一歩から
岡部宿〜掛川宿
21次宿場 岡部
江戸後期1843年江戸男1157女1165
平成男69755女73331静岡市藤枝市
街道も幾つかに分れているが、一番険しい参勤交代で使った山道を進むことにした。
途中小さな30戸程度の集落を通り過ぎて、山道に入るのだが、
集落の中に豊臣秀吉から勲功により羽織を頂いた「御羽織屋」石川家があった。
集落の終わりからは急坂になり先は荒武者が現れそうな荒野である。
ほとんどの人はここから引き返してトンネルを通る無難なコースを選ぶようだ。
山の斜面から先ほどの集落を望めば最高の景観が望めた。
この旅でベスト5に入る大好きな景観です。旅して良かったと思う瞬間だ。
絵葉書を見るように美しいのでぜひ写真を見てほしい。
宇津ノ谷峠は「駿河なる宇津の山べのうつつにも、夢にも人にあはぬなりけり」
いかにも歩きにくい難所の様子が文書に残されている。
一気に登り一気に下る山越えでしたが、
すれ違ったのは、50才代の健常な男性一人だけでした。
大名の参勤交代に通った正式な道とはとても思えない。
やっと国道1号線に合流したので、もう少し、頑張って、
旅は峠の茶屋近くのバス停までとする。
このおかべ茶屋で、アンケートに答えたら弥次喜多のキーホルダーを
プレゼントされた。どっちを選ぶか迷っている振りして、
二つどうぞと言われるのを期待していたのでしょう!とママにずばり指摘された。
25年近く夫婦していると、見透かされるのでやりづらい。ハハハ・・・
岡部宿


平成11年8月1日(快晴)宇津ノ谷峠〜島田(15回目)
朝5時に自宅玄関を出ると雨。朝の早い親父とお袋に見送られての出発です。
今回はバスで目的地(宇津ノ谷)まで行き、スタートになるので、
バスの車窓から前回の足跡を辿ることが、出来るので楽しみだ。
宇津ノ谷のおかべ茶屋に到着。
早速、天ぷらうどんを食べ、エネルギーを補充してから行く事にする。
岡部川沿いの民家は街道筋らしい雰囲気がある。
6歳ぐらいの子供二人が、ふざけ合いながら子供らしい仕草で歩いているのを見て、
ふとケンとアミの幼少のころを思い出した。
岡本宿本陣跡の側に江戸屋敷のような建物を建設中だった。
バイパスが出来て岡部を迂回しているので、観光の目玉をつくり
お客を引き寄せようとの考えでしょう。お金が有る町なのか、役場も立派である。
立派過ぎてこの町にはそぐわないと感じるが、大きなお世話ですよね。
宇津ノ谷山越えから写す 宇津ノ谷今から山中

22次宿場 藤枝 江戸後期1843年男2208 女2217
平成男19755 女73331
国道1号線に沿って左右に逸れたりしながら進み、朝比奈川を渡ると藤枝宿に入る。
大きな工場もあってかなり賑やかだ。ユニー藤枝白子店で休憩する。
周りの子供は厚底靴にミニスカートで、横浜も藤枝も同じである。
江戸時代は長雨によって島田にある大井川が渡れなくなると、
この藤枝宿場は繁盛し、岡部宿までもが宿が一杯になったらしい。
行かなかったが,近くに田中城がある。家康が1616年鷹狩にきて城で
天ぷらを食べてあたり,重体のまま駿府に帰城して亡くなった。
田中城は明治まで世襲されていたらしい。
ママが太陽の陽射しと悪戦苦闘している。太陽の照り返しが強いのだ。
女性?は紫外線が怖いらしい。というより後々のシミが怖いらしいのだ。
俺は関係ないけどね、瀬戸川を渡ると名物の
瀬戸の染飯(飯をくちなしにて染めてつぶし小判型に薄く乾かして売る。)
この茶店の跡が現在の石野モータースで、包み紙の版木はあるらしい。
1590年頃からの歴史のある名物を、今この自然食ブームのなか蘇えらせたら
売れるかも知れない。私やろうかな?売れそうじゃないですか?。
新しい松が歩道側に植えてあるが、まだまだ低いので松並木とは言えないが、
松は気分を落ち着かせるフェロモンを発しているようだ。
元気に成長してほしいと願いながら歩く。途中で日本蕎麦屋に入る。
森そば食べたが美味かったです。蕎麦湯を空のポットに入れた。
主人は私達の身なりから、歩いていると察したのか
帰り際『気をつけて!』と声を掛けられた。
この一言で俄然やる気がでた。
藤枝 街道松

