卑弥呼は邪馬台国の女王ではない

 
みどころ

● 
卑弥呼は倭国の女王だが、邪馬台国女王ではない。邪馬台国の王は別にいた。

● 倭国は鉄の輸入を独占するカルテルだった。

● 卑弥呼の役割は、神の言葉でカルテルの利益を公平に分けることだった。

●「倭国大乱」はなかった。倭人伝のいう「倭国乱」は仲間げんかだった。


 
はじめに

● 「邪馬台国女王卑弥呼」という呼び名はなんの疑いもなく、広くつかわれているようです。

● その論に立ち向かうのは非常におこがましいというより恐ろしさを覚えますが、「推理」を旗印に掲げる以上、推理の結論から逃げるわけにはいきません。

● 暴論といわれるかもしれないが、理屈のうえで卑弥呼は邪馬台国女王ではない。その理屈を一度聞いてください。

 なお、倭人伝の読み下しと現代語訳は石原道博編訳『中国正史日本伝』(岩波文庫)をつかわせていただきました。


 言葉の定義

● 言葉が混乱しそうなので二、三言葉の定義をしておきます。

● 倭人伝の伝える三十国は同盟体を作っていたようですから、これら三十国をまとめて呼ぶときは「倭国」ということにします。そして倭国を束ねる王は「大王」とします。

●「邪馬台国」は伊都国・奴国などと同様、あくまで三十国の中の一国を指します。

● その三十国が、なにかをきっかけに《相攻伐すること歴年》という状況になったというのですから、政治的にはそれぞれが独立しており、当然各国にはそれぞれ王がいたとみられます。その王は「小王」と呼ぶことにします。


 
問題の提起

● 卑弥呼は《相攻伐すること歴年》という戦乱を収めるため「共に立てて」女王とされたのですから、倭国の「大王」であったことは疑いありません。

● 一方「邪馬台国女王卑弥呼」というのは邪馬台国の「小王」としての呼称です。通常の場合、卑弥呼は倭国女王として呼ぶのですから、この点だけからいっても「邪馬台国女王」という肩書きは誤りです。

● わたしが問題にしているのは、卑弥呼が「大王」であると同時に邪馬台国の「小王」も兼任していたかということです。そのことは邪馬台国が倭国同盟の盟主だったかという問題に通じています。

● 倭人伝では卑弥呼を倭王と呼び、邪馬台国女王とはいいません。卑弥呼は魏王が倭王と認めたのですから当然です。

● 倭人伝は邪馬台国を《女王の都する処》というし、『後漢書』も《大倭王は邪馬台国に居る》としています。邪馬台国を女王が統治するなら、そこに都があるのは当然のことなのに、わざわざ《女王の都する処》というのはどのような意味があるのでしょうか。


 
倭国「大王」

● 倭人伝には《その国、本また男子を以て王となし、とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という》とあります。ここにある《その国》は邪馬台国などでなく、同盟体としての「倭国」です。

● また《男子を以て王となし》という「王」が伊都国王や奴国王といった「小王」でなく倭国の「大王」を指すこともあきらかです。

● この「大王」ですが、経団連や経済同友会といった現代の経済団体のトップが、構成メンバー各社の会長や社長などから選ばれるように、いずれかの国の「小王」あるいはその経験者が推されて「大王」を務めていたと推定されますが、これが団体運営では普通の形です。わたしは伊都国王だったと推定していますが、これついては後で触れます。

● その後任として卑弥呼が選ばれました。経済団体の長が、会社のトップ経験者であるように、倭王となった卑弥呼は邪馬台国の「小王」を経験していたかということになりますが、卑弥呼が「大王」に推挙された事情からみると、卑弥呼は「小王」経験者ではないし、邪馬台国は卑弥呼の出身母体ではないようです。


 
邪馬台国「小王」は卑弥呼とは別の人物

●「小王」は例外なく世襲です。したがって卑弥呼が「大王」になってから邪馬台国の「小王」を兼務したとすれば、彼女は「小王」の王女であり、王位継承資格者だったことになります。

