雑感117 引越坂(7) Previous 雑感メニュー Next
1998/05/03 - 2017/12/11


 幸せな家庭だったわけではない。借金が重なり、夫婦喧嘩が絶えない家だった。私は小学校3年生にして7回の引っ越しを経験していた。できることは少ない。母の言い分も父の言い分も、ただ聞くことができただけだ。夫婦喧嘩を止めるでもなく、どちらに過分に味方することもない。家族というシーソーゲームに、参加しているようでいて、いつからか片足しか乗せなくなっていた。いつ傾くとも壊れるとも知れず、自分たち子供の領分を守るように切り離してゲームから一歩退いていた。
 父はよく家族旅行には連れて行ってくれたが、高校生あたりからだんだんと拒否するようになった。親類の葬式や結婚式にも行かなくなった。はっきりした反抗期は無い。それが反抗のようなものだった。




 書く気にならないような思い出したくないこともある。無理に書けば嘘になる気もする。珍奇な言い訳を編み出しそうだ。書きたくないことを書いたところで、失うものはあっても得るものはない。小説でも何でも同じことだ。
「お父さんのお父さんは小学校5年生の時に死んじゃったから、どうやって父親をやっていいか分からないんだよ。」
 父はいろいろなものを見せてくれた。それは確かなことだ。

 変わっているとはよく言われた。孤高とか一匹狼とか、そういう言葉に惹かれていた。むしろ人と違っていることが自分の証だった。

 自分の家は貧乏だと思っていたし、引越しばかりの新参者だ。イジメたりイジメられたりという図式は、途中参加ができないものだ。だから差別する側やイジメる側には立てない。そうすると、そういう気持ちも起きてはこない。後からいろいろ聞いても、もともと理屈ではないことだから理解はできない。そういうものかと思うだけだ。
 相手が何をどう知っているか分からなければ、自慢のしようもない。何をどう思われるか分からないと、何事も決めつけられない。いいが悪いか分からなければ言い訳のしようもない。何がどう評判になるか知らなければ、噂の意味も分からず、宛てにもならない。ただ誰とでも個人的に話すぐらいのことはできた。それこそ、なんにも知らないからだ。
 自分の家にはほとんど友達を呼ばなかったが、人の家にはよく遊びに行った。物置のような掘っ立て小屋にも、金持ちの邸宅にも、墓に囲まれた家にも、工場の屋根裏にも…。自分の家のことを思えば、どんな家にも抵抗はなかった。
 グループ行動もしたが、他のグループにも自由に出入りした。相手がガキ大将だろうがイジメられっ子だろうが、頭が悪かろうが良かろうが、金持ちだろうが貧乏人だろうが関係ない。過去のことも噂も何も関係ない。そんなことは知ったことではない。今いる居場所を作るために、町でも学校でも人でも何にでも、自分で直接向き合わなければならなかった。
 横浜から市電が消え、入れ替わるように地下鉄が開通した頃に、クラス全員と友達になったと思ったことがあった。リーダーシップを取るわけでもなく、クラスで大して発言することもなく、そういう目標を立てていたわけでもなく、気づいたら全員と話せていた。そういうことができるものなのだと、これも密かに思ったことだ。


 あの頃は昼休みはもちろんのこと、20分休みにも校庭に飛び出した。三角ベースやドロジュンが流行っていた。ドロジュンは、東京ではドロケイと言っていたもので、それでも通じた。花いちもんめ、かごめかごめ、ハンカチ落とし、ひまわり、ゴムとび、ドッジボール…。誘われるままに女子の方にも参加した。4年生の時にやっていた三角ベースと、5、6年生のひまわりが一番面白かった。
 身体を動かすことを愉しんでいた。アパート前のコンクリートブロックがいい具合に傾斜していて、日がな一日サッカーボールを蹴り続け、それだけで楽しかった。相手がいればバドミントンでも羽つきでも、キャッチボールにも夢中になったし、一人ならサッカーに縄跳び、バットや棒切れを振り回し、野球ボールを塀の的に投げ続け、ともかく身体を動かしていた。
 運動部に入りたいとは思わなかった。運動部はどこも楽しそうには見えなかった。入りたくはなかったが、父親が身体にもいいと勧めるので、ポートボール部とかソフトボール部には入ったし、中学に上がってからは剣道部に入った。ただ、どれも面白いとは思わなかった。

