雑感120 変容する価値観 Previous 雑感メニュー Next
2020/05/20

ドーミエ/クリスパンとスカパン
 人の言うことを信じて、知ったように判断する。

 正しいか正しくないか。好きか嫌いか。美しいか醜いか。
 現象をよく見定めずに価値観を当て嵌めれば、色眼鏡で見ることになる。先入観、レッテル、確証バイアス、偏見、差別、鵜呑み、盲信、思い込み、心得違い、勘違い、見間違い、読み違い、思い違い、言い方は様々だ。部分を全体と思ったり、似た物と間違えたり、記憶と同じと早合点したり、権威を丸ごと信じたり、想像と現実が違うことはよくあることで、確かめもせず見過ごすことは意外と多い。
 知らなくてもいいと決めていることに対しては想像すら働かない。これから述べることは多くの人にとって信じるかどうかだけで片付けている問題だ。

 5月29日のnite(製品評価技術基盤機構)の発表は、次亜塩素酸水を巡る各種メディアや一般の受け取り方に大きく影響を及ぼした。
 niteは『「次亜塩素酸水」等の販売実態について(ファクトシート)』で、これまでの事実を取りまとめてユーザーやメーカーに対して公表した。NHKは、次亜塩素酸水のみに焦点を当ててニュースを流した。
 次亜塩素酸水と次亜塩素酸ナトリウムは別物であることに注意されたい。

 nite:現時点において、「次亜塩素酸水」の新型コロナウイルスへの有効性は確認されていない。
 NHK:NITE=製品評価技術基盤機構は、新型コロナウイルスの消毒目的で利用が広がっている「次亜塩素酸水」について、現時点では有効性は確認されていないとする中間結果を公表しました。
 nite: 有人空間での「次亜塩素酸」等の噴霧によるウイルス対策が、公式に認められていると誤認させるような表示を行う例がある。
 NHK:専門家は、噴霧での使用は安全性について科学的な根拠が示されていないなどとして、注意を呼びかけています。

 niteのファクトシートの現物には下記のことが参考として挙げられている。
 WHOは「消毒剤を人体に噴霧することは、いかなる状況であっても推奨されない」としている。消毒剤として挙げられているのは「ホルムアルデヒド、塩素系薬剤、又は第4級アンモニウム化合物など、特定の化学物質」であり、ここに次亜塩素酸水が含まれているかどうかは判然としない。
 米国疾病予防管理センター(CDC)や中国国家衛生健康委員会も同じような文章で消毒剤の噴霧に対して注意している。
 ただし、原文を当たってみると中国の「消毒剤の使用に関するガイドラインの印刷および配布に関する国民健康委員会の総局への通知」には「次亜塩素酸消毒剤は、室内空気、二次給水装置の表面、施設、手、皮膚、粘膜の消毒にも使用できます」と書かれている。
 CDCの方は、様々な消毒剤についての2008年の長大な報告書の一部分で、「医療現場での空気汚染を減らすための方法(例:濾過、紫外線 照射殺菌、二酸化塩素)については、別のガイドラインで議論されている」ともあり、あくまで消毒剤一般について医療現場への注意喚起である。次亜塩素酸水を含む強酸性電解水については、高い殺菌効果が認められること、溶液は無毒で生物学的組織に影響がないこと、手の洗浄などに使用できることなどの記述がある。
 厚生労働省は「次亜塩素酸ナトリウム液の噴霧は、吸引すると有害であり、効果が不確実であることから行わないこと」とし、「次亜塩素酸水を用いた市販の製品等の安全性等に言及するものではない」として別扱いしている。

 次亜塩素酸水を売るメーカーの方では誤解を解くために対応に追われる一方で、niteの発表自体には賛同している。新参のメーカーを駆逐でき、次亜塩素酸水が危険なものではないことをアピールできる機会でもあるからだろう。
 NHKはniteの文書を読み、引用しているにも関わらず、誤読していることは明らかで、niteは6月4日にNHKと名指ししてはいないが、一連の報道を否定するQ&A集を公開している。

 手指、皮膚での利用の是非について何らかの見解を示した事実はございません。
「次亜塩素酸水」の噴霧での利用は安全面から控えるよう弊機構が公表したとする報道が一部にありますが、噴霧利用の是非について何らかの見解を示した事実はございません。

