太平洋序曲NY公演・翻訳劇評2 |
Newsday_com 2002年7月12日 日本人を見る我々を見る日本人 東京の劇団によって鏡写しにされる「太平洋序曲」 文責:Linda Winer(リンダ・ワイナー)/スタッフライター |
劇 評 「太平洋序曲」東京新国立劇場による公演 英語字幕付きの日本語にて上演 作詞作曲:スティーブン・ソンドハイム/台本:ジョン・ワイドマン 演出:宮本亜門 リンカーンセンター・フェスティバル、エイブリーフィッシャーホールにて土曜まで 火曜日に観劇 |
文化観光産業の複雑な年代記の中にあって、この夏のリンカーンセンター・フェスティバルの一環としてエイブリーフィッシヤーホールで火曜日に初日を迎えた日本製の「太平洋序曲」と比較できるものはないかもしれない。 これまでの経過は次の通りである。1976年にステイーブン・ソンドハイムが事実とは思えない題材に熱中した勢いで、もっともブロードウェイらしくないミュージカルを上演。ジョン・ワイドマンが台本を担当したこの作品は、ペリー提督によって1853年に日本の通商航路が開通するという途方もなく遥か彼方の事件を、あたかも日本人の目を通して語られたかのように見せるというものだった。Hal Prince(ハル・プリンス)の演出は大きな劇場を使った派手で仰々しい歌舞伎的手法によるもので、何十人もの日本人男優が100を超える登場人物を演じ、音楽は東洋と西洋の楽器が混在するオーケストラによって演奏された。 この公演は非常に興味深い作品だったが、やや規模を縮小した1984年のオフ・オフ・ブロードウェイ公演の際は大仰さも控えめなものになっていた。しかし、この作品の持つ見事な音楽と政治に対する快い皮肉にもかかわらず、19世紀に行われたまったく異なるが控えめとはいい難い人々の中への天地を揺るがすような侵略に関するこれらの公演のアメリカン・エンターテインメント的解釈に対して、私たちは心の奥深くで居心地の悪さを感じずにはいられなかった。 そこで長く待ちわびた素晴らしい異文化交流の結果がワシントンのソンドハイム・フェスティバル(原文が間違っていました。実際はニューヨークのリンカーンセンター・フェスティバル)の一環である土曜日までの公演である。留まることを知らずに勇敢な演出家、宮本亜門と東京新国立劇場のおかげで、厳格な鎖国状態の中で平和かつ儀式を重んじる「浮島」であった日本への招かれざるペリーの来航に対して、日本人がどう思ったのかということに対する我々の考えに対する彼らの考えを知ることができるわけである。 この3時間に渡る美しい作品中、最初に指摘すべきことはスペクタクル的なインパクトである。とはいえ、今回のバージョンはアメリカ・バージョンに比べて遥かにエキゾチックな要素は少ないのだから、奇妙な話である。宮本は18才の時に日本のテレビでこの作品のブロードウェイ公演を初めて観たが、そのデザインは「とてもキッチュだった」とフェスティバルのブログラムの中で語っている。彼はそれを興味深いとは思ったが、「日本ではない」と感じた。 宮本の日本を表現するのは左右に穏やかに広がる白木の舞台と、上手下手に別れて高く浮かしたオーケストラである。そして花道が客席の中を通って舞台へと続いている。ペリーは高足を履いて巨大な軍服のコートを羽織り、大きな鼻のついた仮面を被った姿で観客の後方から現れ、野蛮人とされている人々のもとへ西洋文明を持ってやってくる。つまらない仕事は鼻の大きな手下たちが受け持つ。 ここで用いられているのは能、歌舞伎、文楽、そして浪曲を取り混ぜた様式だが、それは私たちが思っているよりも控えめな誇張表現を伴う演出法であり、ヴォーヴィル的ユーモアが多く含まれている。そして伝統に従って女役を演じる男優もいる。中でもソンドハイムによって思わずにやりとさせられる手強い「菊の花茶」において、衝撃を受けた廷臣たちが傲慢な否認を行う際に将軍の母を演じる佐山陽規は素晴らしい。一方欲の深い売春宿のパロディー・ソングである「ウェルカム・トゥ・神奈川」では、女優がいることによって芸者のしきたりを思わせる動きの片鱗を見ることができ、「プリティ・レディ」ではイギリス人水兵たちがお茶の席に間近に近づくと、様式化されることのない恐怖が表現される。 ストーリーは親近感を持つ形で明瞭に伝えられ、壮大な歴史物語というものではない。宮本はこれら外国の登場人物たちを愚かで人間味あふれ、時として巨大な存在となるリアルな人間として理解してもらいたいのである。