雑感115 引越坂(5) Previous 雑感メニュー Next
1998/05/03 - 2017/11/23

 グーグルアースで見ると、崖下からの入口と幼稚園への出口のところが少し残っているが、丘の上の道そのものは横浜横須賀道路の一部になっている。家々もすっかり変わり丘も崩された。それでも、なぜだか道だけは分かる。砂利道が舗装路になっていても幅や曲りぐあいや勾配にいちいち合点が行く。道には名残と言おうか残滓がある。
 横浜は港の方だけが都会で、それ以外は今よりずっと自然があった。自然と言っても空地に雑草が生い茂っているだけだが、今よりはずっと自由奔放に自然が割り込んできたということだ。瓦礫が放置されたままの空地に雑草や雑木が自由に繁茂し、わずかな水たまりを求めて様々な生物が繁殖する。時には毛虫の大繁殖に出くわしたり、ハチに追い回される。アリの行列は畳の上まで入り込んでくるし、電器の笠の周りはガや甲虫が飛び回り、夜グモは来る。便所にウジも湧けば、ネズミも出る。ムカデやゲジゲジが布団の中に入って飛び起きることもある。冬は隙間風、夏には蚊取線香、寝床には蚊帳を吊り、食卓には蠅帳を被せていた。
 あの頃は昆虫図鑑や動物図鑑を飽くことなく眺めていた。ファーブル昆虫記やシートン動物記も繰り返し読んだ。野毛や上野の動物園にはよく連れて行ってもらった。上野の水族館は2階建てで、階段の踊場の大きなバショウカジキの剥製は格好良かった。江ノ島水族館にも何度行ったことか。入口近くのリュウグウノツカイの標本を飽かず眺め、出口の売店で売っている焼はまぐりは忘れられないほど美味しかった。
『野生の王国』という父共々楽しみにしていた番組もあった。大きくは自然保護というテーマはあったものの、「残酷さ」をシャットアウトとする子供向けフィルターはない時代だ。
 当時の自分にとっては、あちこち散らばっている空地や野原こそが「野生の王国」だった。けれどもそれは、ある日突然ブルドーザーが入って根こそぎ消えていくものでもあった。あの頃、動物園に連れて行ってもらうたびにWWFの募金箱にこっそり小遣いを入れていた。誰かに何とかしてもらおうと思ったわけではない。人ではなく動物に募金しているつもりだった。
 人を保護するため自然は排除され、必要によってまたは面白半分にも自然は破壊され加工されてきた。その結果、人間保護のために自然保護が必要になってきた。しかしやっていることは自然隔離や採取禁止などの法規制で、人の都合であることに変わりはない。いまさら共生共存を目指しても、半世紀前の横浜の環境にすら誰も耐えられないだろう。捕虫網を片手に自由に駆け回っていた少年たちは、二度と町には帰って来ない。

