今井の鎌倉道 目次へ |
保土ヶ谷戸塚周辺の道しるべについては藤橋幹之助の「道標とともに−金石碑」(昭和57)がある。 藤橋氏は地元の研究家で、退職後、「道しるべのついた石碑石仏」の所在地と碑文碑姿の調査に半生を費やされた。 同著には169の道しるべが記載されており、うち31に「鎌倉道」の文字が彫られている。 同著から鎌倉道石碑を鎌倉道の概念図上に書き込んだものを図に示した。 |
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保土ヶ谷〜戸塚付近の鎌倉道は大変混み入っている。 黄色が鎌倉時代からの前期鎌倉道、緑が戦国中期に開けた後期鎌倉道である。 鎌倉時代以来の三本の「鎌倉古道」(上の道、中の道、下の道)と、その後開けた江戸時代の「鎌倉見物の道」が数本、さらにそれぞれの枝道が走り、鎌倉に近いこの地域に集中し交錯しているため、個々の道しるべがどの鎌倉道を指すのか分かりにくく、地元でも混乱することが多いが、この図で鎌倉道と石碑の関係が一応整理出来たつもりである。 保土ヶ谷付近の4基の道しるべだけが、どこへつながるのか、まだ解明されていないことになる。 |
今井の鎌倉道 上図の点線枠の道しるべ4基から、今井付近に鎌倉道と呼ばれる道があったことが分かる。 また武蔵国風土記稿には次の古鎌倉道の記事がある。 |
「今井村・・村内に古鎌倉街道とて一条の往還あり。此の街道は北の方二俣川より入て、巽の方にかかること二十丁許にして保土ヶ谷宿の内東海道往還に至る、其所を武相の界とす。」 |
「武相の界」は「相武国境=境木」のことで、ここで東海道に接続していたとされている。 |
記事の内容にあった道を探すと、今井道本道こそが武蔵国風土記稿でいう古鎌倉街道であることが分かる。 (下図の緑色の道が、武蔵国風土記稿でいう鎌倉道。赤色の道が大山道(別項)) |
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@武蔵国風土記稿の今井村の項には「鎌倉道」が出てくるが「今井道」本道の記事がない。 A「北の方、二俣川から二十丁」というのは距離と方向が丁度「今井道」そのものに相当する。 Bその先で保土ヶ谷の東海道につながりそこが国境(境木)というのは、別項で述べた旧々道時代の東海道のコース(法泉下〜境木)に当たる。 C江戸以前からこの保土ヶ谷境から今井村に入る主要街道があったことは「十三塚」からも分かる。 すなわち「武蔵国風土記稿の鎌倉道」は今井道から分かれる枝道ではなく今井道本道そのものであり、道しるべも今井道へ通じる枝道を指していることになる。 |
これまでの郷土史では今井小学校から入り、ゴルフ場へ向かう新道を横切って山へ登り、ゴルフ場前から東戸塚駅西口へつながる道が鎌倉道とされていた。 (この道は横浜新道と重なり、最近の環状二号線ルートとも交差したため完全に破壊され、たどれなくなった。) この道は武蔵国風土記稿でいう「鎌倉道」ではなく「大山道」である。和田から横浜新道に沿った最短コースで岡津大山道へ出る大山近道がこの付近を通過し、東戸塚川上町に出ていたことはすでに別項で述べた。 (もちろんこの道は今井道(鎌倉道)につながる枝道なので、逆方向に鎌倉道と呼ばれていたとしても構わないが・・) 大山道へ
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この今井道(本道)はどう見ても鎌倉に通じておらず、また現在分かっているどの鎌倉道にも接続していない。東海道に接続するこの道が「鎌倉道」と呼ばれることについては次の説明しかないであろう。 |
戸塚ー保土ヶ谷間のこのルート(東海道の前身)に江戸以前から交通路が開けており、「鎌倉道」と呼ばれていた。 江戸初期にこの道は「東海道」に昇格したが、これに接続する枝道には昔通りの「鎌倉道」の名前がそのまま残り、石碑にも刻まれた。 |