ここで小鈴まさ記演じる万次郎(これも本田修司の間違い)は危険な権力に立ち向かう役を買って出る 身分の低い侍だが、痛烈なウィットに富んでいながら悲劇的な「ボーラ・ハット」の中で物質文明に魅せられていく。その対照的な存在として、西洋式の考え方から始め、経験を積むうちにその影響を恐れるようになる漁師を本田修司(小鈴まさ記の間違い)が演じる。 ソンドハイムによって形を変えて表現されているそれぞれの国の魅力的な音楽にのってフランス人にオランダ人、そしてイギリス人がやってきて利益を求める場面では、彼ら侵略者たちは恐ろしげな道化のカツラを被っている。また「木の上に誰か」はルンバリズムを使った曲で、ソンドハイムにとってもっとも個人的な作品として挙げられろことも多いが、爽やかで控えめな言葉で表現されている。 もちろん日本語のリズムに合うように手を入れたソンドハイムの歌詞は少々耳に馴染まないし、上の方にある字幕でそれを読むために舞台上の動きを見落としてしまうことは避けられない。ソンドハイムのファンの多くは、この形で「太平洋序曲」を記憶に焼きつけたいとは思わないだろう。間違いなくいえるのは、会話が多すぎるのに対して歌が少なすぎるということである。これは、自分たちの言葉であれば退屈な箇所とはならない問題ではある。さらに、時を追って日本と西洋の関係を最新の状況も含めて示す最後の部分では、多少扱いづらさを感じさせることになるかもしれない。この公演ではソンドハイムの許可を得た上で広島と長崎を表すストロボがたかれ、9月11日についても事実として触れられる。時を得た状況とはいえ、その唐突な文脈はなかなか受け入れ難い。 |
The Los Angeles Times(ロサンゼルス・タイムズ紙) カリフォルニア州ロサンゼルス 2002年7月15日 劇評:文化的に見事に調律された『太平洋序曲』 宮本亜門、ソンドハイムのミュージカルをシンプルに演出し、 より洗練された舞台を可能にする。 文責:マーク・スウェッド(Mark Swed) |
ニューヨーク 〜 二重否定の名人であるスティーブン・ソンドハイムの手にかかると、気のきいた風刺を伴って描かれる「そうでないもの」は、実は「そうである」ことを強調している場合が数多くある。というわけで、1853年のペリー提督による侵略から現代まで続く日本の西洋化を扱い、1976年に初演された『太平洋序曲』も、裏を読んでみれば実はアメリカ建国200年を瓢々と祝う作品であるという、ソンドハイム一流の理屈が成り立つことになる。醜いアメリカ人がもっと醜い日本人をつくってしまえば、我々アメリカ人もそう悪く見えないだろうというわけである。 しかし、『太平洋序曲』が初めて上演された時、その複雑極まる文化的多様性にブロードウェイは当惑を隠せなかった。それはハロルド・プリンスによる歌舞伎調の演出で、アメリカ人役を含むすべてのキャストはアジア人、そして日本の伝統演劇に習って男性が女性を演じ、音楽は日本の雅楽に多くの影響を受けていた。とはいえ、これらはすべて表面的な技工に過ぎない。 伴秦を伴わない尺八の鋭い調べは、すぐに甘く刺激的なハーモニーと辛辣で巧妙な言葉遊びに紛れてしまう。それは香り高いアジアンブレンドというよりは、唐突に登場する甘さと酸っぱさの入り交じったアメリカ風味である。俳句のやりとりをする時でさえ、ニューヨークのストリート・リズムを思わせるソンドハイムの歯切れのいいタイミングが生きている。 いや、少なくとも生きていた。今年のリンカーンセンター・フェスティバルではアジアと中近東の作品に力を入れているが、その一環として日本の『太平洋序曲』が5回上演され、土曜日に最終日を迎えた。これは東京の人気振付家であり演出家でもある宮本亜門の2年前の作品だが、日本語に翻訳したジョン・ワイドマンの台本とソンドハイムの歌詞を使用しているだけでなく、作品全体を徹底して日本的な感性で描いている。 宮本はプログラムのコメントの中で、日本人観客にとって受け入れ難かったのは『太平洋序曲』そのものではなく、プリンスのあまりにも壮麗な演出だったのだと説明している。そこで宮本が選んだのは、作品の骨子となっている一番底の部分まで掘り下げた上で、伝統的な能の洗練された手法を取り入れることだった。セットはシンブルかつ上品な木製の装置で、同じ木製の梁と柱に囲まれている(英語字幕はここに映される)。アメリカ人侵略者たちは、舞台からエイブリーフィッシャー・ホールの1階席の中へと伸びる花道を利用する。