狗邪韓国から末盧国へ大海を渡る

 みどころ

● 狗邪韓国は巨済島。

● 対馬の拠点は浅茅湾が中心。

● 船は陸を越えて(船越)対馬を横断していた。

● 九州へのコースは 巨済島―{対馬・浅茅湾―小船越―三浦湾}―{壱岐・勝本ー内浦}―唐津―前原

 
● 末盧国から伊都国は「陸行」でなく「水行」。

 

 
はじめに

● ここでは狗邪韓国から末盧国までのコースを探求してみます。海だからどこでもよさそうに思えますが、手漕ぎ船では一日の行動距離が限られるうえ、安全の面から陸よりも制約が多いのです。

● 機械力のない古代ではもっとも労力が少く、しかも安全なコースを選んだと思います。こうした観点からコースを推理しました。

● 手漕ぎ船で一日に航行できる距離については時速約三ノット(五.六キロ)、一日十二時間で七十キロというデータがあります(遠沢葆氏)。この速さなら海峡の横断はできます。

● 船の航行速度と共に問題になるのが海流です。対馬を挟んで北に流れる対馬海流は流れが速いことで知られます。対馬海峡西水道では冬期で1.1ノット/時、夏は3ノットにも達すると云いますから時速3ノットの船では逆航行(南下)はできません。

● 東水道は夏冬とも1ノットで、大きな障害にはならないというし、島の東海岸に沿って北から南に流れる反流があるので、鰐浦から厳原方面に向かう船はこの流れを利用するということです。


 
対馬の玄関は浅茅湾

● 狗邪韓国から壱岐国への航路ですが、金海海岸から対馬北端の鰐浦に至り、島の東海岸を南下し、厳原から壱岐国に向かうとするという説が一般です。

● ところが、対馬の弥生遺跡・遺物は浅茅湾西部と少し北の三根湾辺りに集中しています。このことは当時の航路は東海岸回りでなく、西海岸中央部を拠点にしていたことを示しています。

● 釜山から浅茅湾を直接目指すのは海流に逆行するうえ距離も長すぎて手こぎ船には無理です。鰐浦から西海岸を南下するのも海流に逆らうのでやはり無理だといわれますから、浅茅湾に向かって海流に逆らわず航行するのには巨済島辺りから出港しなければならないことになります。

● 仮に金海湾から出港するとしても、巨済島東端まで南下し、そこから対馬に向かうことになります。ただ、半島の東海岸から南海岸には緩やなリマン海流が時計回りに流れているので、釜山方面から巨済島方面に向かうのは比較的容易だったとみられます。


 
東海岸へは船越で

● 対馬の西海岸から壱岐に向かうには島の東に出なければなりません。その東海岸へのコースですが、西海岸に沿って南下して、島の南端を回り込むのは海流に逆行することになります。ではどうやって東に抜けたのでしょうか。その答えが「船越」です。

● 対馬の西海岸中央部、西から東に大きく食い込む浅茅湾は地図で見ると東海岸に抜けられそうです。

● 現在は湾の最東端にある万関瀬戸と大船越瀬戸という二つの瀬戸で島の東西の海がつながっていますが、万関瀬戸は明治時代に軍事目的で開鑿されたものだし、大船越瀬戸も江戸時代に開鑿、明治に拡幅されたものです。つまり弥生時代から近世までの対馬は南北が陸続きの一つの島でした。

● 船は島の北端か南端を迂回しなければならないので、朝鮮半島と日本の間を航海する者にとって、対馬は絶好の拠点であると同時に大きな障害物でもあったといえます。

● しかし大船越という地名から、もしやと思って地元役場の観光課に問い合わせたところ、その方はこともなげに「昔は船が陸を越えていたということで、少し北の小船越もそうです。船越という地名は全国各地にありますよ」というのです。

●「小船越は九州と朝鮮を往復する船や、遣唐使の船も越えていたということです。近くにある梅林寺は日本で最初に建てられた寺で、朝鮮から来た仏像をお祀りしたしたところと伝えられています」と教えてくださった。

