雑感112 引越坂(2) Previous 雑感メニュー Next
1998/05/03 - 2017/11/23


 1969年9月から1971年の3月までは東京の小岩に住んだ。それまでは店しか無かったが、家族全員で暮らすためアパートを借りた。
 ここでもやはり1階の奥の部屋で、その部屋だけ特別に玄関脇に物置がついていた。玄関を入ると台所で、3畳間、6畳間、それと洗濯物が干せるベランダがあった。

 始めは立ち食いそば屋だった。父と叔父の共同出資の有限会社で、軌道に乗るまでの1年ほどはほとんど店に泊まり込みだった。一家で小岩に移り住んでからは、叔父は時々姿を見せるだけになった。ほかにも色々やっていて忙しかったらしい。叔母が手伝いに来ていたこともあったが、店はもっぱら両親とアルバイトで切り盛りしていた。
 小岩駅南口から駅舎を出ると、広いバスロータリーがある。真ん中の植込みに時計塔が立っていた。ロータリーから3方向に大きな商店街の入口があり、右側が駅前商店街、左側が区役所通り、そして真ん中が店のある昭和通りだった。
 店は駅から2分ほどのところにあり、両隣は時計屋とふとん屋で、裏通りも東映の映画館や長崎屋があって賑わっていた。店自体は間口2間、奥行5間で、右に調理場、それをL字型に囲むカウンター席は10人も入ればいっぱいになる。左奥の壁に半畳も無いトイレのドアがあり、膝丈に1段上がると横長の座敷に押入がついていた。3畳の和室に1畳ほどの板間があり反対側に窓があった。テレビは押入れの前で、お客さん用の折り畳み式の四角いテーブルに座布団を4枚敷いていた。

 アパートは店から5〜600メートルほど離れたところだったが、最初のうちは店の座敷に家族4人で寝泊まりすることが多かった。座敷の両隅は家具や生活必需品でびっしりで、重なるようにして眠った。それでも朝早くから遅くまで共働きで、アパートに帰るのは面倒だったのだろう。引越荷物が片付かず、アパートも物置みたいになっていた。
 開店中は店の座敷は休憩室で、混んで来るとお客さんに開放したりもする。通気が悪いから調理場側の半分はいつも襖を開けていた。その隠れた半分で昼間を過ごし、夜はアパートで過ごした。

 その頃だろうか、父方の従姉妹が駅前の不二家に住み込みで働きはじめた。嬉しかった。15歳ほど年上で、生まれた頃から妹もよく面倒をみてもらっていたのだ。いつでも会えると思っていたが、仕事が続かなかったのか何ヶ月もいなかった。
 ある日、その頃大流行だったバンダイのコンピューターカーを買ってきてくれた。よそ行きの綺麗な服を着ていた。変にはしゃいからか、車はすぐに動かなくなった。直そうとしているうちに行ってしまった。それきり会っていない。

 やがて、そば屋は串カツ屋に変わった。儲けが出なかったからだという。
 その時に描いた絵は、どういう名目でか都内を巡回し1年以上帰ってこなかった。串カツ屋の店内を調理場側から見たもので、割烹着姿の母と油がたっぷり入ったタンクのような調理器具、カウンターの様子をぺんてるの絵の具で描いた。カウンターの向こうに少しだけ突き出た割り箸の束や、うつむき加減で仕事に集中している母の姿勢。背景を淡い黄色にしたのは父のアドバイスによる。憶えているのはそれぐらいだ。


 父は画が上手かったのだろうと思う。スケッチの鉛筆の持ち方や影の付け方、絵具や筆の使い方、色の出し方・作り方、鉛筆で事物を測る方法、構図の決め方など、みんな父に教わった。きちんとした画は見たことがない。やり方を教えるために、そのへんにある紙を使ってラフに描いてみせるのだが、それが速かった。質感の出し方にしろ、人物の捉え方にしろ、今思えば、かなりやっていないとああいう風にはできない。
 中学生に入って間もない頃にも、提出用に想像画を描いていたら、岩の描き方だけ教えてくれた。言うとおりにやってみたら、その絵は小学生の時と同じようなことになった。岩がリアルだとか、凄いとか、そこだけ褒められた。
 小岩にいた時に週に一度ぐらいだったか、妹と一緒に絵画教室に通わされたが、あれは父の意思だったのだろうか。大人も子供も入り混じった教室だった。ベレー帽を被った先生がいて、時々何か言われたような気もするが、特に役に立った記憶はない。ひたすら富士山の前を走る新幹線の絵を描いていた。