● しかし、卑弥呼は《鬼道につかえ、妖を以て衆を惑わし》ていたというのですから、女王になる前はどこの国かわからないが市井にあって人気と信頼をあつめていた巫女だったのです。

● 王位継承資格者である王女が《年長大》になるまで、市井で巫女をしていたとは思えません。卑弥呼は王女ではなかったと判断されます。

● また卑弥呼は《夫婿なし》と伝えられますが、世襲の王なら必ず子孫を残そうとします。どこの馬の骨ともわからない少女を養女にして、王位継承者とすることなど思いもよらないことです。この点からも卑弥呼は「小王」失格です。

● 卑弥呼は戦乱収拾のため推されて「大王」となったのですが、三十国が《相攻伐》するという戦乱当時、卑弥呼は市井で巫女をしていたのですから、邪馬台国の「小王」は卑弥呼以外の人物だったのはいうまでもないことです。

● 戦乱が収拾して卑弥呼が邪馬台国の「小王」になるには、それまで国を率いてきた「小王」を退位させなければならないことになりますが、自分の身内でもないよそ者に突然譲位しろというのですから、「小王」は当然拒否します。

● 三十国のうち邪馬台国の「小王」だけがその地位を追われるような停戦協議が成立するはずもありません。

● 卑弥呼が三十国の「大王」になることは戦乱を収拾する方策として決められたことですが、邪馬台国の「小王」になる理由はないし、三十国のなかでなぜ邪馬台国が選ばれたのかもわかりません。

● 倭国の「大王」卑弥呼は「小王」たちの合議によって選ばれたのですが、邪馬台国の「小王」を他国の王たちの合議で決めるなどということはあり得ません。「小王」は世襲で、その廃立は他国が口出しできることではないのです。

● このように、卑弥呼が倭国の「大王」になってからも、邪馬台国の「小王」は卑弥呼でない別人物だったと判断せざるを得ません。

● 卑弥呼は倭国の「大王」であっても邪馬台国の「小王」ではなかったのです。したがってどのような場合であれ、卑弥呼を「邪馬台国女王」と呼ぶことは誤りといえます。

● 卑弥呼と邪馬台国の関係は、現代の天皇が東京に皇居を構えているように、政略的な観点から宮処を邪馬台国に置いていただけで、邪馬台国には倭王卑弥呼と邪馬台国王二つの宮殿が建てられていたのです。


 
卑弥呼の役割

● 魏の王が「親魏倭王」と厚遇し、倭人伝なども「女王国」として特別視するのをみると、女性の国王というのはよほど珍しいことだったのです。

● 卑弥呼は「小王」としての経験がないどころか、政治には全く無縁の巫女です。このような経歴の「大王」卑弥呼は一体なにをするための王だったのでしょうか。社長経験はおろか出身会社も持たない女性がいきなり経済団体の長になるようなものですから、そのような人になにができるのか心配になるのはわたしだけではないでしょう。

● 卑弥呼については巫女であること、女王になったら戦いが止んだこと、魏王から「親魏倭王」の金印をもらったこと、径百歩の大きな冢に葬られたことなどかなり詳しく伝えられていますが、女王としての卑弥呼の姿は《王となりしより以来、見る有る者少なく》ということで、国家経営には素人の彼女がなにをするために女王とされたのか、なにをしていたのかまったくわかりません。それでいながら、亡くなった途端に戦いがはじまるのです。倭国女王としての卑弥呼の実像を推理してみましょう。


 
戦乱は仲間喧嘩

● もともと倭国「大王」は男子で、それが七、八十年続いたとされます。年数からみて三代くらいは男子の「大王」の下で三十国が平和に暮らしていたのです。

● 三代目の老害からか、あるいは四代目のできが悪かったのか(多分後者でしょう。後述)、大王のいうことに各国が承服しなくなり《相攻伐》する状況になってしまったのです。