 NHKはniteの発表を誤報し、niteの方は否定した。

 niteの意図は、次亜塩素酸水と次亜塩素酸ナトリウムの混同による危険を防ぐことにあると思われる。次亜塩素酸水と間違って次亜塩素酸ナトリウムを噴霧すると危険だということは繰り返し書かれてある。NHKの誰かが先入観を抱いて誤読して、それを周囲の者が丸ごと信じたのだろう。固定観念を抱くと都合の悪いところは目に入らなくなるものだ。
 ただ、ややこしいことに市販のボトルに入った次亜塩素酸水も機械で生成する次亜塩素酸水も次亜塩素酸ナトリウムから作ることができる。一般人が間違えても仕方がないところはある。
 NHKはその後いくぶんか報道を修正したが、混乱は続いている。他の報道やニュースでも、公共機関や専門家、政府の発表にしても同じような思い込みによる過ちを犯すことがある。

 次亜塩素酸水が何かを知らない人はたくさんいる。消毒殺菌剤には様々なものがある。次亜塩素酸ナトリウム、エタノール、ベンゼルコニウム…。名称は聞いたことはあっても科学的に理解している人は少数だ。様々な市販薬にしても、成分表示も見ず、注意書きも使い方もろくに読まない人は多い。根拠は知らずに、ほとんどの人は信じるがままに使用している。
 niteや厚生労働省のホームページで確かめる人もいただろう。しかしニュースを信じてから原典に当たっても読む意味はない。先入観に囚われて誤読するだけだ。それはもはや判断とは言えない。信心というものだ。

 niteは次亜塩素酸水などを含めた消毒剤について6月26日に改めて新型コロナウイルスに有効と発表した。次亜塩素酸関連の知識がある人ならば、国の判断を待たずとも、自分で現物の成分や製法、濃度などから有効性を判断することができていただろう。以前から有効なものをniteが改めて有効と認めただけのことだ。
 今回の発表は噴霧のことにも人体に向けて使用することにも一切触れていない。次亜塩素酸ナトリウムにも言及していない。そして「物品への消毒に活用できます」とタイトルに明確に謳っている。

次亜塩素酸水は、以下のものを有効と判断しました。
・次亜塩素酸水(電解型/非電解型)は有効塩素濃度35ppm以上
・ジクロロイソシアヌル酸ナトリウムは有効塩素濃度100ppm以上
なお、今回の検証結果を踏まえると、
次亜塩素酸水の利用に当たっては以下の注意が必要であることが確認されました。
@汚れ(有機物:手垢、油脂等)をあらかじめ除去すること
A対象物に対して十分な量を使用すること 

 実際に噴霧を体験している身としては塩素臭はするし、人によっては気分が悪くなることもあるだろうとは思う。うちの会社ではそんなことは無かったが、保育施設ではアトピー性皮膚炎が悪化した幼児がいて使用を取りやめた例があったと記憶している。もっとも、メーカーにはアトピーが治まったと感謝の声が寄せられていたりするので、本来関係はないのかもしれない。
 噴霧器が超音波式であることから20台近くあるPCなど精密機器への影響はあるかと思っていたが、果たして導入したばかりの端末が1台電源が入らなくなって修理に出した。しかし、噴霧器が原因かどうかは判然としなかった。

 そもそも次亜塩素酸水で除菌するにはniteの情報のように十分な量がないと意味がない。薄めた次亜塩素酸水でうがいを勧める歯医者などもいるように、歯科治療時の口腔消毒にも用いられる。誤って飲んでもさほど害もないから赤ちゃん用品や食品の消毒にも使用されている。臭いのは消毒や消臭効果を発揮するまでの間で、人体のような大きな有機物に触れるとすぐ単なる水に変化してしまう。
 次亜塩素酸水そのものは無臭で、有機物に反応して酸化的に分解する時に塩素が発生して水になる。つまり消毒や消臭効果を発揮していると塩素臭がする。消毒が済んだところに掛けても臭わない。物にかけるとじわじわ効果が進むので長く臭うが、皮膚にかけるとたちまち水になるからほとんど臭わない。つまりは、人体に使うためには量を使うか、余計な有機物を十分に洗い落としてからでないとウイルスに辿り着く前に水になってしまう。
 個人的には、次亜塩素酸水は服や靴、カーテン、布団などの消臭に使っていて、殺菌されるから結果的に臭いが消える。消臭力は極めて高い。金属は物によってはすぐ拭き取らないと腐食につながるし、手に使うと微弱酸性のものでなければ段々と手荒れしてくる。ただ石鹸で洗えば済むことだからそういう使い方は実験的にやってみただけだ。
 家には様々な物があるので電解式ミスト発生器より、非電解の次亜塩素酸水のスプレーボトルの方が便利だ。ただし、ボトルには大したことは書かれていない。医薬品ではなく物品扱いなのでホームページなどで製造方法などを確かめてから購入している。