23次宿場 島田 江戸後期1843年男3400 女3327
平成男48161 女50636
いよいよ島田宿に着いた.東海道一の大河,大井川がある.
[箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川
馬子唄があるとママが教えてくれた。
川留めで旅篭屋が大層賑わったらしい。
さすがに大きな商店街だ。ジャスコもあるが、再開発中らしく、
立ち退きの看板が至る場所にある。
銭湯の前を通った時にママに入ろうかと聞いたら、賛成と言ってくれたので、
ひとっ風呂浴びる事にした。洗い場に首下から足首まで,刺青がばっちり
彫ってある40歳くらいの男が居て気になる気になる。好奇心でちらちら見たが
綺麗なものだ。私と入れ違いにすぐ出ていったが、残った客同士で、
「あれは金が掛かってるべ」「うん百万円は掛かっているぞ」と言いたい放題。
盛り上がった。この銭湯は昭和4年開業で私の知っている銭湯とは大分違う。
レトロな蛇口、傘の付いた裸電球まで全てが歴史の一コマなのだ。
入るとすぐ番台と籠の脱衣場小さな中庭があって2メーター程の廊下を
渡ると洗い場と湯船が2つある。一つは3人で一杯の狭さで立って入る湯船なのだ。
知らずに飛び込み溺れ掛け肝をつぶした。
妻もいの一番に「なにあの深さ、足とどかないよ。
きゃ〜と声をだしそうだったわよ。」と上気した顔で興奮気味に話す。
着替えてスッキリ、至福の喜びを感じる。
ここから30分位で島田駅に着くはずだ。気合だ〜気合。
島田駅―静岡駅―熱海駅―戸塚駅 乗り継いで帰る。
島田宿 大井川絵

平成13年4月28日(土)快晴 島田〜新金谷(16回目)
島田駅前よりいよいよ出発だが、久々なので駅前の景色を思い出せない。
歩き初めてすぐ大井神社があった。島田に嫁に来た女が氏子になった報告と
将来の安産を祈ってお参りする神社らしい。先祖代々の願いを聞いて
来たのだから後利益もそうとう有りそうです。私も旅の無事と家族の
健康を頼んだが、10円の賽銭では少な過ぎるかも知れませんが気持ちですから。
しばらく歩くと、川会所がある。川越人足が詰めていた番屋や
管理業務を行う川会所など往来の面影を残している建物が並んであるので、
映画のセットのようだ。絵を書く同好会でしょうか、20数人の
人達がスケッチをしていた。人によって好きなポイントが違うらしく、
ばらばらに場所とりしていた。少し先に進むと【朝顔の松】があった。
この松は2代目だが、逸話があって、目が見えない朝顔が夫を追って
大井川に来た所、川留めで会えず、絶望から身を投げたが救われ、なんと、
目が治り、最初に見えたのがこの松と呼ばれているのだ。
これほど大きい川幅は初めてだ。向こう岸がぼんやり見える。
大井川は江戸を守る必要から戦略上、橋を架けられず渡し舟も
禁止されていた。渡るのは700人(1800年)いた
人足の担いで渡す方法のみ。興味ぶかいのは水の深さによって渡し賃が違う、
今で1920円から3800円位のようだ。
橋の真ん中に差し掛かり川面を見る為に身を乗り出すと高所の為に怖いほどだ。
川の半分は水が流れていないので、雑草や、木が茂っている。
その中の一本が最近の大雨で倒れたのだろうが、根性で倒れたまま枯れずに
緑の枝を伸ばそうと、必死に生きている。俺に語りかけてくる。「お前も負けるな。」
新金谷駅に着く。運よく蒸気機関車に乗る事が出来た。写真ぱちぱち感激した。
そのまま島田の旅館に戻る。
川会所

