大 観 楼
 
 お急ぎの方, まず全体を知りたいという方のための展示です。

 展示の順がちがいますが、内容はそれぞれの「間」から抜粋したものです。


『書紀』の性格    詳細は親王の間

● 天武十年の詔勅は国史編纂のためではない。集められた12名の高官は諸家の持つ帝紀・本辞の【削偽定実】をおこなうプロジェクトチームであって、天武十三(684)年に施行された「八色の姓」はかれらの成果である。

○ 定説では、天武十年の詔が『日本書紀』編纂のスタートとされている。

● 当時は社会的身分秩序が天皇家との関係の濃淡により決められる社会であり、諸家は自家を有利になるように帝紀・本辞(系譜)を改ざんした。天武が指摘した「乱れ」はこのことである。

● 帝紀・本辞の【削偽定実】はプロジェクトメンバーと諸家の間で話し合っておこなわれた。『書紀』系譜上の辻褄合わせは、『書紀』編者あるいは諸家による一方的な造作でなく、プロジェクトメンバーと諸家双方合意の基におこなわれた。

● 天皇の地位を確立するために国史を編纂したのではない。「書き物」で社会改革を目論むのは思想家のすることであって、政治家は政治的手法によりおこなう。政治家であり、最高の権力を持つ為政者である天武は【削偽定実】した系譜に基づき、現実の改革をおこなった。それが「八色の姓制度」である。

● 『書紀』は、【削偽定実】され、国が承認した系譜を記録しておくための、いわば公認の系譜集であるから、天皇家に関わる系譜記事は、史実とは限らないが正しいものである。


 
世紀の大発見 『書紀』の紀年延長と延長前の紀年    詳細は隠蓑の間

● 国史は律令の制定に合わせ700年ころには一旦完成していた(第一次『書紀』)。

● 『古事記』に崩年干支註記として遺された崇神没戊寅(318年)以降、続く垂仁・景行を欠きながらも、成務以降允恭まで欠けることなく記された没年の記録は、紀年に関する唯一の古記録である。編者は編年体の史書とするため、古記録にない神武即位〜崇神および垂仁・景行・成務三代の紀年をつくった。

● 第一次『書紀』用として編者がつくった紀年は神武〜崇神220年、神武即位西暦99年とされたが、建国の歴史が短いとして、撰上が認められなかった。現在の『書紀』は神武〜允恭の紀年を延長し、書き直したものである(第二次『書紀』)。

● 第一次『書紀』の短い紀年は残されている。編者がつくった神武即位〜崇神没220年と垂仁〜成務三代37年は『書紀』に [延長前紀年=没紀年−立太子紀年] として隠してある。つまり『書紀』神武紀〜成務紀の立太子紀年は延長した年数を示している。

○ 定説では、崇神以前の紀年に関する記録は何もないとされる。

● 崇神に始まる崩年干支古記録は『古事記』崩年干支註記として遺された。『古事記』は古記録を遺すために『書紀』の副本として編纂された。

○ 定説では、『書紀』と『古事記』はお互いに関係なく編纂されたとされる。

● 遺された紀年によれば、神武〜懿徳と孝昭〜孝元は別の王朝であり、崇神で統合されたことが分かる。崇神の「ハツクニシラス」という称号はこの統合に由来する。


『古事記』    詳細は親王の間

●『古事記』は古記録の崩年干支を残すために編纂された『書紀』の副本である。崇神〜推古の紀年に関しては、『古事記』が正しい。

○ 定説では、『古事記』は『書紀』より早く、独自に編纂されたとする。

● 第一次『書紀』を否認したのは舎人親王である。そのため紀年延長をおこなう第二次編纂は親王が総裁となった。

● 朝廷の実力者舎人親王が『書紀』編纂の総裁を務めたことからみて、『古事記』は元明の命じたものではない。親王の指示で『書紀』と一体のものとして、企画・編纂されたものである。