● そこで担ぎ出されたのが市井で《鬼道につかえ、妖を以て衆を惑わして》いた卑弥呼です。倭人は占いを好んでいたようですから、卑弥呼は「当たる」と人気の高い占い師だったのでしょう。

● しかし、担ぎ出された理由が《妖を以て衆を惑わす》能力にあったとは思われません。

● その登場で《歴年続いた》戦乱がピタリと収まったのです。卑弥呼ばかりではありません。臺與のときも同じことが起きていますから卑弥呼の個人的能力によるのではなく、「巫女」であることが選ばれた理由であることはあきらかです。

● 卑弥呼や臺與といった巫女を「大王」に立てる理由は戦乱の原因と関係しているのでしょうが、戦乱そのものが「鬼道」に関係するとも思えません。そんなことで三十もの国が《歴年相攻伐》することは、いくら古代でもないでしょう。

● 戦乱の原因ですが、卑弥呼が大王になると収まったことや戦乱によって同盟から離脱する国がないこと、何十年も経っているのに卑弥呼が死んだら同じようなことが起きていることなどから、社会構造的なことに起因するものではなく、たとえば何らかの「パイ」の配分をめぐってというように、もっと世俗的・現実的な仲間うちの喧嘩だったのではないかと推測しています。


 
倭国は鉄輸入のカルテル

● もめごとの原因となる「パイ」は一体何だったのでしょうか。魏や郡、朝鮮各国からの贈り物も「パイ」のひとつです。朝貢に必要な費用の負担や朝貢貿易による利益など、朝貢ひとつとっても「パイ」はいろいろありますから、その配分をめぐって小さな争いが起きることは避けられないことです。しかしその程度のことで何年にもわたって戦を続けることも考えられません。

● わたしは鉄の輸入をめぐってのことではないかと考えています。戦略物資であり、農業生産にも大きな影響を与える鉄は全て半島からの輸入に頼っていましたが、弥生時代の墳墓などから出土した鉄器の量は九州地区が飛び抜けて多いのです。下表を見てください。遠くになるに従ってだんだん少なくなるのではありません。あきらかに九州から外に出す量をコントロールしていたとしか思えない分布状況です。

 表 弥生時代の鉄器出土の地域分布
地域 鉄族 鉄剣・鉄戈など 鉄族と
鉄剣の比
出土数 比% 出土数 比%
九州1 485 22 169 39 35
九州2 683 31 32
九州計 1168 53 201 46 17
日本海 465 21 132 31 28
瀬戸内 363 16 29
中 部 19
関 東 159 63 15
合 計 2174 100 432 100 100

 
凡例

  九州1  福岡、佐賀、長崎
  九州2  熊本、大分、宮崎、鹿児島
  日本海  山口、島根、鳥取、兵庫、京都、福井、石川、新潟
  瀬戸内  四国4県、広島、岡山、大阪、和歌山、奈良、滋賀
  中 部  三重、岐阜、愛知、静岡、山梨
  関 東  長野、群馬、栃木、埼玉、東京、神奈川、千葉、茨城

  資料は川越哲志編『弥生時代鉄器総覧』 広島大学考古学研究室  2000年による。

● 倭国は半島から列島に至る唯一のルートである狗邪韓国〜対馬国〜壱岐国〜末盧国を押さえる地の利を生かして、鉄素材を独占するために結成された経済同盟だと推定しています。

● 鉄そのものの配分や、輸入を独占することによって得られた利益の配分がうまくいっているうちは平和が続いたのですが、なにかをきっかけに不平が爆発したのが《歴年相攻伐》ではないかと考えています。

● 倭国は力による統合というより、鉄の独占輸入と、その購入対価とするための倭国特産品調達の集中管理を目的とする経済的結合体という色合いが強かったので、利益に反することがあれば「相攻伐」するようになる素地は元々あったと思われます。