 日本のスポーツ界は精神論とか根性論中心で、思い切り身体を動かしたくなるような遊びの精神が欠落し、自由度がない。休み時間のドッジボールのほうが、どれだけ面白かったか知れない。苦しみや努力の果てに掴めるものもあるだろうが、同じ結果を得る方法は一つだけではない。
 当時からスポーツ番組にはほとんど興味がなかった。父親が観るので仕方なく見た。面白いと思う瞬間も来る。それがどれだけ面白くても、それまでは退屈だ。たいていは時間の無駄としか思わなかった。今ではオリンピックすら知らぬ間に終わってしまう。
 体育の授業も概して楽しいと感じなかった。やらされているとか、巻き込まれているという感覚が大きかったのだと思う。体育で楽しかったのは先生が休みの時だった。ドッジボールとか三角ベース、みんなそれぞれやりたいゲームに参加する。授業時間が終わっても休み時間まで使って遊んでいたものだ。おそらくそういう時の楽しさは全員に共通だと思う。

 ドッジボールは、クラスの1番手や3番手と個々に放課後に投げ合いをしていたから結構強くなった。2番手とはあまりやらなかったが、マンガが上手くてクラスの壁新聞に4コマを書いていたから、一緒にマンガを書いて載せたことはある。
 1番手と2番手は家が隣同士ぐらいの近さで、山王台の鉄塔にも近く、学校からすぐなのでよく遊びに行っていた。ドッジボールとは限らず2人ともスポーツ万能でケンカも強いと言われていた。顔を腫らしていたのを見たことはあるが、ケンカをしているのは見たことがない。クラスの誰かが他のクラスにやっつけられたと知るとすっ飛んでいく、正義の味方のようなヤツらだった。
 その1番手が山王台の崖のところで見つけたといって、レンズ状の石をいくつか貰ったことがある。大きくても3センチぐらいで、大小様々あった。厚みはあまりない。ここから出てきたと言って、赤土の崖を一緒に探したことがある。その時も1センチぐらいの小さいものばかり幾つか見つかった。
 あれは何だったのだろうか。人工物が捨ててあったとしても大きさが不揃いなのは妙なことで、赤土の中から出てくるというのも変だ。透明に近いものから、半分乳濁しているようなものもあり、表面は少しざらついていた。しかし、本物のレンズのように大きく見えた。自然の造形として有り得ることなのだろうか。しばらく取ってあったのだが、どういうわけか失くしてしまった。

 その頃スカートめくりも流行っていて、大してやる気はないのに一度やってみようかと参加したところを先生に見つかった。5〜6人で教室の前に並ばされて竹刀で尻を叩かれた。何だか嬉しくて、さっさと並んで叩かれる順番を待っていた。痛みで反省を促されたとか辱めを受けたという感覚はなかった。仲間に加われたと思って嬉しかったのだ。その先生こそ、いい先生で、公平で頼もしく、教えるのも上手い先生だった。

 引越坂のバス停で一番よく利用していたのは、本当の引越坂にあるバス停だった。神奈中が多かったが市営も何系統か走っていて、弘明寺までなら子供は20円ぐらいだった。
 家に帰る時はこども医療センター行きならラッキーだと思っていたが、実は大して差はない。釣堀近くで降りると50メートル、医療センターで降りて橋を使えば120メートル程度の短縮だ。母が一緒にいてしかも夜だったりすると橋を嫌がるので、結局釣堀近くで降りることになる。
 戸塚行きが多く、たいていは引越坂にある引越坂で降りる。そうすると150メートルばかりの細い抜け道を通って帰ることになる。竹藪と雑木に両側を挟まれた真っ暗な土道を30メートルばかり下ると、右への曲がり角に裸電球の街灯が一つだけある。そこからは先は少し拓けて明るいが、右側は見上げるような土の低い崖がしばらく続き、左側は雑草だらけの空地のフェンスだった。舗装しておらず、あまり日も当たらないので、雨が降ると水溜りがあちこちできて、ぬかるんだ。
 その竹藪で白いアオダイショウを見たことがある。2メートルばかり離れた太い竹に巻きついていた。見えているところだけで150センチはあったろう。大きな白蛇だった。その時は自分一人で、ほかには誰もおらず、しばらく立ち止まって見ていた。目だけが赤黒く、体は少し緑がかったところもあるが、ほとんど白く光るようなウロコに覆われていた。近づきたくても竹藪は生け垣の向こう、つまりは人の家の庭なので入れはしなかった。
 母に話すと、それは守り神だとか、主だとか言っていた。その後も現れないかと思って行き帰りに注意していたが、見たのは一度きりだった。中学にバスで通っていた頃、梅雨時期だった。1975年の6月か7月ということになる。

