

箱根宿〜三島宿 (旧街道の山越え)
歴史のある温泉郷らしく古い建物と湯気のコントラストは絶妙で絵になります。
「女転ばし坂」など峠まで馬から降りて歩くべし、と伝えられている厳しい登り坂が続き、
心底しんどい。麦茶をボトルで買ったママの機転で喉の乾きには対処出来た。
やっと辿り着いたのが畑宿で、日本橋から23番目(90キロ)の1里塚がある。
ここから、江戸時代からの石畳の続く街道になる。掲載写真を見て
昔の趣が得に色濃く残る街道とあるので楽しみにしていました。
さいから坂・猿すべり坂・など名前聞いただけで、想像絶する険しい坂道を、
一歩ずつ確実に踏みしめて進む。そして辿り着くのが、
甘酒茶屋で江戸時代からこの場所にある。
そろそろ、歩きつかれたな〜と思う場所に休憩所があるので、
昔も今も同じだなと実感した。
店内は繁盛していた。お茶が無料で飲めるのがありがたい。
私達も甘酒といそべ餅を食べたが、美味い ! を連呼。
畑宿からここまで追いつ、追われ競ってきた御夫妻?が
休憩してから、バスで帰って行った。
私達は芦ノ湖まで、前進のみ!です。
ここから石畳は切れる事なく続き、杉林だったり、背の低い林だったり、
竹やぶだったり、様々な変化がある。途中から一気に下り坂になり、
芦ノ湖も近いと肌で感じるころに旧街道標識があり標識に沿って林を抜けると芦ノ湖
元箱根に着いた。15時45分着。
ここからは今夜の寝床に行くため旧街道から離れて
芦ノ湖キャンプ村までフェーリーで、湖尻まで720円でした。早速テントを
決められた場所に設営してから、風呂(大浴場)に入り食事にでかけた。
ちょっと上品なカフェで夕空の湖畔を見ながらカレーライスを食べた。
しかし物足りなく、カップ麺を買って帰ったが、キャンプ場にはお湯がない。
そこでジュースのアルミ缶を利用してお湯を沸かす事に挑戦し成功した。
疲れているので、すぐ熟睡出来ると思っていたが、重大な誤算に出会う。
20時から小雨が降り出して22時には1メートル先が見えないほどの豪雨。
地べたがビニール一枚なので寒いのだ。ダンボールを探したが有るわけが
ない。そして寝ている体を海老のように丸め、一枚の毛布に重なりあって寝た。
外の若者達は雨,風にひるむどころか益々意気盛ん。笑い、歌い、叫び、
エネルギーを爆発させている。目覚めても雨だったが予定通り、7時30分
出発する。時間が早過ぎて湖尻から元箱根まで交通手段がないので、
ママを説得して雨カッパ着て、約5キロ、歩く事にする。途中で大型のガマ蛙、
数匹の出迎えもあり楽しいこともあったが、1時間30分の道草でかなりの
体力消耗です。元箱根に着いたころには雨もあがった。悠久の時代から松並木
今日の私達夫婦まで万人に踏まれている石畳と雨風から守ってくれる
芦ノ湖




平成9年9月20日 (晴れ)芦ノ湖〜三島 (9回目)
箱根の関所だ。観光地らしく、旗を持ったガイドさんが説明している光景がある。
様々なドラマを作った関所を咎められることなく通り過ぎる。
ほどなく、国道から左側の山道に入るのだが、立て看板あるものの、注意してないと
通り過ぎてしまう。獣道のような、渓谷のような険しい登り坂が始まり、
箱根越えは、甘くないぞ!と恫喝の声が聞こえる。
何より薄暗いので、妻に手を貸し、1歩1歩進む。
やっと薄暗いトンネルを抜けて山頂の箱根峠だ。
ここまで来ると疲労を吹き飛ばすほどの眩しい青空とすんだ空気が迎えてくれた。
ここからつかのまの緩やかな国道を歩いて、ゴルフ場脇から旧街道に入ると
一転して再び足元薄暗く湧き水で滑りやすい下り坂が続き、京都で
売られていたキセルの筒として有名な竹やぶのうっそうとしてるが木漏れ日の
ある道を進んだ。しかしこの道は一人では怖いと思う、まして女性一人は
絶対危険である。それでも旧街道の情緒を色濃く感じられるので、魅力があり
人気があるのだろう。昔の旅人は草鞋や下駄で走破したのだから、
凄いとしか言い表せない。国道を横切ると、接待茶屋跡に着く、旅人の一息
入れている様子が目に浮かぶ。『こわめし坂?念仏石?』など想像を
描きたてられる名前がある。
たとえば、徳川将軍の休憩した記念碑の右側には、
家康が兜を置いたと言われる兜石がある。
歴史の声に耳を傾けながら進むと、明治天皇休憩の碑があった。
石畳を整備した所が随所にあって保存に力を入れている様子が伺い知れる。
手当て中箱根旧街道山腹