● したがって鉄輸入の独占による利益を三十国に公平に行き渡るように切り分けるのが大王の最も重要な仕事だったのです。七、八十年平和がつづいたときの大王はこの切り分けが上手だったのですが、次の大王は自国や取り巻きの国に有利になるよう計らうなど、不公平な切り分けをし、それへの不満が《倭国乱》につながったのでしょう。


 
巫女は神の意志の取り次ぎ役

● 戦乱終結のためには「小王」による和平会議が開かれたことでしょう。その会議で不公平な切り分けをした「大王」が罷免され(注)、諸国の合意によって市井の人気巫女卑弥呼が新しい「大王」として選ばれたのです。

● なぜ巫女だったのでしょうか。

● 巫女は神と交信できる能力を持ちます。巫女である卑弥呼が語る言葉は神の言葉であり、卑弥呼の決めた配分は神の意志であるからそれには誰も反対できないとされたのです。それが卑弥呼(臺與も)という巫女を「大王」とした最大の理由です。人間のおこなう配分は信用されなかったのです。

● しかし卑弥呼がいくら巫女だといっても人間(各国)側からの働きかけに全く無縁ではいられません。地獄の沙汰もカネ次第、神もお賽銭次第なのは古代もおなじです。卑弥呼は大王になった途端、外部との接触を一切断ちます。

●《王となりしより以来、見るある者少なく》ただひとりの男子のみが近づけるようにしているのは、いろいろな働きかけを遮断すると同時に、影響されていないことを形として示すためです。

● また、「大王」の宮処が、倭国の中心の伊都国や奴国でなく、当時としては片田舎の邪馬台国とされたのも、それまで「大王」を出していた伊都国や奴国といった大国の影響が及びにくいよう和平会議で決められたことです。

● 邪馬台国は人口も多く力はあっても、あまり武力をひけらかさない、どちらかというと中立的な農業国で、ことによると和平会議も邪馬台国「小王」の提唱で開かれたのかも知れません。

● そうしたことから「大王」となった卑弥呼を庇護するだけでなく、疑わしい接触がないよう監視する役目も任されたのでしょう。

● このように邪馬台国は卑弥呼の現住所・寄留地であって本籍・本拠地ではありません。したがって、卑弥呼の住む邪馬台国を倭国連盟の盟主とする根拠もありません。


 
卑弥呼の役割は限定的

● 卑弥呼は倭国に君臨する女王というイメージで語られますが、外交の顔としての機能は別にして、市井にあった巫女に突然経営のトップが務まるものではありません。

● 倭国同盟の象徴として、配分をめぐる戦いが再び起きないように、公平な分配を神の言葉として伝えるという限られた職務をこなす存在だったとする方が実像に近いと思います。

● このように限られた機能であれば、巫女である卑弥呼が突然「大王」とされても何ら不思議でもなく、また《見る有る者少なく》ても支障なく運営できたでしょう。勿論臺與が十三歳で「大王」とされたときも同様です。

● なお、魏から贈られた鏡の配分先について多くの論がみられますが、鏡を配るのはお土産の分配で、「小王」との結びつきを深めたりする政治的配慮に基づくものではありません。配分はあくまで「神」の意志によるのです。女王が手元に置いて、倭国以外の地域の王との外交に用いるなどということは、あったとしてもごくわずかだったと思います。

 
注 二度罷免された「大王」
想像を一つ。出来が悪いと罷免された「大王」は年若かったのでしょう。卑弥呼が死んだ後に立った王というのは、一度罷免されたこのときの王だったと想像しています。復位はしたものの「やっぱりダメ」ということで臺與に替えられたのです。

 
 
卑弥呼の前任倭王は伊都王   《世有王皆統属女王国》 従来の読み方は誤り

● わたしは七、八十年つづいた「大王」というのは伊都の「小王」だと推定しています。

● 伊都国の紹介に《世有王皆統属女王国》とあって、大方は《世々王あるも、皆女王国に統属す》と読み下していますが、わたしは「世々王あり。皆女王国を統属す」と読むべきだと考えています。理由は三つあります。

