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平家物語の

OPEN MAR.03.1999 UPDATE APR.26.1999.


このページは更新しないままで申し訳ありません。新しいページを作りました。「平家物語の馬の毛色と乗り手の装束」抜書きだけですが、良かったらご覧ください。2009.JAN.26

そもそも、平家物語を好きになったのは、教科書で読んだ、「宇治川の合戦」の場面を読んだ時。平家物語の中でも大きな山場のひとつ。そして、有名な『生ずき』『する墨』の二頭の名馬の出てくるシーンです。わくわくドキドキ☆

戦記物語ですから、他にも沢山の馬の出てくるシーンがあります。感動の名馬の話や、どんな風に馬が使われていたか、なども書かれています。

まず、このページには、馬の出てくる主な部分を簡単に、並べてみます。後ほど、それぞれに詳しい説明を加えていきます。なるべく、面白いところから、取り上げていきたいと思っていますので、お楽しみに☆

馬と旅行・特別編木曽馬に、木曽馬の写真と、乗馬体験レポートがあります。見てね。
サラブレッドしか御存知無い方は、びっくりするかも(笑)今のテレビや映画の馬が、当時のと、どんなに違うか、おわかりになると思います。



巻第一 殿下乗合(てんがののりあひ)

「平家一門でない者は、人ではない」とまで豪語する、平家の傍若無人ぶりは、人々のいぶかる所でした。中でも『世のみだれそめける根本』と物語の中に記されている事件は、まず平家物語に最初の、馬のでてくるシーンでもあります。

巻第一 願立(がんだて)

平家物語の時代ではなく、昔の話をたとえに語られている部分です。昔、関白藤原師通が、山王の神の怒りにふれて、重い病にふせって居るとき、その母がいろいろと『御祈』をしました。その中で、百座の釈迦阿弥陀の像を造ったり、百番の芝田楽、百番の相撲、などとあわせて、競馬、流鏑馬(やぶさめ)もそれぞれ百番行われています。競馬、流鏑馬(やぶさめ)などが、神事だったことが、わかりますね。



巻第三 御産(ごさん)

建礼門院の安産の為に、京中の人々がお見舞いに集まってきます。また、各地の寺でも祈祷がされます。

この時、小松のおとゞ(平重盛)は、様々な贈り物の中に、「御馬十二疋(ひき)」を贈っています。また、五条大納言邦綱と言う人も、「御馬二疋」を贈りました。 各地の神社にも「…伊勢より始めて、安藝の厳島にいたるまで七十余ヶ所へ神馬をたてられる。」また「大内(内裏)にも、龍(馬寮)の御馬に四手つけて、数十疋引っ立てたり。」と書かれています。

他の動物は、使われていませんから、やはり、馬は特別大切な生き物だったんですね。



巻第四 (きをほ(きおう))

このエピソードは、大変重要なのですが、以外と知られていませんね。
平家物語の中でも、名馬中の名馬「木の下(このした)」のお話です。

源仲綱は、宮中にまで名高い名馬「木の下」を持っていたが、ある時、平の宗盛に強引に頼まれて、貸してしまいます。宗盛は、「木の下」に「仲綱」という焼き印をして、さんざんに痛めつけ、笑い物にしてしまったのでした。(なんてひどいことを!!)

これをきっかけに、平家を倒そうとする人たちの戦いが、始まったとさえ言える事件なのです。

もう少し詳しいお話は「平家物語の名馬と出来事」へ

巻第四 橋合戦(はしがっせん)

高倉の宮〈以仁王(もちひとおう)〉が、平家を倒すべく挙兵します。
ここでは、宮方の武士足利又太郎忠綱が、騎馬武者や徒歩の侍達が、川を渡る方法として「馬筏(うまいかだ)」を作ることを、教えています。

巻第四 宮御最期(みやのごさいご)

高倉の宮は、健闘むなしく、平家方に返り討ちにされてしまいます。
宮方の武士達の最期の様子が、平家物語では文学的に美しく描写されています。



巻第五 早馬(はやむま(はやうま))

実はここには、特に馬の描写があるわけではなく、大場景親と言う人が、頼朝が謀反を起こした事を平清盛に知らせたシーンに、「福原へ早馬をもって申しける」と書かれているだけなのですが、章段のタイトルが「早馬」なので一応取り上げました。