 東京にいた頃は外出する時に鍵を掛けた。横浜では夜は鍵をかけたが、昼間はほとんど鍵はかけなかった。近所に声をかけただけで出かけることはよくあった。泥棒がいなかったわけではなく、昼間は近所中開けっぴろげだった。家に閉じこもって一日過ごす人はあまりいない。電話に頼らず行き来する社会だから、常にご近所の目があった。辻々には主婦が井戸端会議していたし、子供は駆け回り、大人も互いの家を行き来する。警官も自転車や歩きで町内を巡回していたし、同じアパートの新婚家族のご主人は警察官だった。
 駐車場の向こうのアパートでぼやがあった時には、隣近所総出でバケツリレーをして消し止めた。消防車が来る頃には祭りの夜のように賑やかで、あちこち話の花が咲いて、皆なかなか家に引っ込まなかった。
 小学校の連絡網は町内会単位だった。電話番号に(呼)と書かれているのは呼出電話で、それもなければ直接家に連絡を伝えに行く。呼出というのは、電話を持っている近隣の人に呼び出してもらうことだ。人に貸すから電話は玄関に置くものだった。
 六ツ川の時は隣の家が近所ではいち早く電話を敷いた。近所の人が電話を借りにくることもあるから留守でもたいてい開けっ放しだった。留守の時に電話が鳴ると、近所の人が代わりに電話を取って用事を聞いたりする。取れずに切れてしまえばしばらく電話機の前で待ったりもした。自分の家に電話が設置されたのは1971年の秋頃だったかと思う。
 醤油や油の貸し借りから料理のお裾分け、近所に葬式があれば手伝いに行くのが普通のことだった。人付き合いの機会は多かった。町内会や子供会の行事もたくさんあるし、どこに行っても知り合いに出くわす。家にいるより外にいた。子供同士で電話はしない。誰かに呼び出されて遊びにも行くし、自分からも友達の家から家に出かけて回る。家にいても、何か騒ぎがあると飛び出したりもする。
 坂本九のジェンカが大音量で掛かっていることがあった。八百屋の店先に列ができていて、音楽に合わせて踊っている。見つかってしまうと恥ずかしくても嫌がっても巻き込まれ、いつの間にか踊るほうになる。駐車場で誰かが花火を始めれば、隣近所花火を持ち寄ってみんな集まってくる。流しそうめんもしたことがあったし、夏は子供用のプールがアパートの前にいくつも持ちこまれて、みんなで水遊びをしたりした。

 舗装路は今ほど多くない。ちょっと住宅地に入れば砂利道や泥道で、冬は霜柱が立ち氷が張る。自動車は砂埃や小石を巻き上げて走るものだった。雨の日は水溜りに嵌ってアクセルを蒸かしている車をよく見かけた。近所の人が砂利を撒いたり、板やトタンを敷いたりして工夫する。それは自分のためでもあり、近所のためでもあった。
 朝夕の渋滞は昔からあったが、買い物は歩きか自転車が多かったから、今のように住宅ばかり続く町並みはない。八百屋や米屋、タバコ屋に雑貨屋、それに駄菓子屋。小さな商店があちこちにたくさんあった。物売りの車や自転車も来れば、御用聞きが家々を回って食品を配達してくれたりもした。豆腐屋のラッパや牛乳屋の配達、ちんどん屋やら紙芝居も来たし、焼き芋のトラックも来る。チャルメラの音を聞いて家族で夜のラーメン屋台に食べに行くこともあったし、母が手鍋を持ってラーメン屋に買いに行ったりしていた。

 今考えれば、近所づきあいの苦手な人もいただろうし面倒なこともあったのだろうが、そういう時代だったからこそ子供だけでどこにでも行けた。アパートの隣はパン屋で50円出せば焼きそばが食べられた。自分で勝手に焼いて店のテーブルで食べる。子供のたまり場だった。その隣が八百屋で、店売りより軽トラックの荷台で稼いでいるようなところだった。その裏は大きな材木屋で、少し先の四つ角には雑誌や文具、パンや駄菓子も売っている雑貨店があり、さらに県道に向かって歩けば肉屋や惣菜屋、床屋に食堂が並んでいた。今ではほとんど住宅ばかりのたった100メートルかそこらにそれだけあった。
 街灯も今ほどたくさんは無い。大きな車道でもないかぎりは、辻や曲り角だけにぽつんとあるだけだ。傘がついた裸電球もまだまだ残っていて、切れたりすると近くの家の人がはしごをかけて取り替える。街灯があると却って闇は濃くなるが、月灯りがあれば足元はけっこう見えた。夜道には懐中電灯を携えた。「こんばんは」と声を掛けるとたいてい知り合いで、知り合いでなければ怪しんだ。祭りになれば提灯で、雑貨屋で普通に手に入った。祭りがなくても好んで提灯を使った憶えがある。街灯がないところでは提灯でもよく見えるし、自分も照らされるから相手もすぐ分かった。提灯の蝋燭は花火をするにも便利だった。
 夜にミミズクやフクロウの声を聞かなくなって久しい。ホタルも見なくなった。タヌキも野良犬も見なくなって、ネコやカラスばかり増えた。自然のままの森や川は消えて、公園とコンクリートの川に整備された。世界中と通信できる綺麗な町の人たちは、囲いの中に閉じこもって話しかけてこなくなった。
「お出掛けは、一声かけて鍵かけて」は今も言われているが、声かけ運動が必要になるほど誰も信用しない引きこもりのセキュリティ社会になった。表札をつけない家も増えた。昔より安心安全便利と思って暮らしているが、そう単純に比べられはしない。

