雑感114 引越坂(4) |
![]() ![]() ![]() |
1998/05/03 - 2017/11/23 ![]() ホワイトおばけと呼ばれていじめられていた女の子がクラスにいた。 肌が真っ白で、髪が薄茶色で、赤ぶち眼鏡の瞳も薄茶色で、唇はやけに赤かった。一見すると西洋の女の子に見えたが、日本人なのだった。 彼女はからかわれても大して抵抗はせず、いつもにこにこしていた。休み時間も給食の時間も自分の席を離れない。独りぼっちで姿勢よく座ったまま読書をしていた。テストではいつも上位で、授業が終わってから教科書とノートを持って担任に質問しに行く姿はよく見かけた。あんまりしゃべらないが、全然しゃべらないわけではない。勉強のことを訊きに来る女の子たちがいると、いつも笑顔で答えていた。静かな落ち着いた声で、丁寧に短くしゃべる。独りでいるときでさえ微笑んでいるようだった。 でも、誰かに眼鏡を壊されて彼女がひどく泣いたことがあった。もっとひどいこともされていたのかもしれない。どうして笑顔でいられるのか分からなかったけれども、泣いているのを見てからは普通の女の子だとしか思えなくなった。 彼女の席は自分のすぐ前だった。私には時々話しかけてきた。転校してきたばかりで大人しかったからかもしれない。遠慮がちな短い会話だった。何を読んでるのかぐらいは話したかもしれないが、ひどく優しい声だったことしか憶えていない。ただ、アルビノという言葉は彼女から直接聞いた。 綺麗な笑顔で、印象が悪いわけでもなかった。何がいけないのか自分にはさっぱり分からなかった。何で「ホワイトおばけ」と言うのかと、からかうほうに訊いてもただ笑うだけだった。分からないから参加はしない。といって、止める方法も分からない。だいいち誰も止めようとはしなかった。不愉快だった。自分にも止められない。 ある時、グループ単位で絵本を作るという授業が始まった。まず人数も自由でグループを作るということで自分は仲の良かった5人の中に入った。全員がどこかのグループに入ったが、彼女はやっぱり一人グループになっていた。 絵本製作は一か月か二か月は続いた。自分たちは半分漫画のような冒険物語を作るのに夢中になり休み時間までやった覚えがある。彼女は一人でこつこつと絵本を描いていたが、特に覗いたりはしなかった。やがて発表ということになり、先生が最初にいちばん感心したという絵本を紹介した。それはファラデーの『ろうそくのかがく』で、色鉛筆で描いた彼女の絵本だった。 授業が終わると、彼女の周りに人が集まってきた。みんなが「すごいね」とか「綺麗だね」とか口々に褒めている。からかおうとした男子が女子に怒られて逃げて行った。教壇の先生が微笑って見ている。 何だか無性に嬉しくなった。 最後に自分も絵本を見せてもらった。何と声をかけたかは覚えていない。たぶんうまくは伝えられなかっただろう。表紙ははっきり覚えている。『ろうそくのかがく』と細い字でタイトルがあり、真ん中に一本のロウソクが立っていた。色鉛筆だからか消え入りそうな火が灯っているが、光の波紋は色を変えて広がっていき、辺りを明るく照らしていた。 ![]() 自分にとって長い間『ろうそくのかがく』とは彼女の絵本のことだった。ファラデーの翻訳本はつい最近になって初めて読んだ。科学というより事実とまっすぐ向き合って組み立てる考え方が、理不尽なすべてのことから彼女を守っていたのかも知れない。彼女はあの瞬間に勝ったわけではない。初めから微笑んでいた。 立ち向かう相手は一人ひとりだ。実際、自分は一般の不特定多数を相手にしたことはない。社会というものも見たことがない。相手にしてきたのはいつも特定の少数者だ。テレビで喋っているのは特定の誰かだし、本や新聞記事を書いているのはたいてい一人だ。テレビだから新聞だからといって、全員が同じ感想を抱くこともない。集団は幻影だ。だから、どんな立場であっても、彼女のように気高く自ら選び進んでいけばいい。 血液型で性格が判る。そういうことが言われ始めたのはこの頃からだ。自分の血液型を知らなかったから騒ぎに巻き込まれることもなく、今に至っても内容を知らない。人の性格を決めつけたり、自分で自分を規定したり、相性を決めてかかったり、合っているとも外れているとも分からない。自分に至っては血液型を推定されたが、全部の血液型を言われたので、宛てにならないものだと思っていた。便利な判断に頼れば人を見誤る。 物事を単純化、パターン化して捉えれば即断・即決につながる。