 ニュースを聞いてすぐにおかしいことに気づいた人は、日頃から報道やらSNSなどで流される情報のいい加減さや影響力にも気づいているはずだ。Yahoo!ニュースなども情報ソースを明らかにせず意図的情報を流すことがある。
 事実のみの情報なのか意見が含まれた情報なのかを区別できなければ誤認の可能性がある。意見は人それぞれのもので、事実は都合よく一面的に捉えて再構成される。受け取る側は意図ごと事実として認識するが、全部が報道されるわけではない。
 もちろんニュースを流す側に問題があることもあれば、受け取る側に問題がある場合もある。これがSNSでさらに爆発的に拡散されると、もはや大局としては事実を理解しようとする方向ではなく「専門家」という漠然とした権威の意見を求める方向に進んでいく。こうして、個人で判断できることは何もないかのような傾向が助長されていく。

キリコ/預言者
 小さな亀裂が後から来た者の落とし穴となる。
 先人の通りに行動しても安全だとは限らない。

 事故事例によって事故防止対策に繋げる仕組みを作ることはできるが、安全ルールに従ったからといって事故が起きないわけではない。現状認識を伴わなければ、ルールを守ることが事故に繋がる可能性もある。ルール遵守だけでは事故は防げない。
 ルール無視で起きる事故もあるが、いつもと同じように作業をしていれば事故が起きないという保証はどこにもない。たいていは上手くいくことでも、100%上手くいくと思っていると見落としは増える。たったの1秒、1センチ、1歩、1文字の違いが事故を招くこともある。
 事故事例から生まれたルールはもちろん事故防止策だが、前提や条件があるものも多い。ルールの意味が分かっていないと無意味なところで持ち出したり、上手く運用ができないこともある。状況が変化すれば止めるとか回避するとか、誤りを修正していくとか、臨機応変な対処をルールと称することもある。

 ルールには、マニュアル的な複雑な手順からヘルメットを着用するといった単純なことまで種々様々ある。終わったことに対して特定ルールが守られていたかどうかなど、後からならどうとでも言えるほどルールと呼ばれているものは無数にある。
 名文化されているルールもあるが、人の頭の中では解釈にも重要度にも必ずズレはあるものだ。あまりにも差異がある場合にはルールそのものに問題があるかもしれない。ただそれでも目的を達するかどうかより、ルールを守ること自体が大事と思っている人は多く、その点ではルールも価値観と同じようなものだ。

 確かにルールを守ることが目的の一つの場合もあるし、ルールに沿わないと目的に達しないこともある。スポーツやゲームのようにルールが無ければ成立しないものもある。しかし、目的を達するためにルールを作ったり、選択したり、変更することもある。
 いずれにしてもルールに沿うことで上手く事が進みそうになければ、了解を取るべきところには確認を取っておかないと後で面倒が起きることがある。融通が効くと思われることと勝手な判断をしていると思われる境界線、あるいは、何でもできると思われている人と目的のためには手段を選ばない人の境界線というものは曖昧だ。その曖昧さがどちらに傾くかは、結果の良し悪しと、周囲にその人が認められているかどうかというところに大きく左右される。

 そもそも事故対策として決めたルールはいくつあるのか。どこかにまとめて書かれていて、部分的に重複したり矛盾しないようにしているのか。何がどこまで周知されているのか。古いルールは現状に合っているのか。多すぎたり難しすぎないか。ルールに従うと出来ない作業はどうするのか。ルールの適用範囲に問題はないのかなど、ルールは価値観と同じように更新されていかないと形骸となり、有害な固定観念ともなる。
 事前に決めたルールが現状に沿わなければ、現状を変えるかルールを変えるか、中止するか、方法自体を検討し直すかなどを選択していかなければならない。現実というのは多かれ少なかれそうした判断の連続であり、未来永劫にわたって条件が変わらず結果も変わらないということはあり得ない。
 現場では様々なことが起き、ルールの適用にある程度は幅がないと実際に作業をこなしていくことは難しい。決まったことしか出来ない人に単純作業を任せるというのはよくあることだが、現状が変わっていることに気づかず同じことをやっていれば、やがては誤作動を引き起こす。

