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平家物語の馬の毛色と乗り手の装束   
OPEN APL.04.2005


平家物語に出てくるお馬の描写から、
馬の毛色、特徴、乗り手の名前、
装束などを書き出してみました。

こちらに写真がありますあわせてごらんください
「馬の毛色いろいろ」



葦毛

木曾殿、その日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、いか物作りの太刀を帯き、鍬形打つたる甲の緒をしめ、二十四さいたる石打の矢の、その日の軍に射て、少々残ったるを、頭高に負ひなし、滋籐の弓の真中取って、聞ゆる木曾の鬼葦毛(おにあしげ)と云ふ馬に、金覆輪の鞍置いて乗ったりけるが、…(巻第九「木曾の最期の事」より 木曾義仲)



連銭葦毛

足利がその日の装束には、朽葉の綾の直垂に、赤革縅の鎧着て、高角打つたる甲の緒をしめ、金作りの太刀を帯き、二十四さいたる切班の矢負ひ、滋藤の弓持って、連銭葦毛なる馬に、柏木にみみづく打つたる金覆輪の鞍置いてぞ乗ったりける。(巻第四「宮の御最期の事」より 足利又太郎忠綱 17歳)

道中には赤地の錦の直垂に、萌葱匂の鎧着て、連銭葦毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗り給へり。(巻第五「富士川の事」より 平維盛 23歳)

同じき十二日、奥の秀衡が許より、木曾殿へ龍蹄二匹奉る。一匹は白月毛(黒月毛)、一匹は連銭葦毛なり。やがてこの馬に鏡鞍置いて、白山の社へ神馬に立てらる。(巻第五「富士川の事」より 藤原秀衡→木曾義仲→白山比刀qひめ〉神社)

落ち行く勢の中に、武蔵国の住人、長井の齋藤別当実盛は、存ずる旨ありければ、赤地の錦の直垂に、萌葱縅の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒をしめ、金作りの太刀を帯き、二十四さいたる切班の矢負ひ、滋藤の弓持って、連銭葦毛なる馬に、金覆輪の鞍を置いて乗ったりけるが、御方の勢は落ち行けども、ただ一騎、返し合わせ返し合わせ防ぎ戦ふ。(巻第七「実盛最期の事」より 長井齋藤別当実盛 70歳以上)

練貫に鶴縫うたる直垂に、萌葱匂いの鎧着て、鍬形打ったる甲の緒をしめ、金作りの太刀を佩き、廿四さいたる切斑の矢負ひ、滋籐の弓持ち、連銭蘆毛なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗ったりける者一騎、沖なる船を目にかけ、海へさっとうち入れ、五六段ばかりぞ泳がせける。(巻第九「敦盛最期の事」より)

魚綾(ぎょりょう)の直垂に、緋威しの鎧着て、連銭葦毛なる馬に、金覆輪の鞍を置いて乗ったりける武者一騎(巻第九「宇治川先陣」より 長瀬判官代重綱)



白葦毛(しらあしげ)

白葦毛なる馬の煖廷(なんりょう)とて秘蔵せらりたりけるに、よい鞍置いて競(きおう)に賜ぶ。(巻第四「競が事」より 平宗盛)



黒き馬

流鏑馬(やぶさめ)の装束

この馬は、相模国の住人大庭三郎景親が、東八箇国一の馬とて、入道大相国に参らせたりけるとかや。黒き馬の額の少し白かりければ、名をば望月とぞいはれける。(巻第五「物怪の事」より 大庭三郎景親→入道相国:平清盛)

副将軍薩摩守忠度は、紺地の錦の直垂に、黒糸縅の鎧着て、黒き馬の太うたくましきにいっかけ地の鞍を置いて乗り給へり。(巻第五「富士川の事」より 平忠度)

「もしこの邊に尊き僧やある」とて、尋ね出させ、「手負のただ今死に候ふに、一日経書いて弔ひ給へ」とて、黒き馬の太く逞しきに、よい鞍置いて、かの僧にぞ給びにける。この馬は、判官五位尉になられし時、これをも五位になして、太夫黒(たいふぐろ)と呼ばれし馬なり。一の谷の後鵯越をも、この馬にてぞ落とされける。(巻之十一「嗣信最期の事」より 源義経→屋島の磯の辺りの僧)

