韓国内「水行」の非常識を正す

 
みどころ

● 郡から狗邪韓国まで「水行」するというのが定説です。しかしそれは常識外れです。

● 【歴韓国乍南乍東】を正しく読めば「陸行」したことがわかります。

● 韓国は陸路が発達し、西海岸の海路は発達していません。


 はじめに


● 倭人伝の「道里」は「ピタゴラスの定理」によってつくられたという仮説をたててみました。
 
● 倭人伝に出てくるのは国の名だけで具体的地名を欠いていますからコースが特定できません。

●「道里」がつくられたものだとしても、郡と倭国の間に往き来があったのは事実です。
● だとすればそのコースはどうだったのか、やはり気になります。

● ここではコース前半の郡から狗邪韓国まで、実際のコースを探求してみることにします。後半の狗邪韓国から末盧国については「邪馬台国」をご覧ください。


 
常識的なコースを考える


 
常識では考えられない「水行」

●《倭人は帯方の東南大海の中に住む。郡から倭にゆくには、海岸にしたがって水行し、韓国をへて、あるいは南へあるいは東へ、その北岸の狗邪韓国にゆくのに七千余里。はじめて一海をわたること千余里で対馬国に着く》

●『魏志』倭人伝の書き出しです。倭の位置と、帯方郡治から倭に至る道筋が簡潔に記述されています。

● 郡治の位置はソウル付近(開城)と黄海道鳳山郡付近の二説ありますが、いずれも韓国の西北ですからコースを考える上では問題にしないでよいでしょう。

● 郡を出た船は韓国の西海岸に沿って南下し、南西端を回り込んで東南端、つまり郡治から見て四角形の対角に当たる狗邪韓国(現在の釜山西方金海のあたりとされる)に至って、そこから倭の地に向けて大海を渡るというのが定説です。

● 邪馬台国論には非常識と思える説がいくつもありますが、その中でも韓国「水行」説は最悪のものと考えています。以下に述べるように「水行」しなければならない理由は何ひとつ見出せません。

 @ 陸上に道がないわけではありません。韓国は陸路が発達しやすい地形です。すでに一世紀のころ、弁韓の小国が楽浪郡に季節毎に詣っていたと弁辰伝にあるし、弁韓の鉄を郡に供給していたとされますから、郡と韓諸国との間には頻繁な往来があったのです。

 A また、半島のすみずみまで日用品を背負って歩く行商人褓負商(ボブサン)は三国時代には既に存在したといわれますから、細いながらも村から村をつなぐ道はつづいていただけでなく、宿泊などのインフラも当時からある程度整備されていたと考えられます。

 B 陸路なら五百キロで済むところを海路は八百キロ以上とかなりの遠回りになります。陸路があるのに遠回りしてまで危険な「海行」を撰ぶのは理に反します。

 C まして郡の役人は「南船北馬」でいう「北馬」の人です。騎馬を好む人が、遠回りしてまで船をつかうでしょうか。それも川下りではなく、海です。

 D 他国への使者は贈り物を損傷なく届けることが最大の責務です。陸より数倍危険の多い海はできるだけ避けるのが常識です。


 E 韓国は郡が統治する国です。訪倭の旅であっても道すがら諸国との情報交換など仕事ができます。ただ海岸を通過するだけでは無駄になります。


 
合理的なルートを考える

● 大勢の人が繰り返しおこなう「交通」は合理的なものです。いうならばごく常識的なものです。そこで倭人伝から一旦離れ、魏王の代理として詔書と印綬を届けるという重要な使命を帯びた使者梯儁の立場になって、最も合理的と思われる路を考えてみます。

● 倭人伝当時の韓国内交通路の史料はありませんが、人の足でつくられた道は最短路を通り、労力も少なく、危険も少ないところを選ぶなど、非常に合理的にできています。現在の道もほとんどが古代の道と同じ所を通っています。

● 韓国の地形や現代の交通路、都市や港の所在地などから古代交通路を推定しても大きな誤りはないと思います。



 ルート選びの基本的な考え

● 郡から倭国まで詔書と印綬という重要な品を届ける旅程を計画するに当たっての基本的な考え方を想定してみました。

 @ 魏王から託された詔書と印綬が女王卑弥呼以外の手に渡ることは絶対にあってはならないことです。失ったり盗賊に奪われるようなことがあれば、郡太守のクビが飛びます。安全の確保が第一条件です。

 A 難破すれば全滅のおそれがある「水行」は極力避けることにします。陸路で行ける狗邪韓国までは韓国を「陸行」します。海路に比べ距離もはるかに短く、日数もかかりません。日数が短いことは安全に通じます。

