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太平洋序曲NY公演・翻訳劇評1


THE NEW YORK TIMES(ニューヨーク・タイムズ)
2002年7月11日(木)

フェスティバル演劇評
日本人から見た醜いアメリカ人

ベン・ブラントリー

 突如目の前に現れた野蛮人達は、恐ろしげで正視するに耐えない。その野獣のごとき髪はゴルゴ一ンのそれのように荒々しく乱れ、その顔は異国のヒヒ猿の一種のように歪んでいる。少なくとも7フィートはある彼らの頭領は、悲劇的運命の化身を思わせるようにそびえ立つ。その国の住民たちは恐れおののいて逃げまどう---アメリカ人がやってきたのだ。

 エイブリーフィッシャーホールの真ん中を切りわける長さ60フィートの花道を力強く踏みしめて登場するこの略奪者たちの一団は、リンカーンセンターフェスティバル2002の一環として上演されている1976年初演のミュージカル「太平洋序曲」の見事なリバイバル作品中に現れるが、これは東京の新国立劇場のために宮本亜門が豊かな情熱と想像カを駆使して演出したものである。

このスティーブン・ソンドハイムとジョン・ワイドマンによる武力外交と文明開化についての寓話の中で、ペリー提督とその一行が日本に来航するシーンは、これまでも常に公演を中断させる拍手喝采の名場面だった。初演を見た人は今でも伝説的な舞台美術家ホリス・アロンソンがつくり上げた巨大な紙の龍の船を忘れられないだろう。

 しかし宮本氏とそのカンパニーは、このシーンのためにまったく独自の演劇的展開法を編み出しており、今回のこの場面もまた長らく人々の記憶に残るはずである。アメリカの戦艦は、はかなげであいまいな影の姿でしか登場しない。その代わり18世紀日本の版画からヒントを得てグロテスクに形式化された姿のアメリカ人たちは、目を刺すような光が瞬く中で劇場の天井に勢いよく広がるアメリカ国旗にその頭上を覆われる。

 ここに登場する星条旗は、最近アメリ力中にあふれ返っている同様のものとは異なり、自由ではなく息苦しさを表している。それはまるで1853年に神奈川にやってきたこれまでにない奇妙な人間たちによって、大空が日本人から取り上げられてしまったようにも見える。

「太平洋序曲」がハロルド・プリンスの豪華な歌舞伎スタイルの演出でウィンターガーデン劇場にて初めて上演された時、その大胆な芸術的冒険に対して批評家の多くは心を動かさなかった。その主な原因はアメリカ人が日本人の立場からものを見ようとしたことにあると指摘した人もいた。

二ューヨーク・タイムズでは、ウォルター・カー(Walter Kerr)が「特定の感情や文化的な趣旨持たない」作品であり、観客は「西側にも東側にも感情移入することができない」と評した。さらに、日本的な手法を模倣したアプローチについては「日本人にやらせた方がうまくできるのに、どうしてわざわざ彼等のやり方で作品をつくるのか」という疑問も提示した。宮本氏はカーのこの問いかけに隠れる暗黙の挑戦に応えて立ち上がり、言葉をはるかに超える形で「太平洋序曲」を解釈しなおした。(この公演は土曜日まで上演されている。上演は日本語で、ソンドハイム氏のオリジナル歌詞にほぼ忠実な字幕が付く)ミュージカルとしての形式やテーマは基本的に変わらない。変わったのはスケールとスタイルであり、それによって異なる世界が生み出されている。

 プリンス氏の作品の目を奪う壮麗さは(規模のやや小さい1984年のヨーク劇場でのリバイバル公演にも影響を及ぼしたものだが)排除され、スペクタル的要素よりも俳優たちに焦点を絞った、よりシンプルな手法が取り入れられている。この公演の特徴となっている伝統演劇の手法は絵画的な歌舞伎のものではなく、どちらかというと簡素でストイックな能のそれである。

 松井るみの神杜の鳥居を想わせるフレームの中では、空間を表現するために屏風が移動し、その中心にあるのは人間の心の動きであり、決してその心理的変化の原因となる歴史的事件ではない。作品におけるこの姿勢は、本質的に抽象的な内容に、ある種の温かみをもたらす結果となっている。ソンドハイム氏が「すべてはアイディアの問題だ」とコメントした点でもある。