セットのてっぺんには、カ強く響きわたる音楽を演秦する7人のミュージシャンのアンサンブルが座る。 どこまでもつむじ曲がりなソンドハイムとはいえ、宮本が演出をしたこの作品に関してはピータ一・ブルックとジェローム・ロビンスを足して2で割ったようなものだと言って絶賛している。宮本のコンセプトは演劇的に素晴らしく、キャストの質も非常に高く、今日巷にあふれている特種効果だらけのお粗末なブロードウェイ・ミュージカルより遥かに洗練されている。しかしながら、この『太平洋序曲』を日本人の口に合うようにする過程で、宮本はアメリカ人を混乱させる新たな問題を生み出してもいる。 さまざまなものが意図されたようには見えないのである。歌詞はもはや音楽に合っていない。登場人物たちはペリー以前の無垢なまま鎖国された日本の姿を歌うが、ソンドハイムの音楽は管楽器とキーボード、そしてパーカッションに比重をおいた派手なアレンジを施され、どこにでも当てはまるインターナショナル・ポッブのように聞こえる。そして誰が歌っているのかを分からなくしてしまいがちなマイクの効果がそれに輪をかけている。 ペリー提督の一行は巨大な鼻のついた恐ろしげな仮面を被って、江戸時代の鬼であるかのように登場する。しかしペリーが持ち込んだ西洋化の気運は、結局公然と歓迎されることになる。とどまるところを知らない日本の発展を描いたエンディング・ナンバーの「NEXT」は、流れるような振付け(宮本のジェローム・ロビンス的側面が発揮されるところである)を伴う傑作であり、そのダンスは着々とエネルギーを蓄積しながら歴史上の一点から始まり広島を経由して現代に至るまでを突き進む(宮本はポケモンや9月11日にも触れて作品により今日的な味付けをしている)。このフィナーレの前奏曲として、ナレーター役の国本武春が伝統楽器の三味線をまるでバンジョーのように弾きこなし、息を飲ませる名場面を披露する。 この他にも宮本は多くの見せ場をつくっているし、キャストはそれぞれ1人数役をこなし、しなやかで上品な動きを見せる。これもまたブロードウェイにありがちな、ステロイドでも打ったような薄っぺらな力強さとはまるで異なっている。また、喜劇的な場面は宮本の得意とするところではないようだが、非常に上品に仕上がっている。 そうはいっても美しく様式化されたこの作品、ソンドハイムの最大の特徴である早口の二重構造をいかすには向いていないかもしれない。アメリカ人に続いてオランダ人、ロシア人、フランス人がやってきて日本に開国を迫る「プリーズ・ハロー」は、それぞれのお国柄の音楽の陽気なパロディ一なのだが、平坦なまま終わってしまっている。そして鋭く風刺をきかせて描かれるはずの日本人については、全体的に宮本の戸惑い気味の姿勢がうかがわれる。芸者たちはためらいがちに遊び戯れ(「ウェルカム・トゥ・神奈川」)、無能な将軍の(なんとその母親による)毒殺はウィットに欠けている(「菊の花茶」)。 けれど宮本が本当に求めているのは、単純にその作品の質の高さである。宮本は弱小国家の日本がアメリカ・バージョンよりも物質主義を徹底させるというシナリオを選ぶ代わりに、我々アメリカ人のゲームをもっと上手くこなせる日本人を持ち上げて見せる。西洋の観光客がすぐに気づく通り、本家本元のアメリカのものよりも、それの日本バージョンの方がいつだって優れているのである。 東京のスターバックスでカプチーノを頼んでみるといい。ニューヨークやその他の多くの場所で必ず出てくる焦臭くてミルク過剰な飲み物は間違っても出てこない。その代わりお茶の席でいただく一服の茶のように、心をこめて入れられた一杯を手にすることになる。それと同様に、この日本製の『太平洋序曲』も、その謂わんとしている内容に関わらず、心づかいの行ぎ届いたその様子に感心せずにはいられないのである。 |
The Village Voice (ビレッジボイス) 2002年7月17日〜23日号 マイケル・フェインゴールド(Michael Feingold)著 |