 手に取ったドライバーでネジが外れなければ、別のドライバーを使う。精密ドライバーが必要かも知れないし。固く締まっているなら電動ドライバーを使う。ネジ山が磨り減っているようなら、インパクトドライバーを当ててハンマーでネジ穴を切ってみる。ネジが錆びついてしまっていたり、どうしようもなければネジを破壊しなければならないかもしれない。
 選んだドライバーで一発でネジが外せるかも知れないが、外せない場合もある。実践と想像とは違う。正しいと思うドライバーでいつまでもネジが外せず、やがてはネジ穴を磨り減らしてしまうこともある。
 ドライバーが1本しかなければネジを外せる可能性は低い。ドライバーが2種類あればネジが外れる可能性は倍になる。様々な道具を持っているほどネジを外せる可能性は高くなる。

 傍観者の方は様々なドライバーや種々の使い方があることに初めて気づいたり、ほとんどドライバーを使ったことがない人ならネジを外す人自身に価値があると思ったりするかも知れない。正しいドライバーというものは想像の中では存在しても、実際には無いこともある。
 想像だけで何もかも判断できるものなら現実を知る必要もない。ネジはドライバーで外れる。それだけ知っていればいい。様々なドライバーやネジの形状、材質や状況などを考えたり、色々と試したりするよりは人に頼んだ方がいいし、自分でやるなら人に正しいドライバーを訊いた方が楽なことには違いない。外せなければ自分が間違えたわけではなく、外せればそれはやはり正しいドライバーで、信じてよかったということになる。

 ネジが外れないぐらいならいい。壊しても元に戻せなくてもいいとなれば何でもやってみることもできる。しかし、結果が自らの生死や進退に関わってくるとなれば、想像が恐怖を生んで行動の足を引っ張ったり、逆に安心の中で物事を進めたいと願うあまりに、異常を何でも無いことのように見すごしたり否認してしまうこともある。
 救急隊や消防士を待っている余裕があるとは限らない。もちろん彼らは実践を経験してきているから頼りにはなる。しかし、9/11でも東日本大震災でも、まずは現場にいる人それぞれの行動が生死を分けた。
 例えば9/11では非常階段を使った避難訓練をしていた会社の人たちは全員が助かったが、地震の場合のようにビル内に留まる方が安全と判断を下したリーダーに従った人たちは全員が亡くなった。助かった人の半数近くが避難階段がどうなっているのかその時まで知らず、ロビーで飛び降りた人たちの残骸を目にするまで、実際に何が起きているのかほとんどの人が認識していなかったという。

 例えば、飛行機の中で突然酸素マスクが頭上に降ってきたら緊急事態ということだ。しかし、離陸前には、酸素が必要な時にマスクが降りてくることとマスクの付け方の説明はされるが、緊急時には乗務員の指示に従って下さいと言われる。客の方も指示に従えばいいと軽く考え、そんなことは滅多に起こらないと思い、非常時にも誤作動かも知れないと希望的観測をしたりする。
 客はまったく信じられていないが、これまで見てきたように多くの人は自分の判断ではなく集団や権威、リーダーに従うものだ。災害時には特にその傾向は強くなる。
 客室内の酸素が不足したり気圧が低下すると、酸素マスクは自動的に頭上に降りる仕組みになっている。コードを引っ張れば頭上で化学反応で酸素を作る装置が作動するので、その部分は熱くなったり場合によっては焦げたような臭いもする。頭上に降ってくるのは一刻も早く鼻と口を覆わないと危険だからで、改めて説明を待ったり躊躇ったりしていると数十秒で意識を失うことになる。人に付けてやったりする余裕はほとんどない。まず自分が装着してから助けに入ることだ。
 愉快な映像とともに説明ビデオが流れても危機感は生まれない。酸素マスクが降りてきたらただちに装着しないと死ぬと言ってくれた方が、自らの行動に繋がるような気がする。実際に酸素不足の中でマスクを装着する映像や機体が海に沈んでいく映像を見た方がいい。そして、できることなら確かめられることは自分で確かめておくことだ。