褐(かち)に赤地の錦を以て、おほくび・端袖いろへたる直垂に、萌葱威しの鎧着て、足白の太刀を帯き、廿四さいたる切斑の矢負ひ、薄切斑に鷹の羽割り合わせてはいだりける、ぬための鏑をさし添へたる。滋藤の弓脇に挟み、甲をば脱いで高紐にかけ、判官の御前に畏る。〈略〉…黒き馬の太く逞しきに、まろほや摺ったる金覆輪の鞍置いて乗ったりけるが、弓取り直し、手綱かいくって、汀へ向いてぞ歩ませける。(巻之十一「那須與一の事」より 那須与一 20歳)



鹿毛

鹿毛なる馬の、ならびなき逸物、乗り、走り、心むけ、世にあるべしとも覚えず。名をば木の下とぞ言はれける。(巻第四「競の事」より 伊豆守仲綱)

褐(かち)に白う黄なる糸を以って、岩に群千鳥縫うたる直垂に、紫裾濃の鎧着て、鍬形打つたる甲の緒をしめ、金(こがね)作りの太刀を帯き、廿四さいたる切斑の矢負ひ、滋藤の弓持って、童子鹿毛といふ、聞ゆる名馬に、金覆輪の鞍置いて乗り給ヘリ。(巻第九「重衡生捕の事」より 本三位中将重衡)



栗毛

八騎が中に、河内の日下党に、加賀坊といふ法師武者あり。月毛なる馬の口の強きにぞ乗ったりける。「この馬は余りに口が強うて、乗り堪つつべしとも存じ候はず」と言ひければ、源蔵人、「さらばこの馬に乗り替へよ」とて、栗毛なる馬の下尾白いに乗り替へて、…(巻第八「法住寺合戦の事」より 源蔵人→加賀坊)

熊谷がその夜の装束には、褐の直垂に、赤革縅の鎧着て、紅の母衣(ほろ)をかけ、権太栗毛と言ふ聞ゆる名馬にぞ乗ったりける。(巻第九「一二の駆けの事」より 熊谷次郎直実)



月毛

次男源大夫判官兼綱は、紺地の錦の直垂に、唐綾縅の鎧着て、白月毛(白葦毛)なる馬に、金覆輪の鞍置いて乗り給ひけりたるが、…(巻第四「宮の御最期の事」より 源大夫判官兼綱)

同じき十二日、奥の秀衡が許より、木曾殿へ龍蹄二匹奉る。一匹は白月毛(黒月毛)、一匹は連銭葦毛なり。やがてこの馬に鏡鞍置いて、白山の社へ神馬に立てらる。(巻第五「富士川の事」より 藤原秀衡→木曾義仲→白山比刀qひめ〉神社)

八騎が中に、河内の日下党に、加賀坊といふ法師武者あり。月毛なる馬の口の強きにぞ乗ったりける。「この馬は余りに口が強うて、乗り堪つつべしとも存じ候はず」と言ひければ、源蔵人、「さらばこの馬に乗り替へよ」とて、栗毛なる馬の下尾白いに乗り替へて、…(巻第八「法住寺合戦の事」より 源蔵人→加賀坊)

息子の小次郎直家は、澤潟を一入摺ったる直垂に、ふし縄目の鎧着て、西樓(せいろう)といふ 白月毛なる馬にぞ乗ったりける。(巻第九「一二の駆けの事」より 熊谷小次郎直家 16歳)

旗指は、黒革縅の鎧に、甲猪頸に着なしつつ、宿月毛(さびつきげ)なる馬にぞ乗ったりける。(巻第九「一二の駆けの事」より 平山季重の旗指)

滋目結の直垂に、緋縅の鎧着て、三位の中将のさしも秘蔵されたる、夜目無月毛にぞ乗せられたる。(巻第九「重衡生捕の事」より 本三位中将重衡の乳母子の後藤兵衛盛長)



河原毛

旗指は、麹塵の直垂に、小桜を黄にかへいたる鎧着て、黄河原毛なる馬にぞ乗ったりける。(巻第九「一二の駆けの事」より 熊谷の旗指)



粕毛

随分秘蔵し給ひける小糟毛といふ馬に貝鞍置き…(源平盛衰記:平家物語の白葦毛の「煖廷」が源平盛衰記では糟毛の馬とされているようです)

ここに、平山は、滋目結の直垂に、緋縅の鎧着て、二引両の母衣をかけ、目糟毛(めかすげ)と言ふ聞ゆる名馬にぞ乗ったりける。(巻第九「一二の駆けの事」より 平山季重)



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このページの背景は「十五夜」さんから頂きました。