 お腹が空くと串に刺してある食材を勝手に選んで、小麦粉に溶き卵、パン粉をつけて油で挙げた。うずらの卵ばかり食べていた。そば屋の時はもちろん自分でそばを茹でた。ご飯はいつも十合炊きの釜に入っていたし、カレーも大鍋で温まっていた。好きな時に好きなだけ食べられた。
 風呂はまたしても家にはなかった。といって大して残念にも思わなかった。今でもそうだが、そもそも風呂好きではない。一度温まると火照りがなかなか抜けず、却って疲れてしまったり、眠れないこともある。気持ちいいだろうと言われて納得したこともない。
 銭湯に行くときは店から出発する。父と2人の時は駅に近い方の銭湯で、まだ明るいうちに行く。体育館のように天井の高い建物で、ペンキ塗りの海に浮かぶような富士山を見ながら熱い湯に入る。コーヒー牛乳かフルーツ牛乳を飲みながら壁に並んでいる映画のポスターを眺めて身体を乾かした。ポスターは何十枚もびっしり貼られていて、寅さんの新作映画などはもちろん、大魔神の3部作や『嵐を呼ぶ男』など古いものもあった。帰り道は本屋に寄って、出たばかりのマンガ週刊誌や雑誌をまとめ買いする。お客さん用を兼ねているのだが、マンガは父も自分も愉しみで店に帰ると競争するように読んだ。漢字はほとんどマンガで覚えた。
 母と行くときは妹と3人、アパートに帰る途中で別の銭湯に寄る。時間が遅いからかあまり混んでいない。そちらは色タイルを組み合わせたモザイク画で、池の中の金魚や鯉だったり、山水画や花だったり趣向が変わっていた。最初は3人で女湯に入っていたが、すぐ男湯に一人で入るようになった。母か妹の「出るよ」という声を待つのは寒い日ぐらいで、それ以外はたいてい先に出て待っている。隣の駄菓子屋は8時過ぎまで開いていて、もっぱらミニカーを物色していた。普通は150円。安くて120円で、高いのは180円。たまに一つだけ買ってもらうのが愉しみだった。
 真夜中に3人でアパートに帰ることもあった。もちろん銭湯は閉まっている。夏場はシンとした商店街をひらひら飛んでくるコウモリとすれ違う。ときどき国道沿いにポツンと一軒、ラーメン屋に灯りが点いていることがあった。女主人1人の店で、入った瞬間から母とは喋りっぱなしだ。最後の一杯を出すと、火を落とし、看板を仕舞い、シャッターを半分下ろす。他の客はシャットアウトだ。
 そこのラーメンが何とも美味しくて、いつの間にか汁まで無くなってしまう。
「開いてるよ。ラーメン食べていこうか。」