ここでひとつ話題を変えて、聞いてもらいたい話がある。何年も前のことだが、ブロードウェイというエキゾチックで不可解な場所で間違いが起こった。世界全体を日本人の目を通して見るという作品が、あたかも西洋の演劇であるかのように制作されたのである。その結果は、驚くことでもないが、美しい側面と惜しみなく手をかけた成果が数多く見られたにもかかわらず、作品としてはどことなく奇妙で説明過多、やや形式ばっていて共感しづらいものだった。そういうわけで長続きしなかった。もはや忘れられていたこの作品、やがてある日何とか日本へと帰り着き、その救出者たちは世にも驚くべき手当てを施したのであった。彼らはこの作品を再びブロードウェイへと連れてきて、その生誕の地からほんの数ブロック北にある文化の殿堂において再演を果たしたのである。そうしてやっとこの作品の違う顔が現れた。長旅の苦労のおかげで無駄を削ぎ落とした力強い質の高さを見せ、長年かけた変化の末、そこには時に生々しいほどの鮮やかな触感が生まれていた。そしてその喜びの中、それはすっかり羽を伸ばして少々耳障りな声を上げたりもした。とはいえ、それは新たに発見された文脈の中にすっかり溶け込んでいたので、腹を立てる人は誰もいなかった。 これが宮本亜門演出、東京の新国立劇場制作の「太平洋序曲」にまつわる話であるが、この作品はリンカーンセンター・フェスティバルの一環として上演されており、悲しいかなわずかな期間しか観ることができない。この公演が素晴らしいのは、それがHal Prince(ハル・プリンス)のオリジナル公演よりもはるかに良くできているからというわけではなく、然るべき自然な文脈の中に作品を置いた時に出てくる無理のないゆとりが感じられるからである。装置と衣装はかつてBoris Aronson(ボリス・アロンソン)とFlorence Klotz(フローレンス・クロッツ)が手掛けたものに比べたら、この上なく美しいとはいえないかもしれない。実際、彼らが製作したもの以上に豪華な作品が私の目に触れたことは未だにないのである。しかし、松井るみのカのあるセットとワダエミによる控えめなデザインの衣装は、外からのリサーチによって特別なデザインを施した不自然なものではなく、ある文化全体の中のビジュアル・センスによって自然に生み出されたという印象を与えた。ここで表現された自然さというのは、ある種の珍しさといった要素がなくなったことを補って余りあるものである。 演技と歌についても同様である。ちょうど神奈川の女将がその女郎たちに言い聞かせていることだが、最も古い日本の舞台の伝統と最も現代的な東京の間を無理なく自由に動くことに見事に成功しており、ブロードウェイ(訳注:Broadwayは直訳すると「幅の広い道」)を越える幅の広さを見せることさえある。それはまったくどこをとっても生き生きとしていた。何よりも気持ちよかったのは宮本の計算されたスピード感あふれる演出には解釈をしなおすという気難しさが感じられなかったことで、それはその必要がないことを彼が明らかに理解していたからであろう。宮本が唯一用意したビックリ箱は、1976年の初演の際に私を含む多くの人々の不満にもかかわらず省かれてしまった箇所を、賢くも挿入したことである。最後のナンバーである「ネクスト」の中で、オリジナル公演の時には故意に触れられることのなかった第二次世界大戦と広島に言及することを彼は忘れなかった(もっとも初演でもそれはソンドハイムの歌詞の中で抽象的に暗示されていたと言えないこともないかもしれないが)。そこでは9.11さえほのめかされている。この勇気ある姿勢は用心深いブロードウェイの通常のあり方と全く異なって非常に新鮮であり、ここでもこの作品の持つ本質的な日本的要素を垣問見せることになった。ブロードウェイがこぞって支持する嘘で固められた文化、それは間違いなくブッシュにチェイニー、エンロンやハリバートンも支持する文化だろうが、それとこの作品はどうしたって相容れないものなのだ。もちろん日本にも企業はあるが、どうやら宮本の豊かな感性にはまだ追い付いていないようである。彼の「太平洋序曲」、今度はワシントンに向かっている。これは非常にお勧めである。誰よりも民主党の方々にぜひ観ていただきたい。 |
デイリー・バラエティ紙ニューヨーク版(Daily Variety Gotham) 2002年7月15日 舞台:チャールズ・イッシャーウッド(Charles Isherwood)文責 (写真:リンカーンセンター・フェスティバルの幕を切って落とした ソンドハイムとワイドマンの「太平洋序曲」に登場する 小鈴まさ記(左)と本田修司) 太平洋序曲 (工イブリーフィッシャー・ホール;1.800席;〜$75) |