 B 陸路は漢江・南漢江に沿って上流に向かい、小白山脈の鳥嶺を越えて洛東江上流に出て、これを南下するか、あるいは、現在の京釜鉄道と同じ路を行く二つのルートがありますが、警備の点からみて平野部が続く京釜鉄道ルートの方が優れています。鳥嶺越えルートは山間部を通るので、警備に不安があります。

 C 盗賊対策として、狗邪韓国までの警備は郡の兵を増強して対応することにします。陸行であれば人数に制約はありませんが、大部隊になれば各国に警戒心を抱かせることになるので、通過する各国に、国内通行中の警備兵を提供するよう要請します。

 D 狗邪韓国から倭に行くには「水行」は不可避です。倭へ渡航する船と警備兵は倭に要請します。地理はいうに及ばず、天候判断、航海技術、どれをとっても倭人の方が優れているでしょう。


 
具体的な交通路

● 陸行のルートは郡治の所在地によって若干異なりますが、郡治の候補地はいずれもソウルの西北になり、韓国内の通行には条件が同じになるので、帯方郡の郡治はソウル付近(開城)と想定しておきます。

 @ 韓国内を陸行するには、郡治開城から船で礼成江を下り京畿湾を仁川付近まで「水行」し、その後は前述の京釜鉄道ルートをとるのが一般的とみられます。

 A 開城から陸路で仁川方面に行くには、臨津江、漢江と続けざまに大河を渡らなければならないので、「水行」してこれを避ける意味がありますが、京畿湾は内海とはいっても海です。また、漢江河口付近は堆積土砂が浅瀬を成しており、加えてこの海域は潮の干満差が非常に大きいそうです。仁川付近で大潮の時は九bに達するといわれますが、このことは潮の流れが速いことを意味します。潮流がもっとも強いときには三ノット以上、場所によっては八ノットもある(海上保安庁水路誌)ので小型船の航行はかなり危険だとされます。

 B 通常の使者なら、「水行」を採るのでしょうが、梯儁は魏王の詔書と倭国王印綬というかけがえのない品を預かるのですから「海」と途中で一泊する危険は無視できません。警備の兵が多くなれば、船の調達や小島での宿泊にも問題が出てきます。したがって梯儁の場合は海上「水行」しないで、臨津江、漢江を渡り、京釜鉄道ルートを採ったと推定しています。


● 以上見てきたように合理的あるいは常識的といえるのは「陸行」であることが明らかになりました。郡使も合理的な路を採っているはずです。


 
倭人伝を読み直す

● 定説が「水行」としているその理由はいうまでもなく「倭人伝にそう書いてある」からでしょう。しかし、本当にそう書いてあるのでしょうか。


 
倭人伝の書き出しは粗略

●《従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里》

● この記事は短いのですが多くの問題を提供しています。《循海岸水行》はどこまでか、《歴韓国乍南乍東》するのは海上か陸上か、そして《到る其北岸》とはどこの「北」岸か、さらには《狗邪韓国》は倭国なのか韓の一国なのか、などなど、わずか二十八字しかないのに問題の羅列です。


《乍南乍東》すれば《循海岸水行》できない

● 問題は《従郡至倭循海岸水行》の解釈です。

● 郡治が開城であればまず船に乗ると考えられますから《循海岸水行》という記述に適合します。しかしこの《循海岸水行》を狗邪韓国まで続けるという解釈が問題です。次の《歴韓国乍南乍東》で矛盾を来してしまいます。

●「乍〜乍〜」という言葉は、「たちまち〜、たちまち〜」という、ある動作や状態を小刻みに繰り返す意味の熟語です。漢和辞典の用例でも「乍雨乍晴」「乍寒乍熱」など反対の語を組み合わせてつかうのが普通で、倭人伝のように「南と東」とを組み合わせることはありません。

● 朝鮮西海岸は正しく南北を向いていますから、この海岸に沿って南下する船が海岸に立ち寄ったり、進む方向があちこちに曲がるのなら「乍東乍西」とか「乍左乍右」とするはずで、南下するとき《乍南乍東》すれば陸に上がってしまいます。

● また西海岸を南下するのであれば、南は本来進む方向ですから「乍南」という表現はあり得ません。「乍南乍北」したら前に進まなくなってしまいます。従来の「水行」説は《乍南乍東》を正しく読んでいないのです。

●陳寿は七千里のうち四千里は階段状の道をジグザグに進んだと考え、方四千里をつくりだしたと「ピタゴラス」で述べましたが、これを文章で表現したのが《歴韓国乍南乍東》で、陳寿が通常は使わない「南」と「東」の組み合わせを用いた理由です。


《北岸》は「北(西北)界」の誤り

● つぎの問題は《到其北岸》ですが、南東に進んで北岸に到達することはあり得ません。《到其北岸狗邪韓国》を「倭の北の対岸の狗邪韓国に到着した」などと無理に読もうとするのは混乱を招くだけです。