〔理由1〕

● 定説の読み方では《世有王》は伊都国の「小王」ということになりますが、倭人伝が「王」とするのは魏王が認めた「国王」、このページでいう「大王」に限られます。例をあげておきます。なお「行」は南宋紹熙本の行数です。

 @《世有王皆統属女王国》       十四行目
 A《王遣使詣京都帯方郡諸韓国》   六十一行目
 B《其国本亦男子為王住七八十年》  六十五行目
 C《共立一女子為王名曰卑弥呼》   六十六行目
 D《倭王因使上表答謝詔恩》      九十三行目
 E《其四年倭王復遣使》         九十三行目
 F《倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和》  九十七行目
 G《卑弥呼以死(中略)更立男王国中不服》      百一行目
 H《復立卑弥呼宗女臺與年十三為王国中遂定》   百三行目

● 倭人伝が「王」と記すのはこの九例ですが、A〜Hが「大王」を示すのはあきらかえすから、@だけ「小王」を指すとは考えられません。

●《世有王皆統属女王国》の「王」を「大王」だとすれば《世々王あるも、皆女王国に統属す》と読むのは、統治する「大王」が統治される一員になるという矛盾が生じてしまいます。

〔理由2〕

● 倭人伝が三十国のなかで伊都国だけ王のことを記しますが、「小王」がいて女王国に属しているのは各国すべて同じで、伊都国だけが特別にそうだったわけではありません。伊都国の紹介に《世有王》と特記されたのは、伊都国王が「大王」だったからです。

〔理由3〕

● 三つ目は「統属」という言葉です。

●《世々王あるも、皆女王国に統属す》と読むのであれば「統属」と「属」は同じ意味の言葉だということになりますが、わたしには「統属」と「属」が同じ意味とは思えないのです。

●「統」は統一、統治などのように物事を一つにまとめるという使役的な意味が強い言葉です。「属」には「集める」という意味もありますから「人・国などを統べ集める」というように「統属」は「統べる」に力点がある言葉(他動詞)であって単なる「属す」(自動詞)とは意味が異なると考えています。

●《世有王皆統属女王国》を「世々王はあったが、皆女王国(倭国)に従属した」と読むのと「世々の王は皆女王国を統属した(代々の王は皆倭国のまとめ役だった)」と読むのでは全く逆の意味になってしまいます。

● 三十の国は同盟を結んだとはいえ独立した国ですからこれらの国々をまとめるのは統治とは異なります。「統属」はこうした女王国の実情を的確に表現する言葉といえ、このように解釈すれば《その国、本また男子を以て王(大王)となし、とどまること七、八十年》とある「大王」は伊都国出身だったことがあきらかになります。


 
倭国官人の役割

●《女王国以北特置一大率検察諸国畏憚之常治伊都国於国中有如刺吏王遣使詣京都(中略)皆臨津捜露伝送文書賜遺物詣女王不得差錯》

● ここに出てくる一大率や大倭といった役人は一体なにをするのでしょうか。一大率はなぜ《女王国の北の国》だけを検察するのでしょうか。各国はこの検察を《畏憚する》といいますが、なにを畏れているのでしょうか。
いつも思うのですが、こういった問題になると先生方は「だんまり」を決め込んでしまいます。

● しかし、卑弥呼の役割や、役人がなにをしていたのか、仮説を立てて解明していかなければ、当時の社会構造をあきらかにすることはできません。「大倭」の名について「ヤマト」が派遣したなどというらちもない論議をするより、なぜ市の監視をするのかを論議すべきと思います。

