6月22日(第8日目−その2−)

ハイリゲンシュタットHeiligenstadt

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お昼を済ませたら再び活動開始。ナッシュマルクトを歩いてみる。色々な食料品を売っている。果物屋でリンゴを一つばら売りで買って齧った。1個22ユーロ・セント(30円弱)であった。ナッシュマルクトのお仕舞いはノミの市、種々雑多な品物をフリー・マーケットのような感じで並べている。見ると、身の丈50〜60cmの仏像まで並んでいた。
ノミの市の終わる処は地下鉄駅Kettenbrueckengasseであった。(写真右、上はノミの市)ここで地下鉄に乗り、カールスプラッツ駅まで1駅戻った。そこから市電でリンクを一周することにした。旧市街をぐるりと取り囲むリンクは、19世紀の中頃に城壁を撤去して造られたものだそうだ。

(二度にわたるオスマントルコ軍の包囲と攻撃に耐えて、トルコ軍を撃退したウィーンの堅固な城壁も) だが、さらに1世紀以上の歳月が流れると、この歴史的な城壁は、ウィーンの人口を到底収容しきれぬ桎梏に変じた。城壁が経済の発展を阻害する”遺跡”のような存在になってしまったのだ。保守的な皇帝も、さすがに城壁をなんとかせざるを得なくなった。こうして、1857年、フランツ・ヨーゼフはこの防御用の施設を撤去して、ウィーンを再開発することに同意し、・・・・・(文春文庫:森本哲郎「世界の都市の物語 ウィーン」)
リンクは一周約4km、皇居の周りと同じ程度である。このリンクを右回りと左回りの市電が走っており、30分程度で一周できる。リンクに沿って様々な建築様式の建物が立ち並んでいて見る目を楽しませてくれる。我々は、オペラ座の前で内回り(時計回り)の電車に乗った。
リンクの内側(右側)には午前中に行った王宮庭園、次いでブルク門。その先は、左手(外側)に国会議事堂、その隣が州政府兼市庁舎、ウィーン大学と続く。暫く経って車内アナウンスでハイリゲンシュッタット方面に向かっているD線の電車であることに気付く。リンク一周と同じ線をD線も走っており、それに乗っていたのだ。4駅ほど乗り過ごし、慌てて下車しリンク方面へ戻る電車に乗り換えた。
リンクのベルゼBoerse駅から再びリンク右回りの電車に乗り、やがてドナウ運河沿いを電車は走る。運河と分かれて大きく右にカーブした左手に合同庁舎の建物があった。大きな翼を広げた双頭の鷲が建物の最上部に鎮座している。この建物は、かつて国軍の参謀本部があったところだそうだ。そして、反対の右側には、郵便貯金局、オットー・ワーグナーが1906年に建築した当時の最先端を行くアール・ヌーヴォーの建物であるとのこと。

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リンク一周目前のオペラ座前の少し手前で降りて、楽友協会Musikverein(写真左)を訪ねる。新年恒例のウィーン・ニューイヤー・コンサートが行われる場所である。残念ながら、外周はお化粧直し?で足場が組まれており、赤レンガの優美な姿の全景をカメラに収めることはできなかった。

時刻はそろそろ午後3時。今夜はウィーン郊外のホイリゲHeurigeで飲食を楽しむ予定にしている。添乗員さんがお薦めの、ハイリゲンシュタットにあるベートーベン・ハウスで午後6時頃に他のメンバーと落ち合うことにしている。そろそろハイリゲンシュタットの方へ向かうことにした。リンクでD線の市電に乗り、終点のベートーベンガンクBeethovengangまで行くことにする。

再びオペラ座前で市電に乗った。信号待ちで停まっていると、何台もの車がクラクションを鳴らして騒がしい。ウィーンにも暴走族がいるのかしらん?と思って見ると、赤い旗を振り回して気勢を上げている。何だろうか?
トルコの国旗 電車が走り出すと、暴走族風の車が一列でになってクラクションを鳴らし喚声を上げて脇を走り抜けて行く。乗っているのはアラブ人風の若者で、振り回している旗は赤い地に白い三ヵ月と星の模様。もしかして、トルコの人達?そうだ、今日22日はW杯日本−トルコ戦がある日(いや日本時間では既に夜10時過ぎなのであった日と言うべきか)。と言うことは、日本がトルコに負けたのだ、とこんなことでW杯の結果を知らされました。ウィーン大学前の広場には、トルコの若者が大勢集まって、対日本戦の祝勝会を行っていました。それにしても、ウィーンにはこんなにも多くのトルコ人が出稼ぎに来ているのだな、と改めて思い知らされた。