● 対馬では近世まで、船を陸に引き揚げて反対側の海に下ろす「船越」がおこなわれていたのです。船が大きいときは反対側に別の船を用意して、船荷を積み替えることもあったといいます。こうした「船越」が日常的におこなわれていたからこそ瀬戸の開削という大事業につながっていったのです。


 狗邪韓国


● 話が戻りますが、郡から出発した郡使が最初に到着する倭の国が狗邪韓国です。

● 狗邪韓国については倭の一国であるとする説もあれば、韓伝にある弁辰狗邪(金官伽耶)と同じ国だとする説もあります。しかし「倭人伝」に韓諸国の名は出てくるはずがありません。

● 狗邪韓国が朝鮮半島にあった倭人の国だとすれば、対馬への船出もそこになる筈です。これまでみてきたように、半島から対馬に向けての最終出港地が巨済島東端だとすると、狗邪韓国が金海付近だとすることに疑問が出てきます。

● 朝鮮半島にあった倭人の国として狗邪韓国の位置を推定してみます。


 
狗邪韓国は倭人の国

●『魏志』韓伝に《韓は、帯方郡の南にあり、東西は海で限られ、南は倭と接して、その広さは縦横四千里ばかりである。(中略)弁辰のうち涜盧国は倭と境界を接している》とあって、韓国南海岸のどこかに倭の国があったことを伝えています。

● 倭人伝は女王国に属している三十国のなかに狗邪韓国を数えています。また、倭の地を周旋五千里とするのも邪馬台国までの一万二千里から狗邪韓国までの七千里を差し引いた数字ですから、ここでも狗邪韓国から倭国が始まるとしています。

● 狗邪韓国を現在の金海付近金官伽耶とする論が多いのですが、金官伽耶は韓伝のいう弁辰狗邪に比定される弁辰諸国のひとつであり、またその位置は金海平野の中心部です。韓伝のいう《弁辰のうち涜盧国(だけ)は倭と境界を接している》という条件に適合しませんし、韓諸国の中に一国だけ存在する倭の国が金海平野の真ん中に位置することは不可能なことです。

● また、韓伝で弁辰狗邪国としながら、狗邪韓国という別の名にする必要性は認められません。わたしは弁辰狗邪と狗邪韓国は別の国だと推断しています。


 
狗邪韓国は固城半島・巨済島

● 結論からいうと、狗邪韓国は固城半島のごく一部と巨済島であって、固城湾は韓と倭が共用する倭への渡航基地だったと推定しています。

 @ 半島と結ばれた対馬側の基地は島の中央部に位置する浅茅湾でした。巨済島はその浅茅湾と向かいあう最短距離(六十キロ)に位置しています。

 A 韓伝は《弁辰のうち涜盧国は倭と境界を接している》と伝えます。この「倭」を狗邪韓国とすると、弁辰諸国の中で涜盧国だけが狗邪韓国と境を接しているのです。一国とだけ接する境界が作れるのは狗邪韓国が半島にあることを示しています。このような地形を持つのは、金海周辺では固城半島だけです。

 B 固城半島は固城市の辺りで大きくくびれていて境を接する国を一つだけにできる地形になっていますから、このあたりが境界ではなかったかと推定しています。また、固城湾が入り込み、海上交通に適した地形ですし、考古学的にも、東外洞遺跡から対馬特有の広鋒銅矛や、日本の弥生式に似た土器が出土するなど、日本との関係が深いことを想定させる地域です。


 海岸地帯に住み着いていた倭種

● 対馬は日本領ですが、地理的に見れば韓国領であって当然といえる位置にあります。

● それが日本領になっている理由を考えてみると、もともと国という観念の希薄なころ、朝鮮半島の南岸から対馬・壱岐・九州と繋がる島嶼に倭種の人が住み着いていたのが、国家観念が育つにつれて半島南岸はだんだん韓の国・人となり、最終的に対馬以東が残ったのでしょう。巨済島あたりには元々倭種が居住していたのです。