巻第五 富士川(ふじがは(ふじがわ))

さて、ここは有名なシーンです。富士川を隔てて向かい合った、源氏と平氏。まだ見ぬ敵におびえる平氏は、水鳥の羽音を、敵の攻撃と勘違いして逃げだし、源氏頼朝方の不戦勝になりました。

平氏の武士達の逃げまどうシーン「…人の馬にはわれ乗り、わが馬をば人に乗らる。或はつないだる馬にのって杭をめぐる事かぎりなし。…」
何という情けない方たちでしょう。しかしこの頃の平氏は、武士といっても、すっかり貴族化していましたから、戦慣れしていないのも仕方が無いかも知れませんね。



巻第六 小督(こがう(こごう))

六巻では、亡くなられた高倉上皇の思い出が、いろいろ語られます。中でも小督の話は、みやびで、とてもかわいそうな、物語です。

高倉天皇(当時)は小督という女性を好いていますが、自分の娘に天皇の子供を産ませたい平清盛は、小督を疎ましく思っています。身の危険を感じた彼女は、天皇の前から姿を消します。
彼女を忘れられない天皇は、仲國という笛の名手に、琴の名手である小督を探し出すよう頼みます。そのときに天皇は、「龍(馬寮)の御馬に乗ってゆけ」と仰います。仲國は御馬を給わって嵯峨のあたりにいるという、小督を探しに行きます。



巻第七 北国下向(ほっこくげかう(ほっこくげこう))

壽永二年四月十七日、平氏は、木曾義仲を追討すべく、北陸道へ出兵します。これは、前年から予定していたことなので、各国には、「明年は馬の草がい(飼い)について、いくさあるべし」と、知らせてあったので、山陰、山陽、南海、西海の兵が、雲霞のごとくに集まったといいます。その総勢十万余騎。

「馬に草を食べさせる時期」、という表現が、いかにも馬を戦に使っていた時代らしいと思いませんか?



巻第八 名虎(なとら)

ここも昔の話。文徳(もんどく)天皇が亡くなって、一の宮と二の宮が、皇位継承を争ったとき、政治家達の会議の末、「…競馬相撲の節をとげて、その運を知り、雌雄によって寶祚(ほうそ)をさづけたてまつるべし」と、決まります。今では、考えられませんが、勝ち負けは、神仏の意思と考えられていたのですね。この結果、二の宮(史実では四の宮)が皇位について、清和天皇になります。

巻第八 征夷将軍院宣(せいいしょうぐんのいんぜん)

頼朝は、鎌倉にいたまま「征夷大将軍」に任命されます。法皇のお使い中原泰定が「院宣」をもってやって来ます。頼朝は「院宣」を受け取り、その入っていた箱に、金を詰めて返します。他にも、いろいろな贈り物をします。その中には、もちろん馬もあります。

お使いの帰る時のおみやげに、又いろいろ贈り物をします。「…萌黄の糸威の腹巻一両、白うつくったる(銀で飾った)太刀一振り、しげどうの弓、野矢そへてたぶ。馬十三疋ひかる。三疋に鞍置ひたり。家子郎等十二人に、直垂・小袖・大口・馬鞍にをよび、荷懸駄(にかけだ=荷物をつけた馬)卅疋(さんじゅっぴき)ありけり。…」

巻第八 法住寺合戦(ほうじゅうじがっせん)

木曾義仲は、法皇が義仲を追討しようとしていると知り、返って法皇と天皇を、捕らえて閉じこめてしまいます。

法皇が拠点としていた、法住寺の西の門を守っていたのは、源仲兼。法皇と天皇が連れ去られたと聞いて、敵の大群の中に討ち入って、五十騎が八騎までになるほど、さんざんに戦います。残った八騎のなかの、加賀房という法師武者は
「…白葦毛なる馬の、きわめて口こはき
(乗りにくい)にぞ乗ったりける『この馬があまりひあひで(はやりて?)、乗りたまるべしともおぼえ候はず(乗り切れません)』…」
というので、仲兼は、、、

もう一ヶ所、馬の出てくる所。勝ち誇った木曾義仲、討ち取った六百三十人の首を六条河原に掛け並べます。「…木曾其勢七千余騎、馬の鼻を東へむけ、天も響き大地もゆるぐ程に、時をぞ三ヶ度つくりける…」
旅に出るときも、「馬のはなむけ」をしますよね。縁起を担ぐ意味があるのでしょうね。