● 『古事記』の序文は紀年延長という編纂の事情を書けない『書紀』に代わって書かれた。


「先帝殺害、皇位簒奪」事件と『書紀』の造作    詳細は殺戮の間

● 紀年延長以外の『書紀』造作は「先帝殺害、皇位簒奪」事件隠蔽を中心におこなわれた。

● 壬申の乱で大友皇子(天皇)を殺害し、皇位を奪った天武の行為は「先帝殺害、皇位簒奪」の大逆にあたる。天武の指示により、この事件だけでなく同様の事件が隠蔽された。

● 綏靖に殺害された手研耳、神功皇后と仲哀、雄略に謀殺された押磐皇子、継体の後継をめぐる辛亥の変(安閑が大郎皇子を殺害)などが「先帝殺害、皇位簒奪」事件である。大友皇子を加えた5帝は天皇でなく皇子であったとされた上(大逆でなくなる)、治世も消された。

● 『書紀』が元年以外に太歳を記す手研耳と神功皇后の没年、天武二年はすべてこの隠蔽に絡むもので、事件を完全に消さないための注意書きである。

● この抹殺で4代(大友を含めると5代)が減少したが、『古事記』はこの皇代に一致している。『古事記』は『書紀』より後で編纂されたことがこのことにより立証される。



『書紀』雄略紀の造作    詳細は殺戮の間

● 雄略の治世は466〜489年の24年であり、崩年干支は『古事記』が正しい。雄略の没年齢124歳は在位24年を伝えるための造作である。
466年を雄略元年とすれば宋遣使の雄略十二年は477年となり、『宋書』昇明元年(477)記事と一致する。

○ 定説では、雄略の紀年は『書紀』の457〜479年とされる。

● 雄略の「先帝殺害、皇位簒奪」を消すため雄略の治世を繰り上げ、前代の押磐皇子の治世(458〜465の8年間)にかぶせたのである。この抹殺をするとき、没を2年多い10年繰り上げ、その調整のため、治世24年を23年に短縮、更に允恭の没を1年繰り上げる造作をおこなった。允恭の没年が『記紀』で1年違うのはこのためであって、『記紀』の編者は1年たりとゆるがせにはしていない。雄略の没年10年繰り上げの穴は仁賢の治世1年を11年として埋めた。

● 押磐が殺害されたのは安康殺害の直後でなく、465年である。顕宗は没年齢38歳とあるが、推定生年460年であり、安康没の458年には生まれていない。押磐殺害が465年であれば、顕宗も6歳になり、兄と一緒に逃げた話と整合する。『古事記』の記事は正確である。

● 従って『宋書』の世子興は押磐皇子である。

○ 定説では、安康とされる。

● 允恭454年没、雄略489年没124歳、顕宗在位8年、武烈在位8年という『古事記』の記事から允恭〜武烈の紀年は復元できる。

 

『書紀』継体紀の造作    詳細は殺戮の間

● 531年の「辛亥の変」は、継体が関係する事件ではない。継体は『古事記』の記す527年に没し、その後を継いだ大郎皇子が4年後、安閑に殺害された「先帝殺害、皇位簒奪」事件である。

● 継体が没した時はまだ若年であった欽明が事件の時には成人に達しており、皇位争いに加わったのであって、安閑・宣化・欽明の宮がすべて大和にあることからみても内乱ではない。

● 継体は大和に遷都していない。継体が遷ったという磐余玉穂宮は大郎皇子の宮である。

○ 定説では、継体の就位には抵抗勢力があって大和に宮を置くことができず、20年になってようやく大和に遷都できたとする。


 
天皇の長寿    
詳細は長寿の間

●『書紀』の長寿は紀年延長に伴うものである。立太子記事にある皇太子の年齢から計算された。ただし、編者はこの年齢を重視せず、いろいろにつくって数字遊びをしている。

●『古事記』の長寿は古記録に基づいている。すくなくとも崇神以降、没年齢と崩年干支は一緒に遺されていたと考えられる。

○ 定説では、『古事記』の方が先に編纂され、そこに長寿が多いので、紀年延長と長寿は関係ないとされる。また、天皇をたっとぶ心から、伝えられるうちにだんだん長寿になったとされる。