市電D線はベルゼでリンクと分かれ、北に方向を転ずる。ハイリゲンシュッタットHeiligenstadt、ヌスドルフNussdorfを通って終点のベートーベンガンクBeethovengangで円弧を描いたレールを回って市の中心へ戻って行く。
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終点で降りて、そこから西に伸びる”ベートーベンの散歩道”Beethovengangasseを辿った。交響曲第6番『田園』の着想を得たと言われる小道(写真右)を5〜6分進むと小さな十字路があった。そこから南北に通じるエロイカ小路Eroicagasseを南へと進む。10分ほど歩くと小さな教会の前の広場に出た。教会の隣の家の入り口には松の枝を束ねてぶら下げてあった。これがどうやら我々が目指してきたホイリゲ”ベートーベン・ハウス”らしい。

ホイリゲHeurigeとは”今年の”という意味で、新酒を意味するとともににそれを飲ませてくれる酒屋を指す。新酒が出来た目印に松の枝を束ねた目印を軒先に吊るす慣わしだそうだ。日本でも新酒が出来ると杉の葉を大きな玉にして造り酒屋が軒先に下げて目印とするが、東西似たような慣わしがあるものだ。
ホイリゲでは、ワインはテーブルまで運んでくれて、代金は最後に払うが、つまみは予め調理された肉料理やハム・ソーセージ、サラダなどをカウンターへ行って買ってセルフ・サービスで自席まで運ぶ仕組みになっている。
時間はまだ午後4時ちょっと過ぎ、他の仲間と落ち合う時間には未だ間がある。教会前の広場から西に伸びる小道があり2〜300m先に”ハイリゲンシュタットの遺書の家”がある。ベートーベンが遺書を書いた家だそうだ。そこへ行く小道の左右にも3〜4軒ホイリゲがあった。”ハイリゲンシュタットの遺書の家”は閉館時間を過ぎていたのか扉が閉まっており、残念ながら中に入ることはできず、外から眺めるだけに留まった。
ハイリゲンシュタットの遺書の家
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午後5時半過ぎになっても仲間が来ない。もしかして、約束を間違えたのかもしれない。お目当てのホイリゲには次々と客が入っていくし、何時まで待っていても仕方がないので、先に入ることにした。門の中は庭に小さなテーブルが幾つも置かれている。入り口に近いテーブルに席を取り、白ワインを注文した。料理は家の中のショウ・ケースに色々並べられている。ロースト・ビーフ、ソーセージ、ザウワー・クラウツ、野菜サラダなどを買って席に戻った。サマー・タイムなので未だ陽は高い。我々の隣のテーブルには老夫婦が中学生くらいの年の孫娘と座っていた。ホイリゲに子供連れ?さすが子供にはワインでなく、ジョッキに入ったジュースが運ばれてきた。
ホイリゲの中庭
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庭の奥の方では、アコーデオンと12弦ギターのミュージシャンが陽気な音楽を奏でている。徐々に空も暮れて、ワインハウスらしい雰囲気が高まってきた。そうこうするうち、漸く我々の仲間(添乗員さんと2組のご夫婦)が到着した。我々の近くのテーブルはすでに埋まっていたので、彼らは庭の奥の方のテーブルに席と取った。
私も、ワインのお代わりで次は赤ワインを注文し、料理も追加を買ってきた。いい加減満腹し、酔いも回ってきた。ワインの料金を精算し、庭の奥に席を取った仲間の様子を見に伺うとかなり盛り上がっており、是非同席しろと言われた。宴会が決して嫌いでないのでついつい引き込まれ、そこで更にワインを1〜2のジョッキを飲まされた。こうなると、後のことは酔眼朦朧として記憶の彼方、撮ってきたヴィデオで何とか思い出せる程度である。

ホイリゲ”ベートーベン・ハウス”を出たのは何時頃であろうか。恐らく夜9時を過ぎていただろう、まだ空は夕方の名残があったように思う。少し南を走る通りに出て市バスに乗ったことは覚えている。次の記憶は、多分市電に乗り換えてホテルへ帰る途中のプラーター公園で下車し、観覧車に乗ったこと。
観覧車の乗車チケットを買って、いざ乗車しようとしたが何処で乗るのか何か迷路で出口を探すような感じで、皆で大騒ぎ。ようやっと乗り口を見つけ、一行7人が皆で乗り込んだ。観覧車は10数人乗れる大きさ、一緒に外国人のカップル(日本人から見て、ウィーン子だっかかもしれない)も乗り合わせた。さぞかし酔っ払いのうるさい日本人と思われたであろう。

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観覧車からは、ウィーンの中心街の赤々とした夜景が見える。どこかで打ち上げた花火が開くのが観覧車からは横に見える。反対のドナウ川方面(写真左)はさすがに明かりが少なくやや寂しい。
一周20分くらいで再び地上に戻った。まだ元気のある人達(添乗員さんと新婚旅行の男性、中年夫婦の奥さんの3人)が、もう一つ過激なアトラクションに乗りたいとチャレンジするのを見送った。やがて終わって、皆酒酔いも加わってかやや青ざめた顔で降りてきた。思わぬ夜のエンターテイメントで時を過ごし、夜11時頃にホテルに戻った。今日は実に長い一日であった。


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