巻第九 生ずきの沙汰(いけずきのさた)

さあ、いよいよ宇治川の合戦です。冒頭にも書いた、「生食(いけずき)」「磨墨(するすみ)」のお話です☆

源頼朝は木曾義仲を追討すべく、二人の弟、大手に範頼、搦手に義経の軍をだします。

源頼朝は、「生食(いけずき)」「磨墨(するすみ)」という二頭の名馬を持っていました義経軍の梶原源太景季(かじわら げんた かげすえ)は、生食を所望しますが、頼朝は自分が非常時に乗る馬だからと、磨墨をわたします。ところが、佐々木四郎高綱(ささき しろう たかつな)が挨拶に行くと、頼みもしないのに生食をあげてしまうのです。頼朝という人は、何を考えていたのでしょうか。天才のすることは解りませんね。

さあ、生食に乗った佐々木を見た梶原は、、、

巻第九 宇治川先陣(うぢがはのせんぢん)

「佐々木四郎高綱の給はられたりける御馬は、黒栗毛なる馬の、きはめて太うたくましきが、馬をも人をも傍(あたり)を拂つて食ひければ、生食(いけずき)とは附けられたり。八寸(やき)の馬とぞ聞こえし。梶原が給はつたりける御馬も、極めて太うたくましきが、まことに黒かりければ、磨墨(するすみ)とは附けられたり。いづれも劣らぬ名馬なり。」

この名馬に乗った二人が、宇治川の先陣争いをします。この時代、戦場に一番乗りをするのは、ものすごい名誉であり、また、若武者の楽しみでもあった様に見受けられます。どんな駆け引きがあるのか…

巻第九 老馬(らうば)

さて、ここも有名な鵯越(ひよどりごえ)のシーンです。 一ノ谷の平家を倒すべく、裏手の鵯越という険しい岩場の坂を馬で下りて、奇襲をかけようというところ。

タイトルの「老馬」は、その時道がわからないので案内者はいないかというと、別府小太郎という若者が、「老馬に手綱をつけて、先に立たせてゆけば、道がわかる」と父に習ったと、言います。義経は「…「雪は野原をうづめども、老いたる馬ぞ道は知る」と云うためしあり」と言って、白芦毛の老馬に手綱をつけて、走らせます。

その後、武蔵房弁慶が連れてきた老人に、道を教えて貰いますが、「人が通れる道ではない。まして馬などとんでもない」と言います。それを聞いた義経は、「…鹿の通はんずる所を、馬の通はざるべきようやある。…」と言う有名な暴言(笑)をはきます。

馬と鹿は足の作りが違うのよね。馬は奇蹄目、鹿は偶蹄目。つまり、中指一本で歩いている馬に対して、鹿は二本指でしっかり、岩をつかんだり、バランスを取ったり出来るのだ。いくら、蹄の小さめの馬だって、無謀にも程がある。そこが、奇襲作戦の天才、義経の義経たるところなんだけどね。

巻第九 一二之懸(いちにのかけ)

さて、お次は熊谷次郎直実(くまがい じろう なおざね)、小次郎直家(こじろう なおいえ)親子です。義経の奇襲作戦では皆バタバタの状態で、伝統的な戦い方や一番乗りの手柄などは望めないので、抜け出して西側へ回って、一ノ谷の一番乗りの手柄をあげようとします。

この章には、いろいろ馬の描写が出てきます。

まず、熊谷がライバルの平山季重の様子を、見に行かせたシーン。
下人が馬に草を食べさせていて、「なんて長々食べているんだ」と怒って打っていると、「そんなことはするな、今夜は鎌倉殿(頼朝)に誓ったとおり、戦って討ち死にするつもりだから、その馬の名残も今夜かぎりだ」と言ってとめます。馬は、大切な運命共同体なのです。

熊谷親子は、平家の陣営に向かって、夜の内に出てゆきます。「…(熊谷は)権太栗毛と云ふ聞ゆる名馬にぞ乗つたりける。…(小次郎は)西樓(せいろう)と云う白月毛なる馬にぞ乗つたりける。…(旗指(はたさし)は)黄河原毛なる馬にぞ乗つたりける。…」

