「水行十日、陸行一月」 倭人伝最大の謎を解く |
みどころ ● 《自郡至女王国万二千余里》のうち、不弥国まで一万七百里進み、残り一千三百里あまりの所まできているのに、《南至投馬国水行二十日》《南至邪馬台国、女王之所都、水行十日陸行一月》という日程記事の矛盾が倭人伝最大の問題であることは異論のないところでしょう。 ● 緻密な論考で知られる橋本増吉氏も、《水行十日、陸行一月》についてその著『邪馬台国論考』の中で《邪馬台国問題の難点は実にここに存する》として、サジを投げています。 ● この矛盾は「錯簡」によるというのがわたしの出した答えです。 * 錯簡とは広辞苑に《書籍の文字・文章・紙の順序が狂って誤りのあること》とあります。大昔の文書は紙でなく竹に書きましたから、その順番が狂うことは日常的に起きたのです。 * 現在遺されている『三国志』は木版ですが、木版本は同一版木に補修を加えながら何百年にもわたり使用する場合が多いので、やはり錯簡の起きることがあるといわれます。 *『山海経』現行本の海内諸経には錯簡が多く、倭の初見記事《倭は燕に属す》は、『海内北経』に書かれていますが、この記事は本来『海内東経』にあったものと推定されるという指摘があります。(『古代を考える 邪馬台国』平野邦雄編 27、28頁 吉川弘文館 1998年) |
陳寿の文章は悪文か ● 橋本増吉氏はその著『邪馬台国論考』のなかで《(倭人伝の)記す所は少なくとも二種以上、恐らく数種の史料によって選録せしもので、而も、是等の史料をばただ無批判に雑然と並列せしに過ぎない為に、前後矛盾し、文意の一貫を欠いているという事実が確認せらるるのである》と、まるで倭人伝の著者陳寿の人格を無視するようなことを書いています。 橋本氏ばかりではありません。 ● 水野祐氏もシンポジウム「謎の四世紀とその前後」における講演のなかで《中国の史料が非常に貴重なものとされているが、それがあまりに中途半端なのでかえって混乱が起きる。書くのならもっときちんと書いておいてくれれば問題がないわけです》といっています(『謎の四世紀』水野祐・北村文治編 毎日新聞社 昭和49年)。 ● また、上田正昭氏はカルチャーセンターの講義で《だいたい邪馬台国の場所でこんなに論争が起きる最大の責任は陳寿にあります。陳寿がもっと正確に書いておけば、おそらくこんな論争は起きなかったでしょう》といっています(『講学アジアのなかの日本古代史』朝日新聞社 1999年)。 ● 大御所といわれる諸氏が同じような見解を示すのだから、邪馬台国論争の責任は陳寿にあるというのが学会の一致した見方なのでしょう。 ● しかし陳寿はそんなにでたらめでいい加減な人だったのでしょうか。 ● 陳寿は『三国志』を完成させた当時、西晋朝の著作郎(歴史編纂官)という地位にありました。文章にうるさい中国の中でも文才を認められ中央官界に推挙された人物なのです。 ● 夏侯湛というひとが『魏書』を書いてみたものの陳寿の書の出来映えを一見して、自分の書を焼き捨ててしまったというエピソードが伝えられるように、陳寿の『三国志』は文章、内容ともに優れたものだったのです。 ● 少なくとも《史料をただ無批判に雑然と並列》したり、《前後矛盾し、文意が一貫しない》文章であれば「正史」として採用されることはなかったといえます。 ● そうはいっても現在伝わっている倭人伝の文章が矛盾に満ちているのは疑いない事実です。 ● 陳寿が書いた当時のものが正史とされるにふさわしい出来映えであったとして、現在伝わるものが《前後矛盾し、文意が一貫しない》というのであれば、伝えられるうちに何らかの齟齬が発生し、変形したと考えざるを得ません。 ● わたしは、現在伝わる倭人伝の文章は陳寿が書いた当初のものでなく、後世におこなわれた印刷製版工程で起きた錯簡によると考え、元の姿に復元することを試みました。 |
行程(日程)に関する記事 ● 倭人伝の日程、あるいは所在地に関係する記事で「矛盾」に関係する部分を抜粋しておきます。(行数は紹熙本による) @ 《南至投馬国水行二十日》 十七〜十八行目 A 《南至邪馬台国、水行十日陸行一月》 十八〜十九行目 B 《自女王国以北其戸数道里可得略載》 二十一行目 C 《其余傍国〜女王境界所尽》 二十二〜二十八行目 D 《其南有狗奴国》 二十八行目 E 《自郡至女王国万二千余里》 二十九〜三十行目 F 《計其道里当然在会稽東冶之東》 三十四〜三十五行目 G 《女王国東渡海千余里復有国皆倭種(中略)周旋五千余里》 七十〜七十四行目 |