 この白蛇は空想ではないが、空想と現実、あるいは想像と現実の区別が明確につきはじめたのはいつ頃からだったかということになると、それこそ分からない。大人にだって区別がついていると思いこんでいるで、何にも見えていない人が大勢いる。そもそも現実だけを見つめることなどできないのではなかろうか。

 幼稚園卒業前のクリスマスだった。教室の席に座っていると、なにやら騒がしい。廊下側の窓の左からサンタクロースの格好をしたオジサンが現れた。その後ろから「ニセモノだ。ニセモノだ」と囃しながらついて歩く他の組の子たちがいた。先生が来て、その子たちは何とか引き戻されていったが、「ニセモノだ」という言葉はこの組の子たちにも伝染した。
 サンタクロースは教室に入ってきてお菓子を配り始めたが、「ニセモノだよ」という声は続いていて、そんなこと言うことないのにと気の毒に思った。商店街のサンタクロースだって、そんなふうには言われない。
 その子たちはそのオジサンが本物のサンタクロースではないと言っていただけで、サンタクロースは本当にいるのだと思っていたのかもしれない。私はと言えば、プレゼントをくれるのはお父さんやお母さんだと知っていた。それをニセモノだと言うのなら、プレゼントを受け取ってはいけない。そんなふうに考えていた。

 確か幼稚園で聖ニコラウスの話を聞いていたと思う。煙突から入るとか、トナカイのソリで空を飛ぶとか、一晩で世界中の子供にプレゼントを配るとか、子供でも信じることは難しい。むしろ大人が子供に無理強いするファンタジーだ。ディズニーランドと同じことで、大人の方が空想世界に夢中になる。
 1965年の『怪獣大戦争』でゴジラがシェーのポーズをした時には、がっかりした。その時に初めてゴジラが本物ではないと気づいたとしたらショックだっただろうが、そんなことはない。
 サンタクロースの格好をするというのは、夜店で手に入れたヒーローのお面をかぶる子供のように、なりきりたいと思ってやるものだ。プレゼントを配るならいいが、ケーキを売っていたらサンタクロースではない。ゴジラがシェーをすれば、自ら怪獣であることを否定することになる。
 正義のヒーローは本物ではないし、ゴジラも存在しない。そんなことは分かっていた。分かっていて「ごっこ遊び」には夢中になる。それはどうしてなのか。
 物語やマンガ、ドラマや映画。たいてい本当のことではない。それでも何か刺激されて頭の中に湧き出してくることがある。自分の外ではなく内にあるものが動くのだ。それを叩き出すのは、現実ではない。本物とニセモノの区別でもない。
 多くの学者が子供の頃には現実と空想の区別が明確ではないという。現実と空想が混じり合っているという。そんなものだろうか。空想はどんなに現実化することを願っても、どこまで行っても空想だった。魔法は使えず、空も飛べず、願いは叶わない。
 心理学でいう「空想の友達」というのは自分には心当たりがない。友達の誰かがそういうものを相手にしているのを見た覚えもない。ままごと遊びはやったが、空想と現実が入り交じる時期があったとは思えない。サンタクロースやゴジラの存在を疑わなかった時期はあっだろうが、それは空想とは言えない。知らなかっただけのことだ。