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 母の朝は早い。妹の幼稚園用の弁当を作り、食事の支度をする。父は深夜まで働くから、朝は食事に起きるだけですぐ寝てしまう。父を残して母と妹と3人一緒にアパートを出る。ハンドルにつけた補助椅子に妹を乗せ、自分はランドセルを背負って荷台に乗る。3人乗りのママチャリで店まで向かう。国道に出るところだけ少し坂があり、飛び降りて後ろから押す。道路を横切ればまた飛び乗った。幼稚園に妹を預けると、半開きのシャッターの中で母としばらく過ごしてから学校に行く。
 アパートから一人で学校まで行くようになったのは、自転車を買ってもらった2年生の夏頃からだ。
 夏は5のつく日を縁日と称して商店街に夜店が立ち並ぶ。確か水天宮の祭りだった。歩行者天国にもなり、駅前だからいつもかなりの人出になった。様々な出店があったが、目当ては雑誌の付録ばかりゴザの上に並べている店だった。中でも紙製の東京タワーはよく憶えている。雑誌が無いから作り方もない。独りで丸一日試行錯誤したと思う。出来上がってみれば背丈ほどもある精巧な東京タワーだった。
 何か組み立てたり、作ったりすることは好きだった。最初はやはり積み木からで、だんだん複雑なものを欲しがった。特にダイヤブロックは最終的にはみかん箱一杯になった。説明書通りに作ることにはすぐに飽きて、好きな形を作るためによく新しいパーツをねだっていた。パーツの大きさによるが何個か入っていて100円ぐらいからあったと記憶している。
 当時はレゴもあったが、デパートでしか売っておらずキットしかない。しかも高価だった。さらにレゴはくっつけるとなかなか外れない。丈夫さは要らなかった。いかに作りやすいかだった。
 ダイヤブロックで作った日本家屋は、座敷の白黒テレビの上に置かれた。お客さんが驚いて褒めてくれたと親は喜んだ。そうすると、しばらく手を着けない方がいいのかと思う。本当はすぐ分解して新しいものを作りたくて仕方がなかった。
 ほどなく図工用紙とボンドでやればもっと細かく自由にできると気づいた。1センチを20センチか25センチと計算して作っていた。家具も壁掛け時計まで作り、屋根を丸ごと外して中が見えるように工夫した。広い家が欲しいとか、映写室があったらいいとか、秘密の地下室を作ってみたいとか、ただ考えたことを形にしただけだった。
 ある日、父が分厚い建築法規集を買ってきた。もちろん小学2年生向きの本ではない。書いてあることはほとんど分からない。都市計画図や製図法など図版がたくさん載っていたいたからよく捲ってはいた。そのうち壁やドア、襖の書き方など、見よう見まねで方眼紙に家の設計図を定規で引くようになった。
 同じ商店街の文房具屋にはしばしば行った。図工用紙などは終いには束で買うようになった。店員のおねえさんとは親しくなった。トレース紙とか、製図用品とか、質問すればいろいろ説明してくれた。設計図が書けるようになってからは親に見られることも無くなり、好きなように何度も書き直しては一人だけで愉しむようになった。

 商店街の人たちはお互い知り合いで、角の八百屋のおじさんはガラガラの大声で「元気か」とか「こんちわ」とか声を掛けてくる。隣のふとん屋は若夫婦の店で、布団を打っているところに上がり込んでは遊んでもらっていた。反対隣、というより同じ建物の隣は時計の修理屋で、2階はその住居だった。子供もいたから何回かは上がった覚えがあるが、暗くて狭かったこと以外は思い出せない。カメラ屋の子と洋服屋の子は同級生の女の子で、よく店に行った。洋服屋の子とは一緒に宿題をしたような記憶も微かにあるが、2階の居間でトランプやボードゲームで遊んだことばかり浮かんでくる。
 一番の友達の家は手焼きのせんべえ屋で、直接売らずにどこかに卸していた。玄関を入るとすぐに大きな網焼き機があって、年がら年中親父さんが煎餅を焼いていた。焼き醤油の匂いが染み付いた奥座敷にダイヤブロックの箱を持ち込んで一緒に作ったりもした。小腹が空けば煎餅を自分たちで焼いて食べた。友達はガメラ派で、自分はゴジラ派。特撮のことだけでも話は尽きなかった。

 家が商売をしていて、周りも物作りやら物売りで生計を立てており、子供ながら少しでも手伝いをしている子もいれば、成金のような豪邸に住んでいる子もいる。実に様々な生活の中に遊びに行った。
 店の常連のお客さんに裏の東映の映画館のおじさんがいて、よく鑑賞券をもらっていた。ヤクザ映画ばっかりで、高倉健が出てくると「よっ、健さん!」と客席から声が上がる。笑い声と拍手が起きて、嬉しくて自分も拍手する。たまに東映まんが祭りがあると何枚も券をくれた。低音の渋い声で苦笑いする。小柄だったが、いつもソフト帽を被って着崩したように背広を引っ掛けていた。ダンディというのは、こういう人のことを言うのだと思っていた。

 東京での最初の夏休みは泊りがけで日本万国博覧会に行った。この頃に家族で出かけたのは、上野動物園、後楽園ゆうえんち、船橋ヘルスセンター。それに江戸川や柴又の帝釈天は近いのでよく行った。
 たった1年半の小岩での暮らしは夢のような思い出だった。