 いちばんよく利用していたバス停の裏側にはザリガニが捕れる小川があった。住宅地と田んぼの間に流れるほんとに小さな川で、入れないようにか落ちないようにか鉄条網の柵があったが、夏は子供でいっぱいになった。茶色くて小さいザリガニが多かったが、マッカチと呼ぶ真っ赤で大きいザリガニもいたし、不思議な青いザリガニもいた。オタマジャクシやカエルはもちろん、メダカにタニシやドジョウ、ナマズやウナギを捕まえる人もいた。
 家の向かいの丘は半分が住宅地で半分が野原だった。丘の向こうは引越坂の切通しで県道が走っていた。野原の裾は畑があり広い空地があった。そこは子供の遊び場で、夏のラジオ体操や祭りの広場でもあった。住宅地の方を越えると浩風園のバス停前に出る。スーパーと大きな駄菓子屋が並んでいて、かんしゃく玉やらゴムパチンコ、銀玉鉄砲などの新型を物色しに行った。
 野原はバッタ類の宝庫で、手のひらからはみ出すほど大きく重いショウリョウバッタを追ったりもしたが、キリギリスやスズムシなど滅多に見つからない虫を探しに行った。ごくたまにオニヤンマが飛んでいたりもする。一度はハナカマキリを見た。白にピンクの花だと思って顔を近づけたらカマを上げて静止した。輸入の花にでも紛れてきたのだろうか。
 春にはツクシンボウがたくさん採れたが、あとはノイチゴや菜の花ぐらいで食べられる草花はあまりなかった。草花ばかりで住宅に近いところにクリの木が3本生えているだけだった。クリは近くの家の人がほとんど採ってしまう。ツクシは味噌汁でもてんぷらでも、柔らかくてちょっと苦くて美味い。

 家に一番近いバス停は「こども医療センター」で、その次に近いのは同じ医療センター行き路線の「引越坂」だった。「こども医療センター」から家までは橋を抜ければ2〜3分だ。
(C)2017 Google
「橋」と呼んでいたが、本物の橋ではない。林の急斜面に板が敷いてあり、手すり代わりにロープや竹、丸木がつけられていた。立ち木を躱したり急勾配を緩めるために板はジグザグに置かれていたが、敷き詰められているわけでもない。剥き出しの地面だったり、根が張り出したところもある。木々や杭の間にロープを張ったり、木材や竹を針金で留めて工夫していたのはマンションの人たちだったと思う。
 斜面の下方は竹藪で足元はクマザサの茂み、上の方も雑木がびっしりで、昼間でも見通しが悪く薄暗い。15メートル程度だが、気をつけないと足元を取られる。それを抜ければマンション前の舗装路に出た。マンションは団地風の4階建てで24世帯あった。左はすぐ行き止まりで、その舗装路はマンションのために右へ少し歩いていけば広大な病院の敷地だ。バスの待合所が見える。橋を利用していたのは近所の数十軒ぐらいだろう。今はもう入口の路地しか残っていない。
「こども医療センター」は横浜や戸塚行の始発点だったが、1時間に1本か2本出るぐらいで通勤通学時間以外は利用者は多くない。行きにはあまり利用されず、帰りに偶然利用する人が多かっただろう。橋は近道だったが、普通の道が大して遠回りになるわけでもない。夜間に橋を通る人ははほとんどいなかっただろうし、虫が多い時期や足元が滑りやすい雨の日などはもちろん、橋は全然使わないという人もいただろう。でもあのマンションの住人が「引越坂」と行き来するには「橋」は300メートル以上のショートカットだった。
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 カブト虫を捕るには、橋のところの林が近所では一番のところだった。スズメバチがいる時もあったが、夏休みには毎日行っても同じ木にごっそり十匹以上は甲虫がたかっていた。アケビやカラスウリの蔓も多く、特にアケビは大きいものが手に入った。そして、そこで見つけた昆虫が、今まで見た中で一番大きいものだった。
 橋の途中だった。動いていたから見つけられたが、竹の枝のような黄緑色で、本当に周りの竹と区別がつかない。その時に初めてナナフシというものを見た。尾っぽの先から前足の先まで棒のようにピンと突っ張っていて、胴部分だけで20センチを超えていたと思う。細長い前足を伸ばしているから30センチはあった。胴の長さは落ちていた小枝を当てて家に持ち帰って測ったのだ。
 珍しい虫はたいてい捕まえて虫かごに入れて観察したものだが、あれは大きすぎて戸惑った。どこを捕めばいいか、捕まえたらどう身体をネジってくるかも想像できなかった。その場でじっくり観察して場所を見定めてから、急いで家に捕虫網を取りに戻ったけれど、二度と見つからなかった。その後は別のところでもナナフシを見つけられるようになったが、あれほど大きいものにはまだ出会っていない。