山中城跡まで一気に下ってきた。ここで30分位休む。
ここまで休憩なしでこれたのは驚くばかりである。
妻に休むかと尋ねると大丈夫と言うのでここまで来たが、私も妻の強さに、
勇気を貰う。やり遂げるしかないのだから。
いつも集落を通り過ぎて思うのは、そこで暮してる人々は今も歴史を引き継ぎ、
新たな歴史を育んでいるのですね。「下長坂」の地名の通り、
転げ落ちるほど下りの長い坂道もあった。
途中にある民家の(高校生位)娘が、「こんにちは」、と妻に声をかけてくれた
きっと旧街道を歩いているのを察して中年の私達にエールをくれたのでしょう。
とても嬉しい。元気100倍です。
「塚原新田」に差しかかった時にラーメン屋があって、妻と阿吽の呼吸で食べる事にした。
三島まで後2時間くらいか。思えば箱根峠より、下りが続いているのだが、
登りもきついが下りもきつい。犬の散歩のおばさんに抜かれる始末で
限界が近づいていると感じる。
「錦田」の一里塚に到着した日本橋から28里(110`)である。
妻にリタイヤしてバスで行こうかと聞いたら、ここまで来たのだからと、逆に叱咤激励された。
恐れ入りました。夫婦で歩いている幸せを感じる。ここからは気力で、頑張るしかない。
やっと平坦な道路に三島の町に到着した。
三島神社に着くころには二人とも、足を引きずっていた。
一歩一歩が足首に激痛を与えるからだ。
三島神社によれよれで到着し三島神社の清水で渇きを癒し生き返った。
2日で約40キロ箱根の山越え走破、充実感でいっぱいだ。
午後5時30分お母さんやったね! 頑張ったね。
平成10年8月22日(土)快晴 三島〜東田子の浦(10回目)
11次宿場 三島 江戸後期1843年江戸4048男1929 女2119
平成男54804女56906
戸塚駅6:24三島駅着8:00 2度目の一泊二日の日程です。
真夏の太陽の強烈な照り付けが、朝から容赦なく襲ってくるので、
体力を心配しながらの歩き。ママは麦わら帽子(国府津で購入)と
サングラスに長袖のシャツ。
私は帽子に襟付きの半袖,首だけ日焼けしないようにタオルを巻いている。
三島の町並みを通り抜けると,程なく一里塚がある。玉井寺と宝池寺が向かい
合って建立されており、檀家同士でいがみ合うことはないのだろうか。
しばらく歩くと長沢八幡宮がある。歴史書に「1180年に平家の軍勢、富士川まで
出陣のとき頼朝ほとりまで蜂起あり。九郎義経ここに来りて、成長の後再び対面し
賜う所也」と説明のある対面した時の腰掛石が残っています。この時兄の優しさを
感じたと思う。
頼朝は弟との再会の喜びと、戦に馳せ参じてくれた嬉しさ、血縁の強さを
ところが後年義経の聡明さに、自分の地位が脅かされると
逆恨みして、岩手県平泉にて兄の追ってにより、義経は殺されているのだ。
実は平泉は私の故郷であり、武蔵坊弁慶が死んだ場所は、母方の実家で
衣川村である。私は複雑な気持ちで腰掛石に座っている。
「兄じゃ逢えて嬉しい」
「九郎会いたかったぞ。苦労かけてすまなんだ。
「もっと早ように呼び寄せたかったのだ」
「これからは兄者のもとで働きとうございます」
「共に生きようぞ」 ・・・・などと会話したはずだ。
頼朝・義経 対面腰掛石