誤りとみられる箇所と理由 文章の乱れ ● 文章EとFは前後の脈絡のないところに書かれており、文章の専門家が書いたものとは思えません。とくに文章F《計其道里当然在会稽東冶之東》は前後の脈絡がなく、文章としての体をなしていません。これはあきらかに錯簡が起きていることを示すものです。文章E、Fとも内容は邪馬台国に関する事項ですから、本来文章Aとまとめて記述されるべきものです。 ● このように行、あるいは文節の単位で乱れた状態になるのは筆写で起きる可能性は少ないでしょう。 ● 主文の文章Aが十九行目、文章Eは二十九行目でちょうど十行の違いです。文章Fは三十四行目で五行の違いですから、文章A、E、Fは元々一箇所にまとまっていたものが後世の印刷製版(木版組み立て)など作業上のミス(錯簡)でこのように乱れたと推定されます。 文章上の疑問 ●文章A《南至邪馬台国、女王之所都、水行十日陸行一月》には三つの疑問があります。 〔疑問1〕 「里数」でなく「日数」であること。 ● 行程の表記が「里数」でなく「日数」になっていますが、郡使が実際には行かなかったので、「里」を知らない倭人から聞いた日数を記したとする説があります。「ピタゴラス」で述べたように倭人伝の距離は実距離でなく、虚数「一万二千里」を3:4:5になるように「ピタゴラスの定理」を用いて陳寿がつくったものですから、不弥国から邪馬台国までの「里数」がわからないはずはありません。したがって《水行十日陸行一月》は「里数」の代わりに「日数」を書いたのではない、つまり不弥国から邪馬台国までの距離あるいは所要日数を示すものではないと推定されます。 ●《水行十日陸行一月》という所要日数は、それが不弥国から邪馬台国までのものでなければ、どこからどこまでの日数なのでしょうか。 〔疑問2〕 構文が他と異なること。 ● 構文に関しても疑問があります。陳寿は《東南陸行五百里到伊都国、郡使往来常所駐》のように国名と旅程は続けて記載し、その後に「官」や「戸数」など情報を記しています。 ・到其北岸狗邪韓国七千余里 三〜四行目 ・(始度一海)千余里至対海国、〔官〕、〔土地の様子〕 四行目 ・(又度一海)千余里名瀚海至一大国、〔官〕、〔土地の様子〕 七〜八行目 ・(度一海)千余里至末盧国、〔土地の様子〕 十〜十一行目 ・東南陸行五百里到伊都国、〔官〕、〔皆統属女王国〕、〔郡使往来常所駐〕 十二〜十三行目 ・東南至奴国百里、〔官〕、〔戸数〕 十五行目 ・東行至不弥国百里、〔官〕、〔戸数〕 十六行目 ・南至投馬国水行二十日、〔官〕、〔戸数〕 十七〜十八行目 ● このように投馬国まではすべて同じ構文なのですが、最後の邪馬台国の記事だけ ・《南至邪馬台国、〔女王之所都〕、水行十日陸行一月、〔官〕、〔戸数〕》 十八〜十九行目 というように〔国名〕と旅程の間に〔情報〕が挟まり、他と異なる構文になっています。他の記事と同じ構文とするなら ・南至邪馬台国、水行十日陸行一月、〔女王之所都〕、〔官〕、〔戸数〕 となるはずですが、前述のように《水行十日陸行一月》は「里数」の代わりに書かれたのではないとすれば、 ・南至邪馬台国、〔里数〕、〔女王之所都〕、水行十日陸行一月、〔女王之所都〕、〔官〕、〔戸数〕 となるはずで、そこから〔里数〕が省略されていることが構文の上から読み取れます。 ● ここで〔里数〕を省略するのは、行程の最後でもあり、簡単な計算でわかることであるから、文章としては重出を避けて形がよくなります。 〔疑問3〕《水行十日陸行一月》もかかる長期旅行中の説明がない。 ● 三つ目は、文節の目的です。もし邪馬台国まで《水行十日陸行一月》かかるという旅程説明ならば、伊都国に到着するまでと同じくらい長い旅ですから、ここまでと同じように旅行中通過する国々の名や風景描写などが記されて当然なのに、何もありません。こうした記述がないのは、邪馬台国への旅は《水行十日陸行一月》もかかるものではなく、《水行十日陸行一月》は他の記事を説明する文節だと考えられるのです。 ● 以上のことから《南至邪馬台国、女王之所都、水行十日陸行一月》の文章がわからないのは、《水行十日陸行一月》という文節が余分なものとして挿入されているか、あるいはこの文節が説明する相手の記事が抜けているか、つまり ・南至邪馬台国、〔女王之所都〕、〔官〕、〔戸数〕 あるいは ・南至邪馬台国、女王之所都、[???]、水行十日陸行一月、〔女王之所都〕、〔官〕、〔戸数〕 のいずれかだと推定されるのです。 |