知っていることしか受け取らず、見たいものしか見ないから当たり前だ。都合のいいところだけ切り取って、部分を全部と思い込んでしまう。早合点もするし、素人判断のような失敗もする。そこで目が覚める人もいれば、さらに自己正当化にやっきになり偏見を積み重ねていく人もいる。 周囲からは疎まれ空回りしていても、自分では気づくことはできない。クラスに1人や2人はそういう人がいたものだが、大人になってもその割合は大して変わらない気がする。そういう人が上に立つと厄介だ。 子供は単純と思いこんでいる人もいるが、子供の観察眼や注意力、洞察力に気付かされることもまた多いはずだ。ある意味では大人の方が世の中を単純に見ている。そういう人を頭が固いとか石頭とか、頑固じじい、わからん人とも呼んでいた。 子供の頃は現実体験や試みが先にあり、それを何と言うのか辞書的な知識は後からついてくることが多い。言葉を知っているだけか体験的知識かということは大きな違いで、すぐ見破られる。知っているということは経験があるということだった。 ![]() 大人になるとどこの町も同じように映る人もいるだろうが、子供にとって初めての町は外国にも等しい。新たな冒険に期待もすれば、不安に圧し潰されそうにもなる。 しかし、どこへ行っても転校生に興味を持って近づいてくる子は必ずいた。助け舟に選り好みはしない。訊かれたことに答えると、もっぱら聞く側に回る。知らないことばかりだから自然とそうなってくる。隣の子は教室でどう振る舞えばいいか道標となるし、帰り道が同じ子は町の第一の案内人となる。そうして行き当たりばったりに付き合いが広がっていくと、いつの間にか町に詳しくなり、会話や遊びを通じていろいろ知れてくる。 クラスの一人ひとりとは喋っても、二人三人が相手だと遠慮する。一人の時と言うことが違う人もいて、もっぱら聞いている。みんなのことを考えて発言する人もいるが、みんなのことを知っているから発言を控える人もいる。「みんな」と文章では書くが、話し言葉としてはあまり使わない。「誰と誰が」と言う。「みんな」は聞いてもらいたい時に使うもので、そういう気持ちになることは滅多になかった。 学級会で先生に意見を訊かれても、もっぱら「特にありません」と答えた。同じ意見ばかり続いていれば「同じです」と答える。たまに発言する時は、誰とも違うことを言う。 何でもかんでも規則を決めればいいとは思わなかった。示し合わせなければ守れない決め事は長持ちしない。だいいち、こまごま決められると転校生が困る。 ![]() どういうわけか勉強はできた。東京より横浜のほうが少し勉強が遅れていたということもある。 成績はいい方だったが、高得点を喜ぶのはもっぱら先生か母で、父は当たり前だと褒めもしない。点が低ければ説教される。だからといって努力するでもなかった。頑張らないから自慢もしない。宿題やドリルなどは提出前の休み時間ぎりぎりに仕上げたりもした。つまりは、どこにでもいる勉強嫌いの少年だった。今でも勉強という言葉は好きになれない。調べ物、研究、あるいは読書という。 学研の科学と学習や小学館の学習雑誌は毎号買ってもらっていたが、そういう子は他にもたくさんいた。何よりマンガや読み物、付録が愉しみで、学習雑誌で勉強した記憶はない。家にあった日本百科大事典はよく捲っていたが、もっぱら図版を中心に眺めていた。おそらくは、そうしたマンガを含めてたくさんの書物から知らず知らずに学んでいたこともあっただろう。友達などから教えられることも多々あったし、もちろん授業から吸収することもあったと思う。 とはいえ、通信簿には「自分の考えを積極的に発表しよう」といった自己表現の問題を書かれることが多かった。父は「能ある鷹は爪を隠す」ということわざを教えてくれたが、能があるかどうかは自分では判らない。母は家庭訪問の時などに先生に食ってかかっていたようだ。先生が誤解していたことを謝ったと聞かされたこともある。何のことだかピンと来なかった。一対一できちんと話す機会がなければ、先生だって一面を指摘するしかない。通信簿に「よくわかりません」と書くわけにはいかない。 前の学校では暗い性格と思われていても、次の学校では明るい性格だと受け取られることもある。クラス替えや席替えしただけで周りからの印象が変わることもある。誰でもそういう経験があるだろうが、転校を重ねると目まぐるしく評価は変わる。社交的と言われたことはない。親は人見知りとも言ったし、引っ込み思案とも慎重派だとも言った。 