リンカーンセンター・フェスティバルによる東京新国立劇場制作の全2幕のミュージカル公演。作詞作曲:スティーブン・ソンドハイム、台本:ジョン・ワイドマン、捕足的題材の提供:ヒュー・ウィーラー。演出:宮本亜門、音楽監督:山下康介、振付:麻咲梨乃、指揮:西野淳、翻訳・訳詞:橋本邦彦、美術:松井るみ、衣装:ワダエミ、照明:中山安孝、音響:渡邊邦男、殺陣:谷明憲。2002年7月9日初日に観劇。上演時間:2時間15分。 出演:国本武春、越智則英、樋浦勉、佐山陽規、大島宇三郎、園岡新太郎、治田敦、広田勇司、さけもとあきら、小鈴まさ記、村上勧次郎、本田修司、斎藤桐人、岡田誠、原慎一郎、山本隆則、堂ノ脇恭子、粟田麗、春芳、山田麻由、石川剛。 リンカーンセンター・フェスティバルが提供する最初の舞台作品として火曜日の夜に幕を開けたスティーブン・ソンドハイムとジョン・ワイドマンの画期的ミュージカル「太平洋序曲」の日本版は、当初1976年にこの作品が扱った文化的衝突の顛末を、舞台の上、そして客席の中で巧妙に描き出していた。その観客の中に、伝統的な着物を身につけた上品な女性が片手に大きなエルメスのバッグをぶら下げているのを私は見つけた。一方演出家の宮本亜門によって舞台上に繰り広げられた豊かな世界は、ハロルド・ブリンスが演出したオリジナル公演によって賛美された伝統的な日本の舞台芸術よりも、ブロードウェイで確立している様式の影響をより多く受けているように思われた。 宮本が目指しているのはヴィジュアル的な華やかさではない。身体的な要素の多い彼のこの作品は、むしろシンプルであることを明らかな特徴としている。宮本自身、歌舞伎的な要素よりも能の手法を取り入れるようにしたと語っている。松井るみによる神社を思わせる木製のセットは、左右に動く飾りのない屏風を使って登場人物たちを登場させたり隠したりし、中心的な人物たちの個人的な物語から彼らを取り巻く歴史的事件への焦点の移り変わりを鮮やかに表現する。その他より工夫に満ちた宮本の舞台上の演出は、お金のかかる装置よりも豊かな想像力とl、2度閃光を放つ小意気な照明によって生み出されている。 上手いことに、この公演の一番の見せ場となっているのは1853年の日本にアメリカから巨大な悪者である船の一団がやってくる場面である。コミカルな姿のエイリアンたちの一行が客席の中に伸びる花道の上を舞台に向かって進んでゆくと同時に、頭上では巨大なアメリカ国旗が巡行ミサイルさながらのスピードで天井を覆い尽くす。シンプルではあるが非常に巧妙で説得力のある象徴的効果である。 ブロードウェイ的な活気は主として素材に対する俳優たちの大胆で奔放な姿勢から生まれている。彼らはソンドハイムとワイドマンがつくり出した特定の素材を嬉々としてまな板に載せ、風刺の範囲を超えるところまでそれらを押し広げる。例えば女将がそのお抱え女郎たちに町にやってくる新しい男たちのもてなし方を指導する「ウェルカム・トゥ・神奈川」において、どんなアメリカのカンパニーもこれほど抱腹絶倒な一団を描き出すことはできないだろうと思う。同様に、侵略者たちに怯えた人々が逃げまどう様子も、まるで「三ばか大将」の一話のように展開する。そして国本武春が愛すべき賑やかなコミック・スタイルで事の次第のナレーター役を務める。 麻咲梨乃の振付は西洋のミュージカル劇のスタンダードな様式を多く取り入れており、より洗練された、あるいは日本特有のとでもいうべき手法はあまり見られなかった。しかしその一方でパーカッションに重点をおいた演奏は、アジア的な味付けを強調したものだった。ソンドハイムの歌詞を聞く代わりに読まなくてはならないのは(本公演は日本語で上演され、舞台の上方に字幕が映される)時として残念に思われたが、こうして言葉が旋律から離れることによって新たな角度からこの作品の音楽の控えめな美しさを聞き取ることが可能になったのも事実である。 ハイライトとなったのは、ミュージカル史上最も優れた音楽による物語りとして挙げることのできる2つの曲である。歴史的事件が無名の目撃者によって聞き取られ、そのため歴史がつくられる過程において彼らの影響を受けざるを得ない側面を暗示している「木の上に誰か」と、衰えゆく文化の忘れ難い記録とその過程において派生するその国に生きる人々ヘの影響を描いた「ボーラ・ハット」がそれである。当然ながらこの作品の中で後者の場面は特に心動かされるところであり、本田修司演じる考え深く落ち着いた様子の香山の、かつて三流の武士であった身がその周りで起こる重大事件に運命を翻弄されて変化していく姿は、エイブリーフィッシャー・ホールの広大な空問の中にありながら言葉の壁を超えて琴線に触れるものがあった。なかなかの功績である。 |
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