東日本大震災発災から4年
〜南三陸町〜
平成26年2月3日(火)横浜市健康福祉総合センターで、「負けてたまるか!!震災との戦い」と題した講演会が開催されました。講師は社会福祉法人「南三陸町社会福祉協議会」事務局長の猪俣隆弘さん。
講演会場内様子
講演中の猪俣さん
2011年3月11日14時46分。1,000年に一度と言われた未曾有の東日本大震災が発災しました。その時猪俣さんは、老人クラブのイベント出席のため高野会館におり、終わりの挨拶の途中でした。屋上への避難は無理だ、と帰ろうとする人たちを仁王立ちで足止めし、屋上へと避難させ、327人の命を取り留めることができたそうです。
一方、防災庁舎で災害担当職員として、避難の呼びかけ、津波後の対応などのため情報収集他の実務を担当していた猪俣さんの妻は、庁舎の屋上のさらに上まで押し寄せた津波によって行方不明となり、現在も尚、行方不明者195名のお一人として確かな消息は分からないそうです。
「必ずしも行政の指定した防災拠点が安全とはいえませんよ。」と猪俣さん。本来安全であるはずの防災庁舎で行方不明となった身内がいる、という体験からでる言葉には説得力があります。実際に災害が起きたと想定する時、どの地域がどのような被害を受けるのか、自分の地域を知り、備えを考えておくことが必要です。
発災時風景 流された車
写真を洗うボランティア
某地元新聞社が「南三陸町災害ボランティアセンターはクローズ」という記事を掲載したそうです。宮城県内でボランティアセンターを運営しているのは南三陸だけになったため、そのような記事がでたのでしょうか。事実とは異なるそうです。
テント3つで町の体育館の駐車場を借りてのスタート。外部主体の運営から地元町民主体の運営に移行。商店街へフードコートの照明設置・暖房設備設置。漁業協同組合へ漁具の寄贈。農地の復旧事業開始他、復興に向けて活動を続けてきました。
今後は「災害」の文字を除き「ボランティアセンター」として現在の場所で活動を続けていくとのことです。「なぜなら復興していないから」と猪俣さん。
復興には20年、あるいは30年と言われた発災当時の状況を、多くの人は記憶の中の遠い出来事のように感じ始めているのかもしれません。仮設住宅に住んでいる人がいる、災害公営住宅入居はこれから、南三陸町の高台移転計画など、「町」が機能するためにはまだまだ時間がかかるのです。
復興には20年、あるいは30年と言われた発災当時の状況を、多くの人は記憶の中の遠い出来事のように感じ始めているのかもしれません。仮設住宅に住んでいる人がいる、災害公営住宅入居はこれから、南三陸町の高台移転計画など、「町」が機能するためにはまだまだ時間がかかるのです。