それでもワイドマン氏の脚本は、人間の複雑さを描ききっているとは、やはりいい難いことは指摘しておかなければならない。中心的な二人の人物である万次郎(小鈴まさ記)と香山(本田修司)は、異なる身分の二人であり、それぞれ異なる形で西洋の影響を受けて変化してゆくことになるのであるが、彼等は象徴的なあり方から抜け出すことなく、公演中まるでチェスの駒のように様式化された存在に終始する。

とはいえ.親近感を持って惹き付けられる魅力的なポイントは随所に見られ、ソンドハイム氏の音楽の巧妙さと感情の豊かさを、改めて新鮮な形で受け取ることができる。この音楽の多くはミニマルなアレンジで7人のミュージシャンによって演奏され、東と西の感性の間に横たわる計算された緊張を鋭く表現している。

 万次郎と香山が旅路で俳句のやり取りをしながら友情を温める「Poems(俳句)」のシンプルな魅カが、これほど明確に描かれたことはなかった。これは母親に毒を盛られる退廃的な将軍を描く辛辣でコミカルな「Chysanthemum Tee(菊の花茶)」や、女将とそのお抱えの女郎たちが好色なアメリカ人水兵たちの来訪を期待する「Wellcome to Kanagawa (ウェルカム・トゥ・神奈川)」の魅力についても同様である。

麻咲梨乃の辛口の風刺が効いて儀式的な趣きもある振付を伴って、これらのミユージックナンバーにはくつろいだ雰囲気の中にも巧みな皮肉が含まれていて、Joan Littlewood(ジョーン・リトルウッド)のひょうきんで素朴な作品「Oh!What a Lovely War」を彷彿とさせる。話が進行する中で、まるでヴォードヴィル芸人的な堂々たるナレ一ター役の国本武春がつぼを押さえた注釈を加えている。

 この「太平洋序曲」のソンドハイムの歌詞は、いつもの複雑な難解さが軽減されているので、英語で歌われていないことで何かが足りないといったことはほぼ感じられない。唯一緻密につくり上げられた早口のナンバーであり、各国の司令官が不意に訪れて外交上の大騒ぎを繰り広げる冬「Please Hello(プリーズ・ハロー)」においてだけ、いわゆる翻訳の問題で何かが失われてしまった感がある。

 控えめな演出の都合で何曲かは短縮されているが、香山が西洋ヘと変化する見事なナンパーである「Bowler Hat(ボーラ・ハット)」もその一つである。その一方でクライマックスの「Next(ネクスト)」では、見事に再構成を行って内容を膨らませ、20世紀を駆け抜けた日本の姿を描いている。

第二次世界大戦における日本の軍事侵略と広島の原爆投下は(オリジナルでは触れられなかったが)共にすばらしい形で表現されている。そして原子爆弾の爆発の光の中、地面に崩れ落ちた俳優たちが立ち上がり、コンピューターの時代へ向けて機械的に踊り始め、テクノロジーの進歩の恩恵を描きはじめると、なんとも不安げで疑わしい世界が広がる。

自分の国に関するアメリカのミュージカルを解釈しなおすことによって、宮本氏とそのカンパニ―は二ューヨークに大いなる贈り物を授けてくれた。特に、国際的にアメリカ合衆国がどのように受け止められているのかを理解することが非常に重要な課題である今、筋肉隆々たるアメリカ人を、ひとときの間、異邦人として見てみる機会を与えてくれたのである。

 もちろん「太平洋序由」は、周知のごと
く、限定されかつゆがめられたある一つの側面を見せてくれるに過ぎない。このことはすばらしく洗練された形で演じられる「Someone in a Tree(木の上に誰か)」の中で知らされる。この魅惑的で暗示に満ちた曲は、日本とアメリカの代表が初めて面会した時の異なる立場を表現している。

ここで証言をする目撃者である木の上の少年と、この面会が行われた小屋を警備していた侍は、この歴史的瞬間の細切れの切れ端を提供するに過ぎない。「この日ではなくかけらを」と彼等は歌う。「海じゃなくて波を」