レンブラント/イサクの犠牲
 いかに判断に苦しみ悩み抜いても、手を下すその瞬間までは何が起きるか分からない。

 未来に対しては可能性しか語ることができない。とすれば、実践というものは試行錯誤でしかない。たまたま同じ方法で成功が続くことはある。しかし、次には予期せぬ結果が待っているかもしれない。試行錯誤に失敗が無いわけではなく、むしろ失敗の連続とも言える。ただその積み重ねが臨機応変な対処に繋がり、段階的に成功率は上がり失敗は減っていく。
 様々な言い方があるが、これは確率論あるいは多元論的な捉え方で、決定論や二元論とは根本的に異なる。

 確率論から決定論へと持っていくことができることもあれば、本質的に確率論から離れることができないこともある。
 例えば、疫学は常に確率論的であり、薬学は確率論から決定論に持っていくことが望ましいものだ。一般的に科学は実験的・統計的な確率論から決定論へと向かっていくもので、すっきり説明できることばかりではなく仮説に留まっているものは多い。進化論にはたくさんの仮説があり、二酸化炭素地球温暖化説も仮説だ。もちろん、科学的に解明されていないことは無数にある。
 例えば、空がなぜ青いのかという単純な疑問に対しても、関係因子は複数あり全てを理解することは極めて困難だ。レイリー散乱とだけ憶えておけばいいわけではない。クイズの答えではないのだ。

 普段から二元論あるいは決定論で物事を断じていれば、せっかくの経験が無駄になることもある。何故なら、様々な方法があることに目を瞑ったり、知らないことを知らないままに済ませたりする最も都合のいい論法だからだ。
 自分のことでは試行錯誤しているのに、まるで最初から自分が正しい選択しかしてこなかったかのように二元論で物を考える人は多い。それは明らかな矛盾であり、自分に都合がいい論理を当て嵌めていることになる。多元論的立場から言えば、それは他の方法や結果を否定するものでもなく、単なるこだわりとか融通の効かなさ、あるいは無知の開き直りに見える。

 色彩的価値観を例に挙げれば、好みの色かどうかで購入する物を絞ったり、所持品の色合いで相手の美的感覚を判定したりする。機能や性質、由来や目的、形状や重さ、色彩以外のことを感知せず物事を仕分けすれば当然ながら見落としが生じる。
 色彩が目的ならば第一義として持ってくることは当然のことだ。本人がそれでいいなら言うこともない。しかし、そういう判断の仕方が何にでも当て嵌まるわけではない。
 例えば黒が好きだといっても、黒い物しか食べたことがないとか、家の中が真っ黒で何も見えないということはない。好き嫌いでは選べないものがある。白黒2色あっても餅なら黒焦げか黒カビで、形が同じでも白はプラスチックで黒は金属かも知れない。白いマスクが多いのは白が好きな人が多いからではなく衛生用品だからだ。
 色彩は様々な属性の一つに過ぎず、他の属性によっては選ぶ色彩も変わり、そもそも選択肢に好みの色が無いこともある。色彩的価値観は、色のバリエーションを選べる場合にしか適用できない。

 他人に自分の価値観を押し付けて平気な人もいれば、ネットの情報やテレビで聞いたことを丸ごと正しいと思い込んでしまう人もいる。自分と他人。現実と想像。この区別ができていなければ価値観に意味がないどころか過ちの元となる。
 自分の価値観が普通だとか正しいと思うのは、違う価値観を無視したり否定しているということだ。価値観は想像の中のことだから他人には見えないし、量ることもできない。どんな人も自分と同じ価値観を持っていると思ったり、他人の価値観をあり得ないと否定してもいい。社会的価値観を大切にしたり、反社会的なことを考えることもできる。けれどもそれは自分の頭の中のことだからだ。
 価値観を現実に当て嵌めてみることはできる。想像と現実が違っていても、問題にせず同じだと思いこむことはできる。けれども、こうしたことを続ければ相違を見逃し続けることになる。好きなことだけ選んでそれ以外は見なければ、知識も視野も広がらない。
 自分と他人の価値観は違って当たり前のことだが、同じだと思いこむことはできる。けれども、自分と合っている価値観だけ拾い集めても、合っていない価値観が消えるわけではない。自分が正しいとか普通だと表明すれば、自己中心の表明となり、他人に対しては押し付けになる。