● 開化以前は干支1運60年を加えているが、この年齢を基に『書紀』紀年を作り出しているので、『書紀』編纂以前に造作されていたと見られる。

● 崇神以降は、崩年干支と一緒に残されていた年齢を『書紀』の紀年延長(長寿化)に合わせて、太安万侶が造作した。崇神〜応神は100加算、仁徳は年齢50+在位33、履中と反正は2倍、允恭は『書紀』紀年と同じ42などである。雄略の124歳は年齢でなく、造作により変更された治世24年を残すための太安万侶の工夫である。
   
● 垂仁〜仁徳の6代はすべて親子で継承した形になっているが、景行・成務・仲哀3代は兄弟であり、オオタラシヒコ(景行)、タラシナカツヒコ(仲哀)、ワカタラシヒコ(成務)のオオ、ナカ、ワカは兄弟の順を示している。そのなかでも成務と仲哀は双子である。このことから崇神没戊寅は258年でなく318年であることが統計的にも立証できる。

● 応神は仲哀の子ではない。神功は摂政でなく天皇であった。応神王朝でなく神功王朝と呼ぶべきである。摂政とされたのは仲哀の死亡が「先帝殺害、皇位簒奪」とみなされたためである。

○ 定説では、仲哀の存在は疑問とされ、また、神功は架空とされる。


『書紀』紀年の構成    
詳細は虚飾の間

 ● 『書紀』の1260年は3:4:5というブロックで構成されており、延長の計算もこのブロックごとにおこなわれている。また各ブロックの先頭になる天皇には「神号」が付けられていることから、ブロック構成は公知のことだったと見られる。

第1ブロック 神武元年(前660)〜孝元五十七年(前158) 503
サブブロック 開化元年(前157)〜開化六十年(前98) 60
第2ブロック 崇神元年(前97)〜仲哀九年(200) 297
第3ブロック 神功摂政元年(201)〜推古八年(600) 400
合  計 1260

●『古事記』が推古までしか収録しないのは、この1260年に合わせたものである。

● このブロック分けは、建国初期王朝、崇神による大和王朝、神功皇后による河内王朝という歴史の区切りを示すと考えられる。後世の漢風諡号の神号はこれを踏まえて付けられた。

● 神武に征服された大和の先住豪族は孝昭〜孝元系として天皇家との擬制的同祖関係に組み込まれた。他地方の豪族は、地方への進出がおこなわれた時代に合わせ、景行を祖として擬制的同祖関係に組み込まれた。景行は本来皇位に就いていなかったが、このために列せられた。

● 神功皇后の没は389年。この干支を2運繰り上げて、『書紀』の紀年は作られた。百済記の記事が2運繰り上げられたのは、皇后の没年が2運繰り上げられたことにともなうものである。

● 皇后の紀年の作り方は、皇后を先頭とするブロックが400年であること、治世にヒミコの遣使景初三(239)年、正始四(243)年を含むこと(擬制のため)、皇后の没が己丑であること、元年から401年目が辛酉であること、などの条件から201年元年、269年没がつくられた。    詳細は皇后の間

● 皇后元年が201年、そこから401年後の辛酉は推古九年になる。この年を基準に1260年遡った年が神武即位の年とされた。


 倭の五王は七王    詳細は遣使の間

遣使年 王の名 比定天皇 定  説
 413  仁 徳 仁 徳
 421 
 425 
 430  なし 履 中 仁 徳
 438  反 正  反 正 
 443  允 恭 允 恭
 451 
 460  なし 押磐皇子 安 康
 462  世子興 安 康
 477  雄 略 雄 略
 478 
 479 
 502  武 烈 未 定

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