 当時はよく昆虫図鑑を眺めて過ごしていたりしたからトゲナナフシではなくエダナナフシの類だとは分かった。大きさもそれほど見誤ってはいないはずだ。長さから言えばオオナナフシで、目の前でじっくり見たもののその場で捕まえなかったことは本当に後悔した。
 この橋があった林はすべて宅地になった。バス通りを隔てた林も今は公開空地になっている。街路樹を植えガーデン設計され、自由に出入りできる空間だ。
 当時の南区は横浜市の中でも宅地化が進んでいる方で、既に緑は少なくなってきていた。ただ家の周辺は例外で、1960年代まで半分以上が農地か里山だった。また古くから医療施設や養護学校、障害児施設、保養所、療養所などが集中しているところでもあり、民家が少なかった。そのおかげで里山の風景が保たれていたのだ。結核療養所が前身の国立浩風園や、県立ひばりが丘学園の存在は大きかっただろう。そこに1970年に県立こども医療センターが加わることになった。

 移り住んだ当初は一面畑だったところをブルドーザーが土ならししていた光景はよく憶えている。引越坂から医療センターまでのバス道路は、家屋や商店も目につくが、背景には畑や野原が広がっていた。アパートの裏側も畑だった。季節によっては道路脇にダイコンやカボチャ、ネギやキャベツなどが捨ててあり、よく蹴っ飛ばして遊んでいた。
 通称「お化け屋敷」の先にある野原で見たカマキリは大きかった。オオカマキリ自体はさほど珍しくはないが、通常の倍ほどは重量があった。

 初めはショウリョウバッタの大物を追っていた。草がまばらなところに足を踏み入れたとたん、足元でガサガサして何かが四方に散った。その音と速さからいってネズミかトカゲかと思った。
 土の上を走り去る何匹かが見えた。ハッとして足を止めた。緑色。でかい。また近くでガサガサした。草の陰。そこを足で掻き回した。大きなものが飛び出して、土の上で止まった。こちらに向かって羽根を広げて構えているのは、一匹のオオカマキリだった。
 赤い羽根を見せて、鎌をぐっと上げて威嚇していた。普通は大きくてもせいぜい十センチぐらいのものなのだが、少な目に見ても体長十五センチはあった。それが身体を大きく膨らませている。怪物だった。毒針のある虫以外で危険を感じたのは、そのときが初めてだ。
 それでも何匹かは捕まえて観察した。力強く、ずっしり重い。凄い暴れ方で、長く持っていられない。「野生の」カマキリだと思った。カマキリは野生に決まっているけれど、今まで見てきたものは、犬にたとえれば飼犬で、これは野犬の迫力がある。近くのお化け屋敷のおかげで、子供がほとんど入らないからだろうか。もっとも、廃屋は木立が邪魔して野原からはほとんど見えない。
 遠くの陽溜まりで妹がしゃがみ込んでいる。またシロツメクサで花かんむりを作っているのか。四つ葉のクローバーを見つけたのかもしれない。