確かに、基本姿勢は来る者は拒まず去る者は追わずで、話しかけられなければ話しかけないことは多かった。集団の中ではなるべく目立たないようにしていて、偶然隣あった人と話すぐらいだった。 先生も一通りではない。休み時間に生徒と一緒に遊ぶ先生や、家に招いてくれる先生もいた。そういう先生が担任だと通信簿の一言も違う。自分から見ても、尊敬できる先生もいれば、面白い先生もいるし、表面だけで人を判断する偉い先生もいる。そして、接していくうちに自分の中の評価も変わっていく。 他人が自分をどう思うかは他人の勝手というものだ。良く思う人もいれば悪く思う人もいる。どうとも思わない人もいるし、何でも決めてかかりたがる人もいる。どこへ行こうと何をどう言おうとそういうもので、訊かれれば答えるという姿勢は変わらなかった。自分のことは自分で知っていればいい。母はそれをもどかしく思っていたのかもしれないし、父は頭がいいと捉えたのかもしれない。 一番仲がいい友達の家は、玄関を入るとすぐ土間の台所で、大きな石の流しや釜が並んでいた。居間から奥に向かって幾間も座敷が続き、長い縁側があった。庭先に畑があり、昔は向かいの丘ごと所有地で、農業だけで生活していたという。兄弟が多く、よく上がり込んでは夕飯まで御馳走になっていた。 友達の“じいちゃん”はいつも野良着で、昼間はずっと野良仕事。真っ黒に日焼けしていた。リヤカーに野菜だか薪だかを積んで引いているのを町のあちこちで見かけた。弘明寺駅前の県道を走る車に混じって、牛にリヤカーを引かせていたりする。小学校への坂道で見かけた時は、友達3人で後ろから押した。じいちゃんは「却って疲れるから。いいよいいよ」と片脚を浮いたようにしてみせた。手を離すと、いつもの笑顔になって「ありがとう」と言ったのだ。手伝うのはそれきり遠慮したが、ずっと『釣りキチ三平』の一平じいちゃんと印象をダブらせて見ていた。 その友達とは何でも話せた。一晩泊まって話し明かしたこともある。学校や知り合いのことはもちろん、宇宙の果てのことや死んだらどうなるのかとか、幽霊はいるのかとか。ふすまで隔てただけの造りの家だから小声でも響いただろうとは思うが、放っておいてくれた。何をどう話したかはもう憶えてはいない。だが、お互い全てを出し尽くした達成感というかカタルシスといおうか、その興奮は強烈に覚えている。 ![]() 学校から友達の家に直行して、それから丘の上の道を通って帰る回り道が好きだった。友達の家から坂を少し上っていくと、アリジゴクの巣がたくさんある崖下に出る。そこからは短いが山道だ。ところどころ横木が埋めてあって歩きやすくなってはいるが、雨の日だと水の通り道になって歩けない。頂上近くになると腰が曲がった松の木があって、そこからは町が一望できた。 丘の上の道はほとんど平らな野道で、もちろん街灯もない。200メートルくらいの狭い道で、めったに人とも擦れ違わない。たまに通る小型車は道の外れの家の車で、そんな時は雑木や草に隠れるようにしてやり過ごさなければならない。まるで邪魔されるような気がしたものだ。自分の道のように思っていた。 ![]() 道の真ん中はぺしゃんこのオオバコやタンポポが生えていて、車の跡だけ剥き出しの赤土だった。道の両側は背丈よりずっと高いススキなどの雑草や雑木がびっしりだった。町はところどころ透けて見えるだけで、行く手も草木ばかり、空だけは全天見渡せた。 夏になればカブトやクワガタが集まる木を何本も知っていた。アケビや桑の実、ムカゴ、ゼンマイ、ワラビなど、自分が採らない限り誰も採らないようだった。オニフスベという大きなキノコを見つけたのもここだった。珍しいギフチョウや大きなミヤマクワガタを捕まえたこともある。ヒガンバナが咲いた頃だったか、同級生の女の子と二人で歩いたこともある。友達と宝箱を埋めたのもここだ。 帰り道はたいてい左半分の濃紺の空に右側から夕焼けが迫っていて、だんだん増えてくる星を見上げながら歩いた。 丘の道は周囲から切り離された隣町との境界線で、峠越えの異世界だった。入口から出口まで通して歩くことはない。いつも途中から分け入って途中から出る。家に帰るには、クワガタの木の手前にちょっと見には分からない枝道がある。踏み均された道を草叢に埋もれるように下って行くと、いきなり幼稚園前の舗装路に出る。建ち並んだ家々から夕餉の支度の匂いがすると、いつも夢から醒めたような気分になった。そこから家まではもう遠くない。 ![]() |