 
公平を守るためのシステム

● 前述したように卑弥呼に求められたのは鬼神を祀ることでなく、「利益配分」という世俗のことを神の言葉として伝えることです。

● 一方、「利益配分」をもめないようにおこなうためには「利益」を生むためのシステムの外で「利益」が横取りされないようにすることが重要です。

● 鉄やその対価とするための特産品の流通経路を一本化して管理しても、抜け駆け外交や密貿易あるいは横流しなど、不公平につながる種はいろいろあります。それらの監視をおこなうのもモメゴト防止役としての「大王」に課せられた仕事です。

● 一大率や刺吏のごとき役人、市を見張る大倭などはこうした監視をおこなうため女王の指揮下に置かれた「倭国の役人」だったと考えることで倭国女王の行政機能がはっきりします。

 
一大率

● 一大率がとくに女王国から北の国だけを検察対象としたのはそこが海に面した東西の交易ルートにあたるからであり、《諸国これを畏憚》したのはヤミ取引の摘発を恐れたからでしょう。

● 各国は政治的には独立していましたから、各国内のことに倭国から口出しすることは許されないし、倭国の側にもそうした力はなかったでしょう。女王が監視するのは女王に課せられた職務「(鉄の独占的流通による)利益の公平な分配」を維持するためであり、そのための権限として各国から認められていたのです。

 
刺吏

●《国中に於いて刺吏のごときあり》とある「刺吏のごとき役人」の役目ですが、「刺吏」とは「郡国を刺挙し、その政績を奏報する官」と注にありますから、日本流にいうなら目付です。大名(「小王」)の権限に属することには口出しできませんが、全体の利益にかかわるとなれば放置しません。こうした役人が三十国全体に監視の目を光らせていたのです。

 
津での臨検役

● つづく《王、使いを遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使するや、みな津に臨みて捜露し、文書・賜遺のものを伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず》という仕事を担当するのは「刺吏」とは別の役人で、この役人は単に「大王」に関係するものだけでなく、「小王」が抜け駆け的に個別の贈り物をすることなどにも目を光らせていたのでしょう。

● そのほか、鉄をはじめとする輸入品、あるいは郡などへの贈り物や鉄購入の交換物資とする特産品の密輸出も見張る税関のような権限も持っていたと推測されます。

● この仕事を一大率のものとする論を散見しますが、「女王国より北の国」を担当する一大率と、「国中」を担当する刺吏のごとき役人と「津で捜露する」役人とは仕事の場所や内容がまったく異なっています。

●「津で捜露する」のなら、郡使や女王の遣使など公式の船だけを臨検しても効果はありません。常時見張っていなければなりません。末盧の港を出入りする船は多かったとみられますが、それらの船が出入りするたびに伊都から駆けつけるのでは仕事になりません。末盧国に常駐するのが当然です。

● 三者は別々の役人と考えるのが妥当と考えます。

 
大倭

● 国々の市を見張る「大倭」ですが、交易税を徴収する役人で、派遣したのは各国の「小王」とする説(橋本増吉)もありますが、租税は「戸」や「人数」「土地面積」など課税基準がつかみやすい制度とするのがふつうです。物々交換では売り上げに応じてということもできません。

● また、「小王」が独自に派遣する役人の名が「大倭」として統一されていることになりますが、大官の名が各国でいろいろ異なっているにも拘わらず、市の管理をする小役人の名が統一されているとするのは不自然です。

●「大倭」は、「一大率」や「刺吏のごとき役人」が国々を監視しているのと連携して、鉄製品や特産品の市での流通を監視するために女王が各国に派遣した倭国の役人だと推定しています。


 「倭国大乱」はなかった

● 卑弥呼が女王とされるきっかけになった「倭国大乱」とはどのようなものだったか検討しておきます。これは卑弥呼の役割につらなることです。

● 倭人伝は《その国、本また男子を以て王となし、とどまること七、八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年》とするが、『後漢書』は《倭国大乱》、『隋書』も《桓・霊之間其国大乱》としており、このことから倭では列島規模の戦乱が起きていたとする説が一般的です。

