志賀島金印「委奴」の読み方

 
みどころ

● 金印に刻まれたの「漢委奴国王」の読み方は「漢のワのナの国王」ではない。

● 金印は「漢の委奴(イド)の国王」と読む。

●「委」はもとは「威」だった。

● 倭人は顔に入れ墨をしていたので怖い顔面の人「威面奴」と呼ばれた。


 
はじめに

● 志賀島から出土した「漢委奴国王」の金印の読み方は「委」を「倭」の略字だとして「漢のワのナの国王」と読むか、あるいは「漢のイト(伊都)国王」とするのが大勢のようです。

●「委奴」は小国の名ではありません。倭人伝に奴国とか伊都国という国名があるので、それとの結びつきを連想してしまうが、奴や伊都というのは一地方、それも小さな地方の国の名です。

● 中国が朝貢国に対して「国王」の称号を与えるのは一つの民族の統率者、あるいはこれに近いものと認めた場合です。奴や伊都という一地方の統率者に「国王」の印を与えることはありません。

● したがって「漢委奴国王」の「委奴」(あるいは「倭奴」)はあるひとつの民族を指す語だということになります。この「委奴」について推理してみます。


 
国名は中国が決めた

「委奴」というのは倭人が名乗った名ではなく、「匈奴」と同じように中国が周辺民族を呼ぶときの名だと考えています。

 中国は印に刻む都合もあったのか、朝貢国の名をそのまま漢字にするのではなく、その国名・民族名の一部を音訳した中国名を用います。アメリカ→亜米利加→米 と同じです。

● したがって金印に刻まれたのはあくまで中国が「委奴」と略して呼んだ民族の名です。この時代に倭人たちが自分たちを「倭族」としての統一的な名称を名乗ることもなかったでしょう。


「委奴」と「匈奴」

「委奴」の「委」という文字は稲の穂が垂れ下がる柔らかな姿を象ったとされ、おとなしいとか従順を示す語で、日本人にふさわしいとする論があります。「委」は「匈」の反対語で、西の「匈奴」に対して東の「委奴」とされたという見方です。

「委面」

「委」についてはもうひとつの見方ができます。『漢書』地理誌燕地条に【楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来たり献見すという】という有名な記事がありますが、この記事には三条の注があります。

 @【如淳曰く、墨の如く委面す。帯方の東南万里に在りと】(如淳は魏の人)

 A【臣贊曰く、倭は是れ国名、墨を用いてするを謂わず、故(もと)これを委と謂うなりと】(贊は西晋の人)

 B【師古曰く、如淳云う、墨の如く委面すと、蓋し委字に音するのみ 以下略】(顔師古は五八一〜六四五年の人)


「委」は「威」だった

『漢書』の注は、「倭」は古くは「委」で、さらにその「委」は「委面」からきたといいます。加えて【委字に音するのみ】といいますから、「委」が字本来の「すなお」という意味でなく、単に音を借りただけというのです。では「委」とされる前の字はどのような字で、どのような意味なのでしょうか。

● わたしは「委」の元の字は「威」だと推定しています。「委」と「威」の音は〔wei〕で共通します。

「威」はいかめしい、おどすといった、「委」とは逆の意を持つ語です。諸橋漢和辞典によると【意符は女で、戌(転音イ)は、おどす意を表す。(威の)原義は、一家の権力を握っている女、しゅうとめを表し、畏(イ)と通じて、おどす意に用いる】とあります。

● この義にしたがえば【墨の如く委面す】というのは顔面に施された濃い入れ墨が人をおどかすことで、「委面」は「威面」のことだと推定されるのです。

 倭人伝に【男子は大小となく、皆黥面文身す】とありますから、倭人は身体だけでなく顔にも入れ墨をしてことが知られます。倭人伝では【後やや以て飾りとなす】としますが、永初のころにはまだ大魚(鮫だろう)などの害を避ける実用で、もっとどぎついものだったのかもしれません。

 この顔の入れ墨から倭人は「威面」あるいは「威面奴」と呼ばれていたのです。

 金印を下賜した光武帝のころには、まだ「威奴」「威面奴」と呼ばれていたと推定されます。帝が金印を作らせるとき、「威面」では東夷の名としては立派すぎてふさわしくないということで、卑字を用いるのと同じ考え方から、音は同じで意味としては反対になる「委」を用いて「委面」としたのではないでしょうか。

 このように倭人は従順だから「委」とされたのでなく「委面」=「威面」、顔にこわい入れ墨をしている民ということから付けられた名なのです。

● のち「委」が「倭」とされるようになったことから「委面」が「倭面」「倭面土国」(『翰苑』『通典』、土は奴に通じる)などと書かれるようになったのです。したがって「倭面土」を「ヤマト」と読むことはあり得ないのです。


「漢のイドの国王」

● したがって金印は「漢の委奴(イド)の国王」と読むのが正しいのです。


 
伊都は「委奴」から付けられた

「伊都」という国名ですが、この名を金印の時代から名乗っていたか疑問に思っています。

● 倭人伝に記された国の名は、ヌ(野)、シマ(島)、ヤマト(山門)、オカ(岡)といった縄文以来と思われる地形語が多い中でイトは例外です。

 元々は「シマ」に対して「ヤマ(山)」とでもいっていたのが「漢委奴国王」の印綬をもらったので、その「ヤマ」を「イト」に改称したのではないかと考えています。定説とは逆の考え方です。


「狗奴」は「クド」

「狗奴」も匈奴(キョウド)・委奴(イド)と同じように考えるとわかりやすいと思います。

「狗奴」は「クマ」を音写したとされますが、中国の名前の作り方からすると「クマ」の一字「ク」をとって「狗」とし、それに匈奴・委奴と同じように「奴」を付けて「狗奴」、日本式に読むなら「クド」としたと考えています。

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