 見るものは常に部分的なものなのだと、この曲は歌う。記憶はいつだって不完全なのだ。それでも、それらのかけらを寄せ集めることはできる。この素晴らしい作品に寄せ集められて出来上がったものは、文化交流という名のモザイクに新たな次元の可能性を加えている。


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The Wall Street Journal(ウォール・ストリート・ジャーナル紙)
2002年7月17日

フェスティバルの外れた調ベ
リンカーンセンター、際どい時期を選んで受難を讃える作品を上演
文責:ハイジ・ウェイルソン(Heidi Waleson)
 
ニューヨーク

 今年のリンカーンセンター・フェスティバルの音楽劇のラインナップは、クロスカルチャー的な作品に力を入れているが、最初の3作品はそうした方針の結果たどり着く先を如実に表している。

 しかし、東京の新国立劇場が制作して日本で初演されたスティーブン・ソンドハイムの「太平洋序曲」は、相反する文化的要素を上手く翻訳することもできるのだということを証明してみせた。ぺリー提督によって19世紀に開国した日本を題材にした1976年初演のこのミュージカルのテーマは、決して分かりやすくはない。ペリーとその一行のアメリカ人たちは確かに大きく醜く異様な存在だったであろう。けれど250年間鎖国を続けた日本も楽園ではなかったはずである。そこでは堕落しきった将軍に、刀を振り回す侍たちが跋扈していた。ソンドハイムはこれら異なる文化の双方に対して疑問を提示し、その衝突を描き出すことによって人の心を揺り動かす名作を生み出したのである。

 このソンドハイムの作品はまた、宮本亜門の日本人的解釈を受け入れるだけの力を備えていた。宮本の演出はその文化的衝突の喜劇的側面と悲劇的側面の両方を適格にとらえ、字幕付きの日本語で上演されたにもかかわらず、アメリカ人の観客もその内容を確かに受け止めていた。宮本によるこの作品には能の伝統的手法が取り入れられ、神社を思わせるシンプルなセット、客席の中に伸びる花道、殺陣、飾り過ぎず無駄のない着物と髪型などが見られた。とはいえ、ドタバタしたおふざけ場面や幅広い演技の中に現代の日本を見ることもできる。そして最後のシーンで黒のタンクトッブとパンツを身につけたキャスト全員が踊り出した姿は、あたかもヒップな東京のクラブに通う少年たちのようでもあった作品中の見せ場としてはこの他にペリーが初めて登場する場面がある。巨大なアメリカ国旗がエイブリーフィッシャー・ホールの天井を勢いよく覆い尽くすのである。

 この作品の一番大切なテーマとその奥深い感覚は、ソンドハイムの繊細な音楽によって伝わってくるものなのだが、今回の公演では残念ながらこの音楽的な面が舞台の演出に追い付かなかったようである。ぎこちない形でアンプを通した小規模なバンドの音と音楽のアレンジは、薄っぺらだったり、濁って冴えなかったりをくり返していた。歌い手に関しては、将軍の母とロシア司令官を演じた佐山陽規を除いてやや力不足であった。

 とはいえ、武力を背景にした愛国主義と文化的島国根性を扱った「太平洋序曲」は、その芸術的な底力のおかげで、作品そのものが島国のように我々からかけ離れた他の2作品と比べて明らかに違った光を放っていた。この文脈の中では殊の外ソンドハイムの合理的な姿勢が一服の清涼剤のように感じられた。


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New York Post (ニューヨーク・ポスト)
2002.7.11