 日常というのは果てしなく続く実験のようなものだ。同じ結果を求めても刻々と条件が変わっていく。過去事例に正解を求めるのは膨大な無駄という気もする。価値観というのものは、よく知らないままに物事を済ませるための固定観念の一種でもあろう。
 何らかの原因で長期間歩くことができない状態にあると、開放されてもすぐには歩けない。構造や仕組み、伝達に支障ができて行動に移れないのだ。その時になってやっと歩くとはどういうことか知ることになる。歩くということはあまりに自動的過ぎて、どうやって歩いているのか普段は意識していないが、それでも歩き方は知っていることにはなる。

 例えば、オオカミは二足歩行を知らないから四足歩行しかできないのかも知れない。けれども、四つん這いで支障のない環境ならば直立歩行の知識は必要がない。オオカミに育てられた人間は直立歩行ができるはずだが、最初から四つん這いの暮らししか知らない。
 直立歩行が正常か異常かという価値観はオオカミにとっては無用のことで、単なる移動手段に過ぎない。価値観は人の世界にしかない。

 価値観は人によって異なるもので、個人内でも変遷していき、社会や時代によっても異なる定義しがたいものだ。価値を測る道具は存在しない。道具で測れるのは数量であり、価値ではない。
 金額はただの数値で、安いほうがいいとか高いほうがいいとか、人それぞれ場合によって評価する。必要な物ならば高くても買いたいだろうし、要らない物ならば安くても買わない。この場合の価値は金額ではない。必要性ということだ。
 学力テストの点もやはり同じことで、同じ点数で喜ぶ者もいれば、敗北感に打ちひしがれる者もいる。ただの点数や実力とだけ受け取る人もいれば、合格点さえ取ればいいと思っている者もいるし、そもそもテストを放棄する者もいる。

 価値観は皆同じだとか、自分の価値観は普通だとか、自分の価値観が他人より優れていると感じている人は案外多い。
 数値と価値観を混同している人もよく見かける。テストの点が高ければ優越感に浸っているはずだとか、高価な物は良い物のはずだとか、確かめもせずに決めつけて、自らの価値観を露呈する。
 自分の価値観も測れなければ、他人の価値観も測れない。価値観を取り出して比べることはできない。よく話してみればある程度は分かるだろうが、家族でさえ価値観が違っていることはあるし、その尺度も違っているものだ。

 人それぞれの価値感は形もなく目にも見えない。現実にある物のように他人と共有できるものではない。相手を知れば知るほど共通点も見つかるが、相違点も見つかるものだ。しかし、それは実際には見えず、それぞれ独自に抱いているだけだ。
 人それぞれ正しいことは違い、考えていることも違う。自分の判断を優先させれば相手は間違っているように見える。相手が合わせてくれているのに自分が正しいと勘違いすることもある。価値観にこだわれば自己中心になり周囲が見えなくなる。

 価値観の違いは美術品の鑑定番組などでも分かる。二束三文で手に入れた物にとんでもない評価額がついたり、逆に高い買物が二束三文だったりする。番組の視聴者に鑑定人と同じ価値観が身に付くわけでもないし、複数の鑑定人の評価額が同じになることもない。金額と価値観は別物どころか関係がないように見えることもある。
 大切にしていた物が売り物にもならないと知って捨てたり、粗末にしていた物の金額を知って大事にしたり、人の価値観というものは実に都合のいいものだ。

 直立歩行を始めた最初の人類に歩き方のマニュアルはない。最初から知識があるわけではない。必要なのは歩くための構造と機能が備わっていることだ。二足で歩くという発想が先か、二足歩行のための構造が出来たのが先か、段階的にか突然変異的にかは分からないが、ともかく手を地面から離して足だけを動かす試行錯誤の末に、四足歩行より二足歩行の方が有利になっていったのだろう。
 赤ん坊も頭が大きいうちは這いずって移動する方がバランス的に危険も少なく有利であり、やがては立って歩いた方が有利になっていく。ただ、大人になってからでも四足歩行が必要になる時はある。自衛隊では5種類の匍匐前進訓練をするそうだ。

 直立歩行は知らないと出来ないものなのか。二足歩行が正しいから立ったのだろうか。
 初めは知識もなく価値も分からないまま歩き出した。それを後から二足歩行と名付け、立って歩くことを後から正常と価値付けた。