● しかし、「倭国乱れ」を「大乱」とするのは疑問があります。その時期についても『後漢書』が桓・霊の間(147〜186年)とし、『梁書』『北史』が霊帝光和中(178〜183年)としていますが、卑弥呼の年齢からみて《倭国乱》は半世紀以上後の三世紀前半中頃のことと推定されます。

● 九州で発掘された戦闘によるとみられる死者の墓は100例ほどあっても、時期的には北九州に鉄の普及が進んだとみられる紀元前二世紀から前一世紀、遅くても紀元後一世紀で、倭国の乱の時代といわれる二世紀後半になるとこうした戦乱を示す考古史料は少なくなってしまう(佐原真)といわれます。、考古資料の面からは二世紀後半を動乱の時代とするのは疑問です。

● もし倭国大乱の原因が朝鮮半島動乱の影響だったり、農業生産の増大による社会構造の変化によるようなものであれば、卑弥呼を立てたからといってピタリと収まることはないでしょう。『魏志』の伝える《倭国乱》は社会的変動の影響を受けたものでなく、あくまで仲間うちでの喧嘩に過ぎないとみられます。

● 喧嘩をしたからといって 倭国が分裂するわけではなし、喧嘩が終わればまた元の鞘に納まっています。卑弥呼が就任してから何十年も経っているのに卑弥呼が死んだら、また同じことを繰り返しているのも仲間うちの喧嘩であることの明証です。

● この「倭国乱」を、列島を揺るがす大規模な戦乱と捉えることは戦いの本質を見誤るだけでなく、卑弥呼の果たした役割を正しく理解できないことになります。

● 卑弥呼の役目はジャンヌダルクよろしく戦いの先頭に立つことではないし、戦乱の調停役でもありません。仲間うちで起きるもめごとのタネをなくし、戦乱を未然に防ぐのが役目です。倭国が乱れたのは鉄カルテルの利益配分をめぐる内輪もめに過ぎず、戦乱を嫌って倭国同盟から出て行くことはそれ以上の損失をもたらしたからこそ、仲間割れを起こすこともなかったのです。

● 想像ですが、伊都国と奴国は仲が悪かったと思います。隣り合った両雄がならび立つのはなかなかむずかしいものです。

● 伊都国に大王職を奪われ、大陸への道を扼されている奴国ですが、那の津からのルートを使って壱岐国と対馬国を抱き込めれば自分の天下になるのでしょうが、そうなっては末盧国と伊都国は生きていけなくなります。

● 末盧国が半島との交易基地とされたのは、伊都国に良港がなかったのではなく、末盧国への利益配分の意味が大きかったのではないでしょうか。末盧国は対馬海峡の制海権を握っており、その力を使って交易をめぐる権益構造の一角に食い込んだのです。

● 伊都と奴、隣り合った両国のせめぎ合いは熾烈なものだったでしょう。伊都国出身の「大王」が若干でも奴国に有利な配分を心掛けているうちは良いのですが、ちょっとでも伊都国側に有利な配分をおこなえば、奴国の鬱積が爆発します。その両国にそれぞれシンパの国がくっつき、《相攻伐》することになったのが《倭国乱》です。


 
卑弥呼の女王就任時期

●《倭国乱》と卑弥呼の女王就任とは連続しています。女王就任の時期から「倭国大乱」の時期を推理してみます。

 @ 卑弥呼の死亡は二四七年としておきます。

 A 就任したとき、《年既に長大》とありますが、年長大とはいったい幾つくらいなのでしょうか。『蜀志』『呉志』には、二十五歳、あるいは三十四歳の人物に「長大」という言葉を使っている例があるそうですから一応三十歳として推理を進めます。

