雑感118 引越坂(試行錯誤) Previous 雑感メニュー Next
2020/05/19

 これはこれまでのエッセイの総括であり、なおかつ、これから書こうとしている創作の方法論ともなる。子供の頃の現実の物語的随想から、現在地点での試論断片に繋げた。この試論はすべて同じ方法論の言い換えで、完成してくれば創作へと繋ごうと思っている。大枠ではそういうことを考えているが、つまりは、まだ試論の断片で、しかも途中だ。
 小説家ではない。今頃になってもまだ何を書くべきか、どう書くかも定まっていないというわけだ。


モネ/霧の中の太陽
 何が正しいか。何を信じるか。何を好むか。決めておくことで楽になり、決断も速い。だがそれは現に自分で判断したことになるのだろうか。

 知識や経験だけで物事を決めてしまうことは、その場で判断しているわけではなく決め事を踏襲しているだけだ。だから重大な誤りに陥った時に訳が分からなくなる。それは現実ではなく過去の幻影を再生していたからだろう。
 過去に照らして考えても、幾多の選択肢を用意して臨んでも、一歩先には未知の怪物が待っているかもしれない。子供の頃と変わらず今も目の前は霧に覆われている。

ゴヤ/理性の眠りは怪物を生む
 安全は安心を生むが、安心は安全を生まない。

 人が自動車を作り、歩道と車道を分け、信号機や道交法を整備してきた。人は利用者になるだけではなく、同時に発明家や技術者、警察官や法律家にもなれる。少なくともその視点に立つことはできる。
 青信号は100%の安全を保証するものではなく、身を挺して歩行者の危険を排除したり守ったりする機械でもない。

 信号機は道路交通法の目的を達成するための道具の一つで、交通管制センターにつながっていて制御できるものも多い。ボタン式の歩行者用信号もあれば、感応センサーで作動するもの、混雑具合でサイクルが変わるものなど種々様々だ。道幅が狭いほど信号の切り替わりは速く、広いほど長く設定されている。1秒1メートルが基準となる。赤になると最低でも50秒は切り替わらないが、青になったからといって歩道が鉄壁で仕切られることはない。車も自動的には止まってくれない。
 横断歩道での死亡事故のうち4割ほどは、青信号で横断中の歩行者が亡くなっている。車同士の事故は多いが、歩行者や自転車が巻き込まれる確率もまた4割で、世界的に見て日本は高い方だ。
 車優先社会の批判や道路整備の脆弱性を指摘することは容易い。大勢が同じように考えるだろう。なぜなら、他人がやることだからだ。
 青信号で渡っていれば、車に撥ねられても歩行者としての過失割合は限りなく0に近いが、それよりまず身の安全を自ら確かめなければならない。道交法では、運転する者は信号とは関係なく、横断しようとする者に対して注意義務があると定めている。

ベルナルディーノ・メイ/我が子に驚くアルクメーネー
 子供は世界を広げながら散らかし、大人たちは分担して危ないものを片付ける。
 危険を知らない子供たちは、身を守る術でなく人任せにする術を学んで大人になる。

 会社では、PCや機械の故障を診てくれと言われたり、相談を受けたりすることが多い。客先が多種多様で各人がまったく別のことをしているところだから、初めて知ることも多く不具合は一通りではない。どうにもならないこともあるが、修理に出すか買い換えるか、回避策があるかどうかなど、最終判断も任されることになる。要するに便利屋のようなものだが、決まった仕事は別にあるので、あくまで空いた時間に出動することになる。
 知っているから治せるのだと言われるが、あらかじめエラーが分かっているなら、そうならないように作っているはずで、それでも防ぐことができないエラーの可能性や危険性や保証期間などがマニュアルに記載される。