● 倭人伝に書かれた倭人は黥面文身し、潜水を得意としているなど、中国の江南方面の人に似ていたとされます。韓国済州島の住民は《その人は、やや短小で、言語は韓と同じではない(韓伝)》とされ、潜水を得意にしていたといいますから、あるいは倭人と同じ種の人たちだったのかも知れません。同様な人種が対馬海流によって運ばれ、現在の日本列島だけでなく朝鮮半島南部海岸にも分布・居住していたのでしょう。

● 済州島から朝鮮半島の南海岸、対馬、壱岐、松浦、五島列島の逆U字帯は、こうした海人、とくに潜水という特殊技能を持つ漁人の分布地帯だったのです。


 壱岐国・末盧国

 壱岐国へ

● 対馬の小船越から壱岐の内海までは七十キロほどで、ここもまる一日です。場合によっては、北端の勝本で一夜を明かし、翌日は休みを兼ねて内海まで陸上を歩き、船だけ回航させたのかも知れません。


 
末盧国は唐津

● 壱岐国の内海から末盧国の比定地唐津まで五十キロほどです。壱岐から来れば最寄りの港になる呼子を比定する説もありますが、倭人伝によれば末盧国は《草木が盛んに茂り、歩いて行くと前の人が見えない》というようなところです。長旅で疲れた客人たちにこのような道を歩かせる筈がありません。

● 末盧国で下船するのならば唐津湾最奥まで入り、松浦川を渡らないで済む場所にするはずで、松浦川の河口は潟のできる地形ですから、古代は潟港だったとみられます。背後にある山が鏡山(領巾振山)と呼ばれることも、ここが港であったことを物語っています(ただし、呼子は壱岐国に向かう船が天候の様子見をする港として利用されていたと考えています)。

 伊都国へは「水行」

● 末盧国から伊都国へは「陸行五百里」とありますが、この記事は少々「要注意」です。

● 古代の道路事情を考えると、ここから先も「水行」したとする方が常識的です。湾の最奥部であるうえ、海岸沿いに行くのですから危険は少ないし、このようなところをわざわざ荷物を担いで歩くことは考えられません。

●「ピタゴラス」で掲出した図を思い出して下さい。陳寿が「陸行」としたのはこの図の上でのことで、方角を「東南」としたのもこの図の上でのことだと考えられます。「東南」についていろいろな説がありますが、古代人が方角を間違えることはあり得ません。この「東南」は観念上のことで、実際の方角ではないのです。

● それなら船は末盧国に立ち寄らず伊都国に直行する方が近いことになりますが、郡や朝鮮各国との交易を検査する必要から、倭国本土で最初に着く港を末盧国として、そこで《津に臨みて捜露》する体制を取っていたと考えています。この検査については「卑弥呼」を参照してください。


         郡から倭国への行程図 旅程

● 郡治と伊都国を結ぶコースを左掲のように想定して、所要日数を計算してみました。

@ コース
 郡治・開城―
[水行]―{安山―[以後陸行]―天安―大田―秋風嶺―金泉―大邱―固城}―[水行]―巨済島東端―{対馬・浅茅湾―小船越―三浦湾}―{壱岐・勝本ー内浦}―唐津―前原

A 距離と所要日数

@ 開城から安山まで水行九十キロ、安山から南東に陸路をとって分水嶺の秋風嶺まで二百二十キロ、そこから亀尾まで四十キロ、残りの百六十五キロは洛東江の水運も使えます。下るときなら歩行の二〜三倍の速さになります。

A 水行九十キロを二日、陸行四百九十キロを一日二十キロとして二十五日、郡から狗邪韓国まで二十七日の旅になります。

B 狗邪韓国から伊都国までの旅程は、巨済島東端と対馬浅茅湾、対馬小船越、壱岐内海、そして唐津と航海だけでも五日、場合によっては壱岐でもう一泊する旅だったかと推定されます。

 C 郡から伊都国までを通算すると、「水行」九日、途中の休みを入れると十日から十二日、「陸行」二十七日になります。





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