 臺與が就任したとき十三歳だったので、卑弥呼のときも十歳台の若い女性だったとも考えられますが、臺與は卑弥呼という前例があり、それがうまく機能したので年若くても受け入れられたのだと思います。卑弥呼の場合は前任が男王であり、女王は前例がなく、また卑弥呼はどの国の「小王」でもありません。巫女としてよほどの実績があり、分別のある女性とみなされていなければ、女王には推挙されなかっただろうと思います。

 B 倭国が乱れたのは《男王が七、八十年続いた後》とあるだけで時期は不明です。卑弥呼就任の直前の数年としかわかりません。

 C 239年に卑弥呼の名で魏に遣使しているのですから、就任はそれ以前です。

 D 巫女としての跡継ぎを考え卑弥呼が臺與を宗女としたのはひどく老齢になってからではないでしょう。また臺與も赤子ではなかったでしょう。卑弥呼五十歳、臺與八歳としておきます。臺與が女王に推されたのは十三歳のときですから、卑弥呼が亡くなったのは五十五歳となります(卑弥呼が死んだあとの乱は一年以内に収まったとして)。

 E 上記の前提にしたがえば卑弥呼は193年生まれ、女王になったのは222年となります。したがって倭国の内乱は220年前後のことで、「桓・霊の間」や「霊帝光和中」というのは半世紀以上時期がずれています。

 F「倭国大乱」は「桓・霊の間」に楽浪郡周辺で起きた動乱と「倭国乱」を結びつけた『後漢書』や『隋書』編者の作文ではないでしょうか。その時期倭国は男王の下で平和に過ごしていたのです。

 G 通説のように180年ころ卑弥呼が就任したとすると、少なくとも70年ほど「大王」を務めたことになります。臺與と同じ十三歳で就任したとしても八十歳を越えます。そして臺與を宗女としたとき、卑弥呼は七十歳なかばを超えていたことになりますから、後継者を迎える年齢としては高齢に過ぎます。


 
おわりに

● 上に述べたような卑弥呼女王と倭国の関係は、邪馬台国大和論からすれば、受け入れられるものではないでしょう。しかし、九州から畿内大和に及ぶ広域国家連合を考えた場合、卑弥呼の役割をどのように捉えるのでしょうか。また、同じ同盟だったとすれば、瀬戸内海地方には鉄がほとんど供給されていない事実をどのように説明するのでしょうか。

● 卑弥呼が邪馬台国の「小王」でないとし、邪馬台国が倭国同盟の盟主でないとするわたしの論は、邪馬台国東遷論にも影響するでしょう。邪馬台国は倭国の盟主ではありませんし、「大王」臺與を連れて行くことはできません。臺與は九州に居てこそ「大王」なのです。

● 卑弥呼と邪馬台国との関係をみると、卑弥呼の墓所ははたして邪馬台国なのだろうかと考えてしまいます。どこかわからないが故郷の地だったのかもしれないし、あるいは市井で活躍した町だったのかもしれません。

● しかし、庶民の中で生きようとしていながら、心ならずも隔離された世界に閉じこもり、「神の御名の下」に「分け前の調整」というもっとも世俗的なことを生涯続けざるを得なかった卑弥呼にしてみれば、その世俗にまみれた地、邪馬台国がもっともふさわしい墓所だったのかもしれない、と思ったりします。。

● その冢は径百余歩、徇葬された奴婢百余人と伝えられますが、百余歩、百余人というのは陳寿の潤色で、もっとささやかなものだった方が卑弥呼にふさわしい気がします。

●「親魏倭王」の印綬は魏国が滅びたとき、臺與の手によって密かに卑弥呼の冢に埋納されたのでしょう。


 
参考文献
  三国志/今鷹真・小南一郎訳/ちくま学芸文庫/1993年
  中国正史日本伝(1)/石原道博編訳/岩波文庫/1985年
  邪馬台国/平野邦雄編/〈古代を考える〉シリーズ/吉川弘文館/1998年
  邪馬台国と高天の原伝承/安本美典/勉成出版/2004年
  邪馬台国論考/橋本増吉/平凡社東洋文庫/1997年

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