倭人伝の距離は「ピタゴラスの定理」でつくられた

 
みどころ

● 倭人伝の「里」は当時魏で用いられていた1里=435bでなく、1里=70〜100b程度の「短里」だとする説が多いが、「短里」などというものは存在しない。

● 倭人伝の距離は陳寿が「ピタゴラスの定理」で
 3:4:5 になるようにつくったもので、実距離とは関係がない。

● 韓国の方4千里は、郡から狗邪韓国7千里から「ピタゴラスの定理」でつくったものです。

● 末盧国から伊都国への「東南」「陸行」は地図(観念)上のことで、実際とは関係ない。


 
倭人伝の距離は実距離ではない

● 距離に関する説は二つに大別できる

 @ 郡使の出張報告に基づく実際の距離だとする説

 A 陰陽五行説などに基づいてつくられた観念上の距離だとする説

● わたしは「つくられたもの」と考えています。


「つくられた距離」だとする理由

 国の地形が方形とされ、実際の地形は考慮されていない。

 @対馬国=方400里、壱岐国=方300里とありますが、対馬島は南北70キロ。巾16キロ、4:1の細長い地形です。

 A対馬島と壱岐島の大きさの比率も実際は4:1です。

「里」の長さが統一されていない。

 @末盧国は唐津市、伊都国は前原市、奴国は春日市に比定されます。

 A 唐津市〜前原市は25キロ、と前原市〜春日市は30キロです。

 B 末盧国〜伊都国500里一里=50b、、伊都国〜奴国100里、一里=300bの説明ができません。

 C伊都国は郡使が滞在したところです。その両隣の距離測定に6倍もの大きな差が出るはずはありません。

韓国は南北400キロで方4千里だから一里=100b。

 @ 壱岐国は一辺16キロの方形を方300里だから一里=53b。

 A 壱岐国〜末盧国の千里は50〜60キロなので一里=50〜60b。

「短里」という尺度が存在したのであれば呼称を変えるはず。

  同じ「里」という呼称を用いて異なる長さを表すことはあり得ません。

「短里」が東夷あるいは倭で用いられた尺度単位だとする説もあります。

  自国文化に誇りを持つ中国官人が公式記録の中で東夷の単位を用いることもあり得ません。

「1万2千余里」は実際の距離とは考えられません。「遠い距離」を表現する虚数だと考えます。

 @『魏志』東夷伝の「鮮卑伝」の記事につぎのようにあります。

   【檀石槐は、元の凶奴の土地をまるまる我がものとし、東西1万2千里、南北は7千里にわたって、手中に収めた】

 A『漢書』西域伝の記事です。

   大宛国。長安を去ること1万2千5百50里

   ・烏弋山離国。長安を去ること1万2千200里

   安息国。長安を去ること1万1千600里

   大月氏国。長安を去ること1万1千600里

   康居国。長安を去ること1万2千300里

 距離の組み合わせが
3:4:5となること。このような数字はつくられていることが多い(詳細後述)。

 

「距離」はどのようにつくられたのか



 
陰陽五行説による創作ではない

● 松本清張氏は、「1万2千余里」は単に朝貢する外国との「遠い距離」を表現する虚数だとしています。

 そのほかの倭人伝にある距離も陳寿が陰陽五行説によって机上で創作した虚妄の数字だとしています。

 @ そのような距離ならば、なぜつくってまで記載したのかという説明が必要です。

 A 陰陽五行説は数字をつくる手段に過ぎず、つくった目的ではありません。

 B 東夷伝全体に距離が記載され、倭国だけ距離がわからないので陰陽五行説によってつくったというのなら話の筋が通ります。しかし、 距離の書かれているのは倭人伝だけなのです。

● 倭人伝の距離問題は、なぜ倭人伝にだけ距離か書かれたのかも重要なのです。


 
新説:「ピタゴラスの定理」による創作説
 

 陰陽五行説では3、5、7などの数字を使いますが、各数字を関連づけることはありません。

● 倭人伝の数字は3:4:5とセットでつくられています。下図をご覧ください。この3:4:5は陰陽五行説から出たものではありません。「ピタゴラスの定理」の3:4:5なのです。

