうした責任を筆者は教育者に問い、その反省を求めている。「すべての感情を押し殺して毎日を送っている」筆者は「未来が冷淡な大人たちによって支配されてゆくのではないか」と「心配」している。しかし、これほど率直な告白は誰にでもできるというものではない。
 投書の訴えは生徒から教育者へ、さらに子供から大人へと展開されている。ここで問われているのは、国家でも社会でもなく、私たち個人個人である。毎日新聞は政治的には無批判的なところがあるが、それはそもそもの問題解決を政治的倫理レベルに求めていないからである。投書中には「未来が冷淡な大人たちによって支配されてゆく」という言葉がある。これは人間性をあまりにも軽視した合理主義や全体主義への反感と受け取っていいだろう。理屈や学力程度ばかり取り上げることこそ、この投書者と、この投書を選んだ毎日新聞の非難するところである。「心を養う場と時間が欲しい」という言葉に象徴されるように、毎日新聞が求めるものは、一人ひとりの良心の喚起といっていい。

 毎日新聞的立場から他の三紙を批判すれば以下のようになるだろう。
 朝日新聞…理屈ばかりで感受性を軽視している。
 読売新聞…道徳や規則によって人間性を呪縛している。
 産経新聞…情動を発散させるばかりで、心を養うことを忘れている。

 読売新聞 「気流」

 大検受験者の独学高く評価
           教員・菅原 昭治 59 (浦和市)
 大検(大学入学資格検査)の合格者が発表された。その六割が高校の雰囲気になじめなかったり、授業についていけなかったりして、中退した者であるという。高校浪人の合格者が二十六人もいる。
 つまり、予備校や独学などの学習の場で、十分に高校卒業の学力に達成できた人もいるということである。これらの勉強好きの若者に深い敬意の念を持つ反面、高校教師として自己の力の足りなさに恥じ入る。
 文部省は、大検の趣旨にそぐわない、高校教育を混乱させると、やや批判的であるようである。私はむしろ、学校などを当てにしない自主的独学を、今日の教育改革の一つの原点と高く評価する。
 明治の学制発布以来、教育は「お上からの賜りもの」という意識が根強く、盲目的な学校信仰を生みだしてきた。いつまでも形式的な、学校のみをよしとする考えは時代錯誤ではないだろうか。


投書者は「高校の雰囲気になじめなかったり、授業についていけなかったりして、中退した者」や「高校浪人」の若者たちでも「予備校や独学などの学習の場で、十分に高校卒業の学力に達成できた」という事実をふまえ、「勉強好きの若者に深い敬意の念を持」ち、「学校などを当てにしない自主的独学を…高く評価」して、「盲目的な学校信仰」を非難する。「形式的な、学校のみをよしとする考えは時代錯誤ではないだろうか」とまで主張している、言わば実力主義的な考え方の持ち主である。一方では、「高校教師として自己の力の足りなさに恥じ入」り、積極的に「学校などを当てにしない」でいい大学入学資格検査の意義を教育改革の成果として認める。つまり、学校の存在を否定しているわけではないが、自主的学習も認められてしかるべきだし、大いに評価されるべきだと言う。その意味で大検の意義は大きい、そう投書者は主張する。

 投書は、教育者から教育関係者へのメッセージである。落ちこぼれ問題や、高校浪人の問題を、個人的資質とそれに合った教育といった観点から捉え、また、それぞれの学力を社会的にどう評価していくべきかということを論じたものである。大切なのはどのような教育過程を得たかとか、どのような学校へ通ったかということではなく、学力程度であって、その点で投書者は文部省の見解を非難している。読売新聞がこの投書を選んだのは、大検を通じて良識はどのように獲得されるべきか、社会的評価とはどのようにあるべきかを論じた文章であるからだ。

 読売新聞的立場から他の三紙を批判すれば以下のようになるだろう。
 朝日新聞…理想ばかりで常識や現実を無視している。
 毎日新聞…個々の人間性を信頼しすぎて、道徳性を考えない。
 産経新聞…現状肯定的すぎて、批判力が乏しい。

 朝日新聞 「声」

 現状に満足が七割というが
         大牟田市 木村 ケイ (高校教師 65歳)
 先日総理府から国民生活に関する世論調査の結果が発表された。それによると、七割が現在の生活に満足ということである。
 国鉄の民営・分割化に伴う国鉄職員の去就、炭鉱閉山におののく炭鉱労働者、円高による中小企業の大量の倒産、鉄冷え、造船不況、老人保健法改悪による医療費の支出増大、年金の切り下げ、離婚の増加など、どこをみても私たちの生活をおびやかす材料が山積みしている。それなのに、70%の国民が満足しているという数字には、到底納得できないものがある。
 夫と妻との関係はうまくいっているのか、子供のいじめの問題や、進学に対する悩みはないのだろうか。嫁と姑との関係は、隣近所や友人との付き合いはなど。このような人間関係が、すべてスムーズにいっているというのだろうか。
 中流といい、上流という。その基準はどこにあるのだろう。世の中の矛盾から目をそらすため、いたずらに中流意識をあおるような感じがしてならない。