 お鉢が回ってくることは色々あるが、多いのはマニュアル類を見ても分からず、修理に出したり買い替える余裕もない場合だ。仕事を一時休止しなければならないとなれば、即時的な解決や判断を求められる。もっとも、分解すればメーカー保証外になる物は多く、資格が必要な限界もあり、そこはあらかじめ責任者に確認しておく必要はある。
 精密機器・大型機器の輸送が看板の会社だが、組立生産ラインもあれば、各メーカーの技術者や管理者が常駐したり出入りする現場だ。修理の融通も効きそうだが、セキュリティや契約上の問題があってそうもいかない。ただ、興味程度にもよるが、古い保守部品から最新の試作機、ホコリのように微細な部品から家ほどもある巨大な装置まで、現物に接したりメーカーの人たちと話して得られることは多い。
 機械や道具のメンテナンスをする者は多いし、様々な資格を持つ者も多い。毎日誰かが何かを造り、メンテナンスをしている。
 現にある物をどうにかするだけではない。
 特化した道具の制作からプログラム開発、メーカーと共同のプロジェクトもある。それはマニュアル化していく作業となる。定期的に社内外向けの技術誌も発行しており、私も図書券ぐらいはもらったことがある。
 およそ混沌とした職場だが、決まったことだけしかやらない人も大勢いる。毎日のように新しい課題を抱える者に比べて、不公平なほど仕事が回ってこない。黙ってやることだけやる者もいれば、閉じ籠もったまま「危ない」と言い、失敗を聞いて「そら見たことか」と笑う人もいる。関わらなければ安全かも知れないが、そもそも部外者で何も分かってはいない。
 自分はいくつかの顧客の担当であり、頼まれれば他の顧客用のソフトやツールを作る。所内のシステムやセキュリティ担当を押し付けられてもいる。客先からはそれなりに専門家として見られるが、会社を出れば一般人でしかない。

フェルメール/天文学者
 すべての知識や経験は過去のもので、未来の知識や経験は誰も持っていない。

 修繕結果を人に説明する時には知識と言えるものになるかもしれない。しかし、それはもはや過去事例で、次も同じことをすればいいとは言えない。同じ現象が別の原因で生じることもあり得るし、別の方法で解決できたかも知れない。
 環境や使用者自身の使い方に問題があることも度々なので、現象によっては周辺から確かめる場合もある。原因らしいことが見当たらず、ただ分解して組立て直しただけで元通りになることもある。そうなると一粒のゴミだったのか、部品の緩みだったのか、もはや原因は判らない。
 いかなる物も100%動作保証されているわけではない。多くの薬品が明確な科学的根拠が無いまま薬効が認められて市場に出ている。それと同じことだ。
 技術は試行錯誤から生まれてくるが、修理も本質的には試行錯誤でしかない。現象を多角的に連想的に捉えることができるほどチャンスは多くなり、諦めない限りは修理し続けることができる。それも技術と似ている。

 たいていのマニュアルは使い方の説明書で組立マニュアルではない。個々部品にもまた別々の製造マニュアルがあるかも知れない。修理やエラー対応は仕組みが関わってくる部分が大きいが、メーカーでなければ手に入らない情報は推測するか実地に分解して掴むしかない。もっとも、製造するわけではないから、全部を知っておく必要はない。
 ネットで過去事例を検索するためには、そもそも当該ケースが何か分かっていなければならない。そして同じ対処が適用できるかどうかも試すことができなければならない。そういうことができる人からの相談は、当然ながら滅多にない。

 修理する側と修理を頼む側とで大きな隔たりがある場合もある。物の見方や使い方からマニュアルの受け取り方といったことまで認識段階から異なる。それは、マニュアルから仕組みや構造の把握ができるかどうか、メーカー側かユーザー側かというような違いだ。
 マニュアル人間に対処の仕方を教えても別の故障につながることがあるので、黙ってメンテナンスした方がいい。何か教えるとすれば、身の回りの簡単なものから仕組みを知るように心がけたり、壊れて捨てるような物があれば自分で分解してみるのもいいとか、そんな忠告しかできない。実際、家庭用工具すらほとんど持っていない人もいる。
 買い替えたり、メーカーに修理に出して済ませることは当たり前で、素人判断は危険という考えも、もっともなことだ。特に反対すべきことでもない。