投馬国に関する矛盾 ● 文章@《南至投馬国水行二十日》とあることから投馬国は女王国から遠く離れて立地すると考えられています。しかし、下記の諸点からみて、飛び離れた立地とすることには疑問があります。 @ 《女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠くへだたり、詳しく知ることができない》と倭人伝は記しています。投馬国には「官」「戸数」を記載していますから、邪馬台国の北にあって、「それ以外の辺傍の国」ではないことになります。 A 狗邪韓国に始まり、対馬国、壱岐国、そして上陸してから末盧国、伊都国、奴国、不弥国と、邪馬台国へ行く経路に当たる各国が順に記載されています。記載の順からみれば不弥国と邪馬台国の間に投馬国があることになります。陳寿が投馬国に関して「どこから」という出発地を書いてないのは、書く必要がないからと考えられるのです。 B 《其余傍国〜女王境界所尽(紹熙本22〜28行目)》という倭人伝の記載も「次有〜」「次有〜」となっていて、ひとつの地域にまとまって女王国の境界を形成していることを想定させまう。もし投馬国が女王国の境界の外にあるのならば、不弥国と邪馬台国の間に記載するのは文章構成上からみても誤りです。「女王境界所尽」の後に記載すべきですし、投馬国への出発地を記すのも当然です。そうなっていないのは、投馬国が境界内にあることを示していると推定されます。 C もし投馬国が女王国の境界の外にあるのなら、邪馬台国まで「ピタゴラスの定理」を使って距離をつくっている陳寿が、万二千里に含まれない国を間に挟むことはないでしょう。 D 「水行二十日」も離れている投馬国が一国だけ女王国の同盟に加盟していることも疑わしいことです。 ● これらのことからみると、「水行二十日」の文節がこの箇所にあることが疑わしくなってきます。邪馬台国の記事に誤りがあることは前述しましたが、投馬国記事はその直前にあります。投馬国の《水行二十日》も邪馬台国記事と同様、錯簡によって本来とは異なるこの箇所に記載されたのではないでしょうか。 ● 不弥国〜投馬国の道里が記載されていませんが、陳寿は「ピタゴラスの定理」による道里づくりにこだわり、不弥国〜邪馬台国の距離を√2千里とイメージして、距離は記載していません。 ● 不弥国と邪馬台国の間にある投馬国までの距離を記載すれば、投馬国から邪馬台国にはその距離を差し引いた道里を記載しなければならないことになります。それでは√2のイメージが毀れてしまうので陳寿としては記載したくなかったのでしょう。間に投馬国が入ったとしてもあくまで不弥国〜邪馬台国の距離を√2千里としたかったのです。 |
編纂当時の文を「復元」する 上記の推理に基づいて編纂当時の文を「復元」してみますが「錯簡」による誤りの修正ですから文節の削除や新しい文節の付加はしません。おこなうのは文節の移動のみです。 【復元1】「邪馬台国」記事の修正1 まず文章上の疑問で述べた ・ 南至邪馬台国、女王之所都、[???]、水行十日陸行一月、〔女王之所都〕 の[???]として考えられるのが文章E《自郡至女王国万二千余里》です。この文節は邪馬台国の位置に関する情報ですから邪馬台国を紹介する箇所に書かれるべきものであり、「水行十日陸行一月」が修飾する相手としてはこれが最も適切だと思います。この文を二十九行目から抜き出し十九行目「水行十日陸行一月」の前に移動して、 ・「南至邪馬台国、女王之所都、自郡至女王国万二千余里、水行十日陸行一月」 とします。 ● 「郡から女王国までの一万二千余里を行くのに、水行十日陸行一月かかる」ということになり、旅程の案内としてごく普通の形になる。 ●「万二千余里」を行くのに「水行十日陸行一月」が妥当かという点ですが、ソウル付近から北九州まで約一千キロを四十日、一日二十五キロならば全体的にはおかしな数字ではないでしょう。 