「総理府から…発表された」「それによると…ということである」という書き出しで始まるこの文章は、政府の世論調査報告の虚偽と、それを無批判に信じる危険性を、数々の社会問題と照らして証明しようとするものである。「国鉄の民営・分割化」から「離婚の増加」までは、主に経済社会問題の列挙である。「夫と妻との関係」から「隣近所や友人との付き合い」までは主に人間関係問題の列記である。「どこをみても私たちの生活をおびやかす材料が山積みしている」という筆者の悲観的世界観は、「70%の国民が満足しているという数字には、到底納得」させられない。「中流といい、上流という。その基準はどこにあるのだろう。世の中の矛盾から目をそらすため、いたずらに中流意識をあおるような感じがしてならない」というように、絶対的基準というものに対して疑問をかんじている。
 投書が提出している根源的問題は、報道の大衆煽動の重大性、個々の人間関係と中流意識との無関係性と全体主義的傾向への危険性などである。この投書を選んだ朝日新聞の立場を代弁したものであると言える。『朝日キーワード1987年版』によれば、中流階級とは、〈将来の経済生活に不安を抱かずにすむだけの個人的資産をすでに持っているか、確実に持てる人たち〉である。実際の経済的程度を考えると、こうした人は日本人全体の約2割程度であるらしい。つまり、中流意識と実際に中流階級といえるかどうか、さらに人間関係も中流なら円滑とは言い切れないとしている。

 朝日新聞の立場から他の三紙を批判すると以下のようになる。
 毎日新聞…論調が低く、実際の批判勢力とはならない。
 読売新聞…既成概念に囚われているため、現状肯定的になりやすい。
 産経新聞…全体性傾向が強いため、細部を無視する傾向がある。

 青少年の育成について 筒井康隆・読売新聞

 青少年育成キャンペーンであるのだそうで青少年の育成というテーマで語れと依頼されたのでありますがわたくしは小説を書いている者でありまだ青少年の育成をしたことがなくそのような本を読んだこともないので困っております。たしかにわが家にも中学生の息子はおりましてこれはいわゆる青少年ですからこれを育成していると言えぬこともありませんがもし育成しているとしてももちろんその効果はまだわからぬのであります。しかし何か語らねばなりません。青少年の育成ということでありますがこれば要するに仕事としてはたいへんな仕事であろうと思われます。どれぐらいたいへんかというとちょっと比較する適当な例を思いつきませんがたとえばわが家で飼っておりますハムスターの育成などというものとはもちろんそれはもう比べものにならぬほどたいへんな仕事でありこれは声を大にして断言することができるのであります。さて次に問題となるのはよくわかりませんが青少年を育成するにはどうするかということではないかと思います。わたくしはどうすればよいと断言できる立場の者ではないのですがしたがってこの青少年を育成するにはどうするかを知っている大人を育成することが重要ではないかと。つまりこれは何も知らぬわが身を振り返ってそう思うだけでありますのでお気になさらぬよう。さて青少年を育成する大人の育成についてでありますがこれは神様のようにすべてを悟り何でも知っている大人を育成するというのは文章でなら書けますが実際には不可能です。さらにまた実際に神様が青少年の育成にあたられた場合これはたとえば人口の減少など不都合なことが出てくるのではないかとも思われます。これはやはりそれぞれの専門家を育成することが好ましいのでありましょう。つまりこの青少年の育成を大人が分業でやることになります。もうやられておるのかもしれませんがよく知りません。それでは青少年の育成にあたる大人はそれぞれの専門のことさえ知っていればいいのかというとそれだけでもよくないのではないか。いくら体育の先生として優秀であっても男色家では困る。音楽の先生として完璧であっても夜ごと泥棒をはたらいていてはいけない。性教育のプロであっても暴力団員ではまずいのであります。ところが実際にはこれに近いこともあるのではないかと想像できるのです。たとえばこの道徳とか礼儀作法を教える先生は本来教える内容が保守的であればあるほどいいわけですから本人も保守的であっ


2016/11/12

 今となってはよく分からないところも多々あるが、どうやって分析していったのかは覚えている。相対的に評価するために、まず投書にある両義的な言葉に着目して分析していったのだ。当時はメルロ・ポンティを読み齧っていて、自分流に分析哲学的なことを実践したかったのだろうと思うし、それも、よく議論し合っていた当時の友達がいたからこそ記録として残っていたのだ。
 アンビバレントな言葉を抜き出していくのだが、さほど難しく考えてはいない。たとえば「泣く」という言葉は「笑う」の反対語だから除けておくというように、対語が存在する言葉を両義的とみなすだけである。両義的要素に感情や感覚的な言葉が多ければ「感性的」で、そうでなければ「理性的」である。
 それ以外の骨組みの方にはテーマと論法だけが残るので、それで自律的か他律的かを判断する。特殊な経験則や道徳、常識やルールなどに基づいた論法であれば他律的と判断し、普遍的定義や事実などの命題と数理的・形式的論理が主であれば自律的と判断する。
 より単純に書くと、感情論なら感性的、そうでなければ理性的。世間に従えば他律的、そうでなければ自律的である。そのどちらでもなく残った純粋なテーマと向き合って、自分でいかようにも判断できることが大事なことだと思う。
 今でも私はまずそういう判断の仕方をしているので、好き嫌いやら感覚的なことは無視するか、後回しにする傾向がある。その人自身の見解なのか否か、信じているだけか否か、伝聞か体験か、何をどうしたいのか、テーマだけ抜き出して目の前の相手まで情報ソース化してしまう。その方が話が早いからだが、いささか非人間的に見えても仕方がない。綺麗な絵を見せられて、データは何で処理はどうなっているか探るようなものだ。だが、決して無視しているのではなく、後回しにしているだけだ。