ラ・トゥール/大工の聖ヨゼフ
 人任せにすれば失敗もない。その代わり、知ることもない。それは機会を一つ失ったことになる。

 機械音痴の人というのは普段から試行錯誤することが少なく、決まりきった生活をしてきた人に多い。そういう人がいつもと同じことをしていて壊れたと言っても、根本的に分かっていないため違いに気づく可能性は低い。想定外の操作や扱いをしていることが往々にしてある。設定を少し変更したり、ドライバー一本で治せるかも知れないと頭では分かっても、現実に行動することはまた別次元のことだ。
 試行錯誤を危険な行為と勘違いしているところもあるが、少なくとも自分の専門分野なり仕事では試行錯誤を繰り返して来ているはずだ。つまり正確に言えば、その機械や周辺の関連事に対して試行回数が少なかったということになる。
 専門外のマニュアルを能動的に読み解くことは難しい。マニュアルに従って操作すれば間違いないと確信することが先に立てば、順番に丸暗記はできるかも知れないし、操作には慣れるかも知れないが、それと理解しているということとは別物だ。
 慣れている物に関しては、ユーザーズマニュアルは基本操作や機能を参照する程度に見るものだ。後は試行錯誤しながら使いこなしていく。マニュアルを読まない人もいるが、それは使えば分かったり、あるいは分かっていて使うからだ。

 仕組みや構造的理解は感覚的に把握しうるもので、こうした認識力は子供の方がずっと高い。なぜなら、論理的判断に囚われることなく体験から連想的に現象を掴んでいくからだ。
 ゲームの操作から遊び方まで、子供は直感的にマニュアル無しで理解する。初めて触れたタッチパネルも、大人より子供のほうが操作の習熟は速い。
 こうして実践的に把握したことはメーカー側の視点に近く、少なくともユーザーズマニュアルを書く側に立ったことにはなる。子供にどうやって操作しているのか訊いてみれば、それなりのマニュアル的説明をしてくれるだろう。
 単純な事実は、人が人のために作った物だから人に分かるようになっているということだ。もう一歩を進めるだけで、何のためにどういう構造や仕組みが必要か、どういう機能があるべきかを想定しながら物を見ることができるようになる。

ブリューゲル/叛逆天使の墜落
 信じないのは信じるものがあるからだ。悪に惹かれるのは善なるものを求めるからで、嫌うのは好きなものの裏返しだからだ。良い面を見れば悪い面が見えなくなり、悪い面を見てしまうと良い面まで否定する。
 好ましくない結果に目をつぶり、自ら決めた価値観に自ら閉じこもり、自ら振り回される。

 自分は行き当たりばったりにプログラムを始めた。目の前の問題が解決できないとか、より速く処理する方法がないかとか、ともかく必要に迫られたのだ。プログラミングを本格的に勉強したことは無いが、ワープロ時代からの長い経験から考え方自体は身についていたのだろうとは思う。
 計算ソフトを使っているのに電卓が手放せない人には「勉強」が必要だろうが、関数がそこそこ使えていれば「勉強」は大して必要がない。それでも覚えなければ出来ないと思っている人は手も出さない。けれども、その人用のツールを一つ作って、プログラムの編集を教えるだけで、自分で変更したり調べたりして上手くなっていくことがある。
 方法が分かれば試行錯誤を重ねて技術は向上していく。

 プログラムは字義通り段取りであり、プログラマーは段取りをする人だ。段取り通りでないと出来ないとか我慢ができない人たちは、ともかく理屈ばかりでやる事が遅く、臨機応変に仕事をこなせず、人に助けを求めるばかりだ。
 当たり前の話だが、プログラミングの本がプログラムしてくれるわけではない。方法が分かった時点で、プログラミングの本は教科書から辞書に転落する。そうなると、本よりもネット検索の実例の方が即効で役に立つ。
 プログラムに詳しい人はそこそこ会社にいる。色々な言語や新しく出てきた言語を情報として知っており、自分よりずっと詳しい人も多い。しかし、やれば出来る人もいるが、騙されたと思うほど何も出来ない人もいる。

ボッシュ/愚者の船
 マニュアルに完璧さを求める社会は、愚者を生む。愚者は助力を必要とし、最後に手を差し伸べた者が独裁者となる。