巻第九 二度之懸(にどのかけ)   平家物語の和歌へ

この章には、馬の描写は少ないのですが、すっごく面白くて好きな場面なので、取り上げておきます。

平家物語では、とかく悪者の梶原平三影時(かじわら へいぞう かげとき)と長男源太(げんた)次男平次(へいじ)親子の話。『一人当千の兵(いちにんとうぜんのつわもの)』梶原平三影時も、血気盛んな息子達のために、ハラハラしどうしです(笑)

源氏軍(ここでは義経軍ではなく兄の範頼軍)は平家の陣のある、生田の森に攻めていきますが、次男の平次は後の軍が続いて来ていないのに、どんどん先へ行ってしまいます。平三は使者を立てて止めようとしますが、「今更引き返せない」と、どんどん行ってしまいます。平三と源太は急いで後を追います。
さんざんに戦い、梶原勢五百騎が、五十騎にまで討たれて引き返して来ると、今度は源太がいません。また引き返して、五人の敵に囲まれている源太を探しだし、二人で敵を倒して、源太を抱えて、城外に出てゆきます。お父さんは大変。

ここの描写はこんな風です。
「…源太はいづくにあるやらんと、駆け破り駆け廻り尋ぬるほどに、案の如く、源太は、馬をも射させ歩(かち)立ちになり、甲(かぶと)をも打ち落とされ、大童に戦いなって、…(略)…梶原、これを見て、源太は未だ討たれざりけりと嬉しく思ひ、急ぎ馬より飛んで下り…」
また、平次の返事は和歌を使っているのです。
「平次、しばらく控えて、『もののふの取り傳へたる梓弓 引いては人のかへすものかは と申させ給えや』とて、喚いて駆く」
息子でさえこうですから、お父さんは推して知るべしのインテリです、無骨な義経と仲違いするのも、頷けるというもの?

本人達は真剣ですが、なんだかほほえましい親子です。憎まれ者も、人の子人の親なのでした。
一度攻め入って退却し、また攻め込んで行ったので、『二度之懸(にどのかけ)』というタイトルになっているのですね。

☆藤木の描いた源太のイラストもあります。 見てみる?


巻第九 敦盛最期(あつもりのさいご)

歌舞伎の「熊谷陣屋」へ/平家物語の「歌舞伎/熊谷陣屋」へ/落語の「お神酒徳利」へ

ここも、平家物語の中でも、大変有名なシーン。

熊谷次郎直実は、戦に負けて、沖の船に逃げてゆく平家の武者を、追いかけます。目を付けたのが、それは美しい装束の武士で連錢蘆毛(れんぜんあしげ)の馬に乗った若武者…海へさっとうち入れ、五六段ばかりぞ泳がせける…それを見た熊谷、大声で呼び止めます。

「…敵に後ろを見せ給うものかな。返させ給へ…」と、扇をあげて招きければ、招かれて取って返し、汀にうち上らんとし給ふ所に、熊谷、浪打際にておし並べて、むずと組んで、どうと落ち、取って押へて首をかかんとて…

顔を見ると、息子小次郎と同じくらいの若武者。きっとこの青年が死んだら、両親はさぞ悲しがるだろうと、一度は、断念しますが、後ろから味方の軍がやってくる。ここで助けても討たれるのは必至。ならば、せめて自分の手で殺して、ご供養をして差し上げた方がいい、と考えて、泣く泣く首を取ります。

後で聞けば、彼は平経盛の息子、平敦盛、十七歳だったのでした。
この二人については、人物のページでも、後ほどご紹介します。とにかく、面白い章なので、是非原文で読んで欲しい。感動しますよ。

この章、馬の描写はちょっぴりなんですが、お馬さん達みんな、鎧を着た武者を乗せて、泳いで逃げたんですね。大変でした。
『むずと組んで、どうと落ち』という描写が、ありますが、最近の馬の、つまりサラブレッドの高さ(体高160pくらい)の感覚だと、馬の背中から落ちたら、攻め手の方も怪我をしてしまいそうですが、この時代の馬は、木曽馬など日本在来種で、体高は140pあったら、高い方だったのです。今のイメージだとポニーみたいですね。乗り降りも楽だし、耐久力もあって、実用的だったんです。


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このページの背景は「Queen's World 」さんから頂きました。