【復元2】「邪馬台国」記事の修正2 ●《計其道里当然在会稽東冶之東(三十四行目)》の《其道里》とあるのは「邪馬台国までの道里」ですから、原本では文章Aに続いて記載されていたものと考え、《水行十日陸行一月》の後に移動してアの修正と合わせ、 ・「南至邪馬台国、女王之所都、自郡至女王国万二千余里、水行十日陸行一月、計其道里当然在会稽東冶之東」 とすれば、文章の不自然さ、矛盾がなくなります。 【復元3】「投馬国」記事の修正 ● 投馬国は不弥国と邪馬台国の間に記載されていることや戸数、官名などもあることからみて、その所在地は邪馬台国の北、不弥国との間だと推定されます。そうなると「水行二十日」が誤って挿入された可能性を考えなければなりません。 ●「水行二十日」が本来どこに記載されるべきかですが、その箇所は文章D《其南有狗奴国(二十八行目)》だと推定しています。「其南水行二十日有狗奴国」あるいは「其南有狗奴国水行二十日」とするのです。十八行目になるべき邪馬台国の《自郡至女王国万二千余里》が二十九行目に挿入され、逆に二十八行目に挿入すべき「水行二十日」が十八行目に挿入されるというミスが起きたと推定した修正です。 |
蛇足 ● 復元はしてみたものの、修正箇所が日程記事に集中していることから疑問が出てきました。 ● こうした日程記事は元々陳寿が記したものだろうかという疑問です。つまり陳寿が書いた元の文章が乱されたのではなくて、後世の人がこれらの文節を追加しようとしたときに場所を誤ったのではないかと考えたのです。 ・《南至投馬国水行二十日》 十七〜十八行目 ・《南至邪馬台国水行十日陸行一月》 十八〜十九行目 ・《自郡至女王国万二千余里》 二十九〜三十行目 ・《計其道里当然在会稽東冶之東》 三十四〜三十五行目 ●「ピタゴラスの定理」で距離を作った陳寿にしてみれば、こうした文節はなくてもよい、というよりむしろない方が全体としてすっきりした文章になります。 ●《南至投馬国水行二十日》ですが不弥国から邪馬台国まで√2千里としたい陳寿が、不弥国から投馬国までの距離はわざわざ書かないでおいたのに、ここにだけ距離がなかったので後世の人が《水行二十日》としてしまったように思えます。 ● その《水行二十日》ですが、陳寿は《女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり》《また侏儒国あり、女王国を去る四千里》というように「里」を書くのが普通です。これは東夷伝を通じて同じです。《水行二十日》は「倭人からの聞き書きだから日数になった」のではなく、陳寿以外の人が書いたと考える方が納得できます。 ●《自郡至女王国万二千余里》なども書くとすれば『後漢書』のように冒頭に書くべきものですし、郡から狗邪韓国まで七千里、狗邪韓国から始まる倭の地が五千里とあるのですから、記事としては重複しています。 ● 陳寿としては三:四:五を書きたいので、冒頭にはわざと書かなかったとも考えられます。まして万二千余里に「水行十日陸行一月」かかることなど、どうでもよいことですし、《計其道里当然在会稽東冶之東》にしてもとってつけたような説明文です。 ● これらの文節は倭人伝に道里があることから日数を付け加えようと後世の人が企てたもので、その際に錯簡が起きたのではないかと推定しています。 |
おわりに ● 倭人伝の距離に触れた以上、邪馬台国の位置について何らかの見解を述べなければと思いますが、これまで述べてきたようにこの距離は実際とは全く関係がなく、距離不明を意味する一万二千里、七千里を三:四:五になるようにつくったものですから、この距離から邪馬台国の位置を推定することは無意味だと考えています。 ● ただ、前述したように邪馬台国の北にある投馬国を妻郡、現在の筑後市、八女市あたりとして、邪馬台国を山門郡に比定するのは推理の流れだといえます。 ● 伊都や奴という古地名が残っているのだからヤマト(山門郡)やツマ(妻郡、三潴)が残ったとしても不思議ではないでしょう。 ● でも、邪馬台国の具体的な場所に言及するのはわたしの領域を超えています。場所を特定する際に《水行二十日》《水行十日陸行一月》は無視すべきであることを明らかにするのがわたしの目的です。 |
金 印 ピタゴラス 韓 国 邪馬台国 卑弥呼 出 口 |