  
● 下記の倭人伝行程図は、倭人伝の記載を基にわたしがつくりました。

● 陳寿もこのような地図をつくっていたと考えました。


 @ 【自郡至女王国万二千余里】の1万2千が
3+4+5です。

 A 1万2千里は狗邪韓国までの7千里と倭の5千里となります。

 B 7千里は3千里+4千里で、倭の周旋5千里につながり、3:4:5
になります。

 C 韓国の方4千里、倭地の周旋5千里、大海の3千里の組み合わせは3:4:5です。

    韓伝には方4千里以外距離は記載されません。郡から倭に行く道が韓国を通るので、方4千里を作ったのです。

 D 壱岐国の方300里、対馬国の方400里とありますが、方500里が見当たりません。

 方500里は末盧国・伊都国・奴国・不弥国の4ヵ国をまとめて一つの範囲として陳寿がつくりました。

 E Aで述べたように狗邪韓国までの七千里は3+4ですが、韓の方4千里はこの7千里からつくられました。

 7千里を3:4に分け3千里は直線の道、4千里は碁盤目のジグザグ道とし、それぞれを対角線とする方形をつくります。

● ピタゴラスの定理で計算すれば、前者が方2千100里、後者が方2千里となります。この二つを合わせた4千100里を韓の方四千里としたのです(詳細後述)。


 
陳寿とピタゴラスの定理

●「ピタゴラスの定理」は中国最古の数学書『九章算術』に載っています。陳寿は三世紀後半の人ですから「定理」を習得していてもおかしくありません。

『九章算術』は周から前漢時代に解かれた数学問題を紀元前二世紀から後一世紀ころに集成した書です。

● その第九章に勾股術として「ピタゴラスの定理」に関する問答が20ほど載っています。

  ・今有勾三尺、股四尺、問為弦幾何。答曰五尺】(問:短辺3メートル、長辺4メートルなら、斜辺は?答:5メートル)

  ・【勾股各自乗、并、而開方除之、即弦】(短辺と長辺の自乗の和は斜辺の自乗に等しい)

   (勾=鉤は直角三角形の短辺、股は長辺、弦は斜辺)

● 倭人伝の距離にピタゴラスの定理を知らなければつくり出せない数字を用いていることなどから、『九章算術』にある鉤股術をマスターしていたことは疑いありません。


 
3:4:5の詳細説明


 
倭の周旋5千里

●『後漢書』は邪馬台国までの距離を1万2千里と記しますが、女王国が最遠とはしていません。倭人伝は邪馬台国を女王国の南界として周旋5千里としています。5千里という数字がほしかったのです。

● また倭の5千里を海路3千里と陸路2千里としたのも韓の地と倭の地の間に大海3千里をつくりたかったのです。

● そして倭の周旋5千里と大海3千里に韓の方4千里を組み合わせて3:4:5をつくりました。


 
韓の方4千里は狗邪韓国までの7千里から
 
● 韓伝には方4千里以外距離は記載されません。郡から倭に行く道が韓国を通るので、方4千里を作ったのです。

● 倭人伝は帯方郡から狗邪韓国までの道のりを7千里とします。これは韓国の西と南の海岸を航行する距離だというのが定説になっていますが、韓国は方4千里です。4千里の二辺を行けば8千里になります。