● わたしは、倭人伝の《其北岸》は《其北界》の誤りだと考えています。それは『後漢書』倭伝に《大倭王は邪馬台国に居る。楽浪郡の境は、その国を去ること一万二千里、その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里》とあるからです。ここにははっきりと狗邪韓国が「倭国の西北界」だと記してあります。

● また陳寿は国の場所を記述する場合「北岸」というような地形を示す言葉は他では使っていません。対馬国といっても北端なのか、中央部なのか南端なのかによって距離は大きく異なるにも拘わらず、ただ《対馬国に至る》とだけして北端とか南端といった場所は記しません。狗邪韓国だけ「北岸」という地形を示す言葉となっていますが、「西北界」という位置関係を示す言葉の方が適切であり、他の記述ともレベルが合うと思います。



 
韓国内の交通路について


「水行」は距離が長い

● 韓国は平行四辺形なので、北西角の江華島から南西角の珍島先端までが四百キロ、江華島から釜山までの対角線が同じ四百キロです。したがって江華島から釜山までの距離を「水行」と「陸行」で比較すると、珍島から釜山まで南海岸を行く三百キロまるまる「水行」が長くなります。



 陸行のルート

● ソウルと釜山を結ぶ陸路の一つは漢江(南漢江)に沿って遡り、忠州から鳥嶺あるいは梨花嶺を越えて洛東江上流の聞慶あたりに出て、後は洛東江に沿って金海平野に向かいます。

● もう一つは現在京釜鉄道の走るルートで、ソウルから南下して錦江上流に出て、東の秋風嶺を越えて洛東江中流の亀尾付近で前記のルートと合流し、そこから南下して釜山方面に達するもので、一九〇五年に開通した全長四百四十二キロのこの鉄路は百年経た現在でも韓国第一と第二の都市を結ぶ大動脈であり、高速道路や高速鉄道もこのルートを通っています。

● 昔からの鉄道は古い町々をつないでいます。古い町は古代からの街道に沿って形成されたので、鉄道の通る路は古代の道と重なります。

● 韓国は四角い地形で、この対角線の両端にソウルと釜山という大都市があります。この両市が最短距離の陸路で結ばれていることは、これを大動脈として他の地域とも陸路で結ばれていることが容易に想定できます。

● 現在の大都市を見ても海岸に立地するのは釜山を中心とした半島の南東部に集中し、その他の地域では北西角の仁川市、南西角の木浦市、西岸中央部錦江河口の群山市などわずかです。

● ソウルはじめ光州市、大田市、大邱市など現在特別市あるいは広域市とされる大都市のほとんどが内陸に立地し、日本でいうなら、奈良、京都を中心とした姿を思い浮かべるとよいでしょう。


 
西海岸の海路は発達していない

● 海路ですが、現代の産業資料によれば西海岸には塩田が非常に沢山あります。漢江河口付近から南西端の珍島を回り、南岸の高興半島まで、いたるところに塩田があります。現地を実見していないので推定になりますが、塩田が多いことは砂浜であることと、汐の干満が大きいことを示しており、これは船着き場としてはありがたくない条件です。

● もしそうであれば西海岸は沿岸航行に不可欠な港が少ないことになり、航路としては成り立ちにくいことになります。さらに潮の干満が大きいことは潮流(潮の満ち干にともなう流れで、六時間ごとに逆方向に流れる)が速くなることを示しています。遠沢氏によれば半島西南端の珍島の鳴羊水道では大潮時には八〜十ノット、小潮でも四〜六ノットといいますから、夜間の航行はおろか昼間でも潮の流れの速いときは航行不能となる速さです。


 
交通環境

 
旅の安全について

● 韓国は山の標高が低く、日本のように峻険な山地を辿る道は少ないので、交通の安全を考えれば、陸路が絶対に有利なことは論じるまでもないので割愛します。



 インフラ

●「交通」には、宿泊や食料補給、牛馬の提供など旅人を支えるインフラの存在が欠かせません。

● 陸路は一般の旅人があるし、一日の行程も大きくはバラつかないので宿泊地も自ずと絞られ、比較的整備が進みやすいものです。

● 他方の海路ですが、当時の船は山を目当てに航行するので、景色の見えない夜間は上陸して過ごしたといわれます。景色が見えないだけでなく船上での炊事や宿泊はできないのも理由のひとつとされます。

● 上陸した時には水や食料の補給も欠かせませんが、海岸ならどこでも船を寄せて水や食料の補給を受けたり泊まれるというものではありません。

● また悪天候が続けば数日間の停泊を余儀なくされることもあります。突然の寄港でも、あるいは数日の停泊でも食料や水、宿舎の提供ができる基地(港)があってはじめて航路といえるのです。