歓迎、東京の一座「太平洋序曲」
ドナルド・ライオンズ

 リンカーン・センター・フェスティバル2002は、ちょっと珍しい作品を上演している。日本に関するアメリカ製のミュージカルの日本バージョンである。
 ミュージカルのタイトルは「太平洋序曲」。1976年のブロードウェイの初演(作曲・作詩:スティーブン・ソンドハイム、台本:ジョン・ワイドマン、そしてハロルド・プリンスによる非常に様式化された歌舞伎スタイルの演出による)では、1853年の米国ペリー提督の東京湾への来襲と、日本幕府が野蛮人の侵略に対して恐れる様子が描かれていた。
 今回、日本の若い演出家、宮本亜門(日本のミュージカル「アイ・ガット・マーマン」の演出家としてアメリカのミュージカルシーンでは知られている)は、エイヴァリー・フィッシャー・ホールに自身のバージョンを持ってきた。
 すべて日本語で行われ、英語字幕が付く、新国立劇場による上演は、全ての点において、ブロードウェイのオリジナルをはるかに超えた。
 気取った異国趣味は姿を消し、代わってスタイルは鮮やかで、直接的である。能の様式を取り入れており、ほとんどの歌とせりふは男性による。セットは最小限であり、スペクタクル性に重点が置かれているのではなく、個人の対立〜主に二人の人間の間の〜に焦点が置かれている。
 万次郎(小鈴まさ記)は、アメリカを見てアメリカに敬服している漁師であり、香山(本田修二)は、西洋について無知であり、軽蔑している侍である。
 二人は、一方ではおろおろするばかりの将軍達と、他方では客席の中央に作られた花道を通って来襲する、化け物のようなかつらを付けて吠え立てるアメリカ人という、二つの権力に対抗するために結束する.この場面は、風刺を利かせて描かれている。
 しかし、やがて万次郎は西洋びいきの人間から攻撃的な国粋主義者へと変貌を遂げる。一方香山はその反対の道をたどり、二人は対立してゆく。
 一幕の方が良い。二幕は音楽的にも演劇的にも大きくあいまいな問題に迷い込んでしまう。宮本は新たに広島とエルビスに言及しているが、どちらも成功しているとは言い難い。
 しかしながら、この物語の核心〜徳川幕府が倒れ、産業主義を標榜する天皇が現れるという、ペリー来襲後の日本の重要な出来事〜は、驚くべきほど刺激的に描かれている。

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Daily News (デイリー・ニューズ)
2002.7.11

ソンドハイムの日本円
ハワード・カッセル著

 これまでずっと劇場を見てきたが、スティーブン・ソンドハイムとジョン・ワイドマンによる「太平洋序曲」以上に、革新的な舞台を見たことはない。「太平洋序曲」は、日本の舞台様式を使って、19世紀の日本の西洋化を舞台化した作品である。
 リンカーンセンター・フェスティバルの一環として、新国立劇場は日本語で歌われる本作をニューヨークへ持ってきた。もし、ハロルド・プリンスにより上演されたオリジナルが、西洋の目を通して見た日本だとすれば、土曜日まで上演される本作は、日本人の目を通して見た西洋人のイメージである。
 ボリス・アロンソンとフローレンス・クロッツのデザインによる"我々"のバージョンの日本は、荘厳なまでに美しかった。今回は、質実剛健な木製の舞台装置と、外国人が日本に侵略してくる時に渡る客席を覆う花道(これは通常客席として使っている場所に作っている)による簡素のものである。デザインのシンプルさは、西洋との接触は、初めは成功するが、最終的には自滅に追いやられるという物語自体を、より際立たせている。
 これは、演出家・宮本亜門に演劇的な要素が足りないということを言っているのではない。彼の演出の中で最も印象的な二つは、国旗に関連した場面である。ひとつは、ペリー提督が鎖国している日本に入国してくる時の星条旗であり、もう一つは西洋諸国が米国に続く場面である。
 宮本はまた、日本が西洋のやり方を懸命に真似ようとして、その結果、我々との戦争に至る最終場面で、圧倒的に素晴らしい場面を作り上げた。宮本は、あの戦争のクライマックスを詩的に伝える方法を見出した。
 わたしは、いつも「太平洋序曲」をソンドハイムの最も凝った曲だと考えているが、その情緒的な効果は、歌詞がどれだけ楽曲とうまく結びついているかで決まる。歌詞がそれ自身の力を与えることができないと(翻訳では不可能であるが)、音楽はその力とウィットの一部を失ってしまう。
 オリジナルと同様、特徴的な日本人の力強い男性的な声は、日本自身のドラマを作り上げた。
 ミュージカルは刺激的なものであり続けており、非常にオリジナルなものである。シンプルで緻密な本作は、ミュージカルの持つ本質的な力強さを証明している。

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