● 陳寿は郡からみた倭国の位置は「東南大海中」としていますから、韓国方4千里の対角線を進むコースを考えたのです。

● 郡から狗邪韓国までは7千里は、方4千里の対角線を歩く距離だとすることを考えました。

● 方4千里の対角線は5千700里です。すべて階段状なら8千里になってしまいます。

● そこで、階段状の道と直線の道を組み合わせて、方4千里の対角線が7千里になるようにしました。

● 7千里のうち4千里は碁盤目を行くジグザグ道としました。一辺2千里の方形です。

● 残り3千里は直線的な道としました。方形は一辺2千100里の方形です。

 この二つを足した4千100里を方4千里としたのです。7千里が「陸行」になることに注目して下さい。

● 陳寿は狗邪韓国への行程を【歴韓国乍南乍東】と書いています。通常「乍〜乍〜」という表現は、上下・左右・東西・緩急・晴雨など反対の語を組み合わせて使います。南と東を組み合わせることはありません。

● 陳寿が普通では使わない東と南を組み合わせたのは、東南に向かってジグザグに進む有様を表現するためです。


 
末盧国〜不弥国の7百里も「定理」から

● 末盧国〜伊都国が500里、伊都国〜奴国は100里、奴国〜不弥国が100里、合計700里ですが、この700里は東南に延びていますから、南北を向く正方形の対角線になります。対角線が700里になる正方形は一辺が500里です。このように方500里は隠されているのです。(付図参照)

● この4ヵ国、方500里と壱岐国の方300里、対馬国の方400里と合わせて3:4:5
になります。

● 末盧国(唐津市)〜伊都国(前原市)は25キロ、伊都国から奴国(春日市)は30キロです。

● なぜ末盧国〜伊都国を500里としているのに、距離の長い伊都国から奴国を100里とするのか、すべて方500里をつくり出すためにつくりだすためのことで、実際の距離とは関係ありません。

 700里の計算でわかるように、距離は累積されています。榎一雄氏のいう放射状ではありません。

 また、末盧国から伊都国への方向「東南」について論議がありますが、末盧国から伊都国へはこの対角線を行くのだから「東南」になるのです。この方角は観念上のことで、末盧の海岸で日の出を見て決めた方角ではないのです。

● 末盧国から伊都国へ「陸行」するとなっていますが、これも前掲のような地図の上でのことだと思います。実際は伊都国まで「水行」していたのでしょう。


 
不弥国〜邪馬台国は√2千里

 不弥国まで1万700里になるから、残りは1千300余里というこになりますが、それでは面白くありません。

● 陳寿は全体の「1万2千余里」の「余里」を生かして、√2=1414里をイメージしていたのではないでしょうか。

 
 
投馬国について

●「水行二十日」とあるので投馬国は邪馬台国から遠く離れているとされますが、倭人伝の行程は道順に記されています。

● この順によれば、不弥国の次が投馬国で、その次が邪馬台国です。

● 地名を頼りにすると、妻郡とか三潴付近が有力ということになります。

● その推理を推し進めていけば、邪馬台国は山門郡ということになりますが、どうでしょうか。

● この問題は「水行十日」でとりあげます。


 
倭人伝にだけ距離が書かれた理由

● 陳寿が3:4:5にこだわるのは、かれが『九章算術』を読んで【今有勾三尺、股四尺、問為弦幾何?答五尺】の面白さによほど惹かれていたからでしょう。

● かれは倭人伝の編纂に際して【其大倭王居邪馬台国、楽浪郡徼、去其国、万二千里、去其西北界狗邪韓国、七千余里】(『後漢書』)という、原史料に書かれた数字「万二千里」が3:4:5という『九章算術』にある数字を含んでいるのに気づき、これから執筆する倭人伝の中で鉤股術(ピタゴラスの定理)を使ってみようと思い立ったのです。

● 元々「1万2千里(距離不明)」とされ、知る人も少ない倭であれば、いくら数字を作っても問題は起きないと考えたのかもしれません。完成した倭人伝を見る限り、陳寿は数字つくりを存分に楽しんだようです。

● 『三国志』東夷伝に採り上げた数多い国の中で、なぜ倭人伝だけ細かい距離か書かれているか、どうやらその理由は陳寿の「鉤股術好き」にあるといえそうです。陳寿は歴史家であるだけでなく、算術も大好きな知識人だったのです。

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