24次宿場 金谷 江戸後期1843年男2074 女2197
平成男48161女50636島田市
平成13年4月29日(日)曇りのち雨 新金谷〜掛川(17回目)
学校のクラブ活動なのか、先生を囲んで5〜6人の生徒が出発の準備をしていた。
私達が出発した途端、島田から歩いて来た団体と会う。
初め20名位かと思っていたら、200人以上の大人数(中日新聞2001年ウオーク)の
バッジを付けていた。
私達の親の年代から、小学生までまさに老若男女。私達夫婦も便乗して
一緒に歩く。掛川まで約15キロ、楽しい旅になりそうだ。金谷坂は石畳を敷いた
長い登り坂。親の年齢ぐらいのおばさん,おじいさんに追い抜かれ、
凄いなと思う半面、自分の体力のなさに恥ずかしい。
杉木立の山道を超えると、眼下に茶畑が広がる。
まさに茶摘みの時節らしく緑の新芽が眩しい。
休憩場所があって無料で新茶が飲めた。ここから小夜の中山に入るが
「上り坂16丁と云」と記述があるとおり、かなりの急勾配だ。右手に久延寺を
通り過ぎ、鎌倉時代より名物の子育て飴を売る扇屋という茶店が今も金谷坂
営業している。語源は妊婦が山賊に殺されたが、子供は無事に
生まれて、付近の人達に水飴で育てられ、成人して敵を討った
という話だ。甘くて美味しい飴は祭りの屋台で割箸に巻き付ける
水飴と同じでした。街道は次第に下り坂になり夜泣き松
(皮が夜泣きの子供に効く)を通り過ぎて国道1号線にぶつかり
歩道橋を渡り、品川宿から数えて25番目の日坂に入る。
牧の原大地の茶畑
25次宿場 日坂 江戸後期1843年男353 女397
平成男57044女57426掛川市
格子戸の家など古い面影の家が数件あった。
旧街道と思えないほど、狭い道だがなんとなく惹かれる日坂の街道である。
本陣跡を通り過ぎたころより、小雨が降り出した。
大勢の皆さんは神社の境内で雨宿りしながら、持参のおにぎりを食べている。
皆さんは旅慣れているなと思う。やはり旅は握り飯が似合う。
国道一号線と並んでしばらく歩くのだが、ママの靴が微妙に
合わなく靴擦れが辛そうだ。次回までには良い靴をプレゼントしてあげよう。
コンビに寄ってトイレを借用していたら、小学生二人と母親、傘の無い親子が
ずぶ濡れで入ってきた。子供たちは元気だが母親は疲れてるようだ。
頑張れ頑張れ!
憎らしい雨の中、皆さんは蟻の行列のように黙々と歩いています。
リタイヤした夫婦の旅人がバス停に5〜6人と並んでいたが、バス運転手から
満員で乗れないと合図が出ている。
車内を見れば,リタイヤしたウオークの仲間でいっぱいでした。
新町から塩町に入りもうすぐ掛川です。今回の旅は街道の主な所に、
中日新聞の案内係が居てとても助かった。
団体で歩く旅に参加した事がなかったので、
楽しかったし勉強になりました。ようやく雨も上がってきた。
飴を売る扇屋 新町から塩町掛川宿

平成18年8月20日(日)快晴 掛川〜見附(18回目)
26次宿場 掛川江戸後期1843年男1634女1809
城下町平成男57044女57426掛川市
太田摂津守掛川城
太陽がギラギラと燃え、歩道のアスファルトも悲鳴あげているなか、
一組の男女が陽炎に揺れながら黙々と歩いている。
男は野球帽を被り首には白いタオルを巻いて、よれよれTシャツに
そして肩広のリュックを背っている。女は、サングラスをして顔が
隠れる程の深い土星のような帽子、白の長袖シャツに白の手袋、
そして小さめのリュックを背負って、日傘を差している。
こんな暑い日に歩いているのは馬鹿としか思えない。
そうなんです!俺たち夫婦は東海道5十3次に魅せられた馬鹿なんです。
朝から気温 32.9掛川駅からの出発です。
なんせ真夏なので、この暑さは半端じゃない。
水分補給をしっかり取り、二人で気持ちを支えないと、倒れそうである。
駅から国道一号線に向かうと10分位で「東海の名城」掛川城に到着する。
1590年山内一豊が入城したとあります。
天守閣は1869年に廃城になりましたが1994年に日本では初めて
木造復元された天守閣です。
東海道進んで左側に広楽寺に三代目尾上菊五郎の墓がある。
音羽屋は当時の人気役者で浮世絵にも描かれている。
1849年掛川で亡くなった。
現在の菊五郎は7代目である。私はバブル弾ける前の遥か昔に
千葉県のゴルフ場で7代目菊五郎さんと同じコンペで
一緒にプレーした事があります(自慢話ですが)
国道から右にそれて、森町まで行くと、有名な森の石松の出身地で大洞院に墓が
有るらしいが、先を急ぐ。原川を渡り袋井に入る。
掛川城