● 当時の船は急いでも一日に五〜六十キロしか進めないので、このような港が最低でも十数箇所、船は天候などで毎日一定の距離を進めるとは限らないので、おそらく倍以上の港が必要となるのですが、港は利用頻度が高くなければ維持していくことができません。海上交通とはいっても手漕ぎ船では近在との往来が主で、補給を必要とするような長旅をする船はほとんどなかったと考えられますが、いつ来るかわからない郡との往来使だけをあてにしていたのでは維持できないのは明らかです。


 


● 郡から倭国まで船で行くとしたら、船や乗組員はどのように調達したのでしょうか。「北馬」の民ですから、魏京と帯方郡との交通は陸路が主だったと思います。黄海を横断するとしても内海です。

● 倭国に行くには外洋航海に耐える船と外洋航海術を持つ船員が必要ですが、郡としてはいつ使うか分からないものを常備することはないでしょう。しかし、必要になったからといって、簡単に調達できるものでもありません。

● 簡単で確実なのは現地調達です。

● 対馬や壱岐の島民は生活のため南北に市糴していたのですから、狗邪韓国まで陸路で行けば倭国への渡航に適した船と船員をチャーターすることは容易だったでしょう。チャーターした船なら、倭国に着いたら帰りまで待たせておく必要はありません。帰りの日を指定して迎えに来てもらえばよいのです。



 
陸行・水行の速度と所要日数

● 唐の公式令は「行程は、歩及び驢は五十里(一里=五百六十b、二十八キロ)」としていますが、これは軍の装備と食料を持っての移動です。食料の携行は旅程に大きな影響を与えます。

● 帯方郡の郡使が、朝貢国である韓国内を旅行するのですから食料や宿舎の心配は要りません。したがってさほどの重装備とは考えられないので、一日に三十キロ程度は進めたとみています(東海道を歩く旅人も一日八里―三十二キロが無理のない距離としている)。

● 勿論、実際に歩行するだけなら一日三十キロくらいですが、長旅ですし、途中、通過する国の情報収集や交流などを含めると、その七割の平均二十キロくらいと推定しています。

● 海流や潮流、あるいは風や波によって大きな影響を受ける「水行」の速度はむずかしい。丸木船の速度は3ノット/時、一日12時間として約70キロとする説(遠沢葆氏)もありますが、短時日ならともかく、連日これを続けるのは体力的にむずかしそうです。

● ことに朝鮮半島沿岸は潮流が速いので、小舟の航行は汐の動きの少ない満潮と干潮の前後だけと時間帯が限られ、さらに夜間は危険が伴うので、航行できないという制約が大きいので、平均的には一日二十〜三十キロ程度になってしまいそうです。

● 一日二十キロで韓国西海岸をまわれば、狗邪韓国まで天候待ちの日を除いても四十日以上かかることになります。陸路を行けば同じ一日二十キロとしても二十五日くらいで歩けますから、これだけをとっても「水行」は非現実的であることがわかります。

● 郡治と狗邪韓国を結ぶ陸行コースを以下のように想定して、所要日数を計算してみました。

 @ コース

   郡治・開城―[水行]―安山―[以後陸行]―天安―大田―秋風嶺―金泉―大邱―金海 

 A 距離・所要日数

 開城から安山まで水行九十キロ、安山から南東に陸路をとって分水嶺の秋風嶺まで二百二十キロ、そこから亀尾まで四十キロ、残りの百六十五キロは洛東江の水運も使えます。下るときなら歩行の二〜三倍の速さになります。

 B 水行九十キロを二日、陸行四百九十キロを一日二十キロとして二十五日、郡から狗邪韓国まで二十七日の旅になります。このコースは山地もわずかで、峠も低いので輸送も牛馬や車に頼れます。「北馬」出身の郡使は騎乗だったでしょう。


 
おわりに

● 繰り返しますが、韓国海岸の二辺を水行するというのは不合理きわまりないのです。なぜこのような論が罷り通っているのでしょうか。水行論者から水行する合理的な理由を聞かせて貰いたいものです。

● 機械力を持たない古代人の行動は合理的です。かれらは今の人より体力はすぐれていたかもしれませんが、それを無駄遣いするようなことはしません。いつ襲ってくるかわからない危険から身を守るために、常に体力は温存するのが、自然の中で生きていくうえでの鉄則です。

● 自然の理に合わせて行動する、それが合理なのです。そして合理的であることが彼らの身を守る唯一の道だと、体験を通じて知っていたのです。

● 倭人伝をめぐる他の論はさておき、